一 女王陛下の猟犬
庭園に初夏の日差しが降り注いでいた。
この庭園はアルジオス王国至高の座に座る者ただ一人を楽しませるだけに造園されたものである。
現在、その贅沢を許される人間の名は、シエルリーズ・アリア・エル・アルフリームという十七歳の女王であった(ごく一部の人間は、彼女のことを「シエル」と呼ぶ)。今年の十月で十八歳となるが、一国の王としては若過ぎると言わざるを得ない。
即位したのは、わずか三ヶ月前のことだった。
三ヶ月前、北方の半島国家であるアルジオス王国では、海峡を挟んで南方に位置する〈帝国〉との政略結婚問題を端に発した親〈帝国〉派と反〈帝国〉派による王都内乱が発生。内乱よって先王が斃れ、先王の娘で内乱の勝利者でもあるシエルリーズが即位していた。
彼女が勢力圏を拡大したい〈帝国〉、そして保身のために〈帝国〉への売国を目論んだ一部の大臣や貴族たちの目論見を潰したまではよかった。
王国の継承者となったシエルリーズは、それによって彼女と〈帝国〉の皇子との政略結婚の話を自然消滅させてしまったのだ。
シエルリーズ女王との結婚は、それだけでアルジオス王国の政治外交に多大な影響を及ぼせる以上、〈帝国〉以外の諸外国も注目する。
そのために、〈帝国〉としてもアルジオス王国に過度な干渉は出来なくなってしまったのだ。〈帝国〉は歴史的に西のガリア王国との対立を抱えている。北方の問題にばかり囚われて、西方を疎かにするわけにはいかないのだ。
問題は、即位後、シエルリーズの政策に反対する貴族たちが内乱の火種になっていることであった。実際、すでに一部の貴族たちが女王に反旗を翻し、武装蜂起していた。
池に突き出した東屋にいるシエルリーズは、不機嫌そうな溜息をついた。
きらきらと光る金色の髪は腰まで届くほど長く、瞳は碧く、肌は透き通るように白い。華奢な体つきで、顔は造物主が己の手で特別に彫琢したと思えるほど美しかった。
ただ、本人はあまり美醜について頓着しない性格で、服装は白を基調とした装飾も刺繍もない、いたって簡素なものだった。
「将軍、報告を」
シエルが命じた。女王らしからぬ、ぞんざいな口調だった。彼女は大抵の場合、その態度で通してしまう。わざわざ女王らしい態度を演じるのは虚飾だと思っているが故だ。
「はっ」
大貴族の道楽息子、といった顔つきと態度の伊達男―――ヴィクトール・シュテルンベルク中将は背筋を伸ばした。
「やはり、ザイデルマン公爵に反乱の動きが」
シエルは軽く頷き、先を促す。
「公爵はあちこちに人を遣っています。どうやら他の貴族と同盟の密約を結んでいるようで。公爵の管轄であるイルセルク貴族領での商人の動きも活発化しています。それと、こちら側に不平貴族どもに内通している者がやはりいるようです」
「内通者の特定は?」
「残念ながら」
「そう」
シエルは簡潔に答えたが、内心では苦く思っている。信頼出来る情報なのか、とは問い返さなかった。シュテルンベルクは三十三歳と若いが、彼はこの国最高の諜報官なのだ。
現在、王国では一部の貴族たちによる反乱やその未遂事件が続発している。
シエルは即位後、貴族の免税特権など、彼らの既得権益を大幅に削った。彼女の政策は、どちらかといえば平民寄りのものであった。
別に彼女は平民が好きでも、彼らからの人気が欲しい訳でも何でもない。ただ、実力も才能もなく、また努力もしていないのに地位や権力、特権を得ることの出来る制度が嫌いなだけだった。
王族や貴族にはそれなりの義務が伴う。そうした義務を果たして初めて、王や貴族を名乗る権利があると、彼女は思っている。義務を果たさないのならば、そのような人間は親から地位を受け継ぐべきではないのだ。
その主張に同意できない人間が、シエルの即位後、不満をため込んでいた。ザイデルマン公爵の一件もそうした不平貴族の暴発の一つだろうが、今回の場合は下手を打つと国土を二分する内乱になりかねない。
イルセルク貴族領を治めるザイデルマン公爵を筆頭として、領の下の区を治める貴族、また周辺の貴族領からも反乱に加わる者が出てくるだろう。各領軍の兵力を糾合すれば、馬鹿に出来ない戦力となる。
「それと、公爵の元に潜入させた諜報員が、数日前に消されています」シュテルンベルクが言った。「ただ、死ぬ前に報告は寄こしていました。どうも公爵の手の者が暗躍していたようです」
シエルは溜息をついた。
「やってくれたわね、と言うべきかしら?」
彼女は皮肉げに口元を歪めて見せた。
権謀術数、計略、陰謀、政敵の暗殺、戦争、そういった行為のすべてを、彼女は好きになれなかった。それをこなす自分も、嫌悪の対象であった。皮肉に笑っていなければ、やっていられない。
「こちらも、あまり人のことを言えた義理ではないと思いますが」
何気ない口ぶりで、シュテルンベルクは言った。一国の女王に対して、あまりに不遜な態度であった。
シエルは彼を軽く睨んだ。別に、彼の態度に気分を害した訳ではない。
「やなとこ衝いてくるわね、将軍」
「陛下、私は常々、酷い世界で暮らしているものだと思っているのです」
つまらない冗談でも口にするような調子で、しかし口元は皮肉そうに歪めて若い中将は言った。一国の元首に対する口調や態度ではないが、必要以上に気安い態度でもない。シュテルンベルクは決して馬鹿ではない。そうでなければ先王の時代から政治的地位を保てるはずもなく、また幾つもの政治的工作や諜報工作を成功させてこられたはずもない。
「反論すべき材料が見当たらないわね」吐き捨てるような調子でシエルは言った。「でも、こんな世界がいつまでも続けばいいとは思わないわ」
「望みは叶うものですよ」慰めるような口調でシュテルンベルクは続ける。「願望に自分の能力が見合ってさえいれば、の話ですがね」
シエルは皮肉げな微笑みを浮かべた。
「将軍、あなたはその態度を何があっても直さないつもりね」
「こればかりはいかにあなた様の仰せでも、陛下」
シュテルンベルクは芝居がかった動作で、臣下の礼を取ってみせた。
「まあ、別にいいわよ」ひどくぞんざいな口調でシエルは言った。「それじゃあ、将軍は引き続き調査を。この件は将軍に任せるけれど、私だけでなく他の情報機関へも連絡は絶えず入れること」
「御意」
シュテルンベルクは一礼して立ち上がった。そのまま東屋を出ようとするが、直前で足を止める。
「私は政治というものを非常にお粗末な喜劇と見ているのですが」彼は言った。「陛下の演じる劇だけは、少しばかり長く観賞してみたいと思っています」
◇◇◇
庭園を出、王宮内の回廊を歩いていたシュテルンベルクは、反対側から歩いてきた一人の男と遭遇した。
全身を動きやすそうな黒い服で包んだ痩身の男の身長はせいぜい一六〇センチを少し越した程度で、まったくの小柄だった。髪は黒く、眼は特に何色ともいえない淡い色をしている。その瞳の奥には、シュテルンベルクが今まで見た中で一番冷徹な光を宿していた。
顔の造りは整っているが、とりたてて美男子というほどでもない。どことなく野性味の伴う容貌だった。
男はシュテルンベルクの姿を見ると、唇の端を持ち上げて翳りを帯びた薄笑いを浮かべた。
人生が不運な笑い草でしかないことを悟り、それに皮肉な笑みを向ける以外になすすべがないと決めた男の顔であった。
腰に剣を下げ、腰帯の後ろに交差させた形で短剣を括りつけているその男は〈ジャッカル〉の二つ名を持っていた。
先に声をかけたのは、シュテルンベルクであった。
「いつもながら完璧な仕事ぶりに敬服するよ、ジャッカル君」
「お褒めに与り恐悦至極」
皮肉を含んだ口調で、〈ジャッカル〉ことレオンという名の男は答えた。彼は現在、十七歳らしい。らしいというのは、レオンが孤児であり、正確な誕生日が判らないからだ。本当は十六歳かもしれず、十八歳かもしれなかった。
ただ、彼を拾ってきた女王陛下(当時は王女殿下だったが)が、自分と同じ年齢にしただけだ。
「蜂起したバーゼルト辺境伯の首を、たった一人で取ってくるのだから恐れ入るね」
「取りあえず、俺の仕事はこれで終了かな?」
レオンはにぃと嗤ってみせる。
「少なくとも、バーゼルト辺境伯の件はな」シュテルンベルクはそう答えた。「彼の貴族軍が瓦解するのも時間の問題だな。頭を失ったのだから。後は、平民から徴兵された者たちが離脱していくだけだろう」
そう言って、シュテルンベルクはひらひらと手を振った。
「それでは、私はこれで失礼するよ。情報部の方で仕事があるもんでね」
◇◇◇
レオンは庭園へと続く小径を歩いていた。武器は携行したままだった。彼はそれが許された数少ない人間の一人である。
彼は女王直属の私兵とでもいうような立場にあり、親衛隊の人間ですら彼の存在を煙たがっている。もっとも、彼は周囲からの評価など一切気にしない性格であったが。
彼が探していた庭園の主は、東屋に居た。勾欄に両肘をついて、水面を眺めている。レオンはその背中に声をかけた。
「おい、せめて護衛の人間くらいは配置しておけ」
シエルは振りかえり、呆れと剣呑さの混じった視線をレオンに向けた。
「帰ってきたと思えば、いきなり文句?」
彼女の口調は、シュテルンベルクに対してのものよりも、はるかに気安いものだった。
レオンはシエルが唯一、気兼ねなく会話出来る相手だった。二人だけの時は素の態度で応じるように、わざわざ言いつけている程だ。ただ、レオンという人間は相手が誰であろうと普段通りの調子を崩さないのだが。
かつて母親がつけた「シエル」という愛称で呼ぶことも許している。もっとも、レオンがその愛称を呼ぶことは滅多にない。
大抵が、「あんた」、「お前」というような一国の元首に対するとは思えない呼び方である。それが気安さによるものなのか、自分と一定程度の距離を取るという意思表示の現れなのか、未だシエルは判断しかねていた。
「たまには一人になりたい時だってあるのよ。それに、貴方相手に堅苦しいやり取りするのも馬鹿らしいじゃない」
「ああ、そうかい」
レオンはどうでもよさそうな口調で応じた。
表向き二人は主従関係であるが、レオンに忠誠心など微塵も存在していない。七年前に出逢った時から、二人の間にあるのはたったひとつの「約束」でしかない。
「だいたい、何でわざわざ気配も足音も消して現れるのよ」シエルは軽く毒ついた。「嫌がらせのつもり?」
彼女は勾欄に引っ掛けてある杖を掴むと、左足を引き摺るようにして椅子につく。
シエルは三ヶ月前の内乱で左足を負傷し、医師からは一生まともに歩けないだろうと診断されていた。
「それで? レオン」
シエルが問うた。口調は先ほどまでとは打って変わった、真剣なものだった。
「殺してきた。お前に言う通りに」
これ以上ないほどに冷徹な口調で、レオンは答えた。
「そう」
それは苦さと自嘲を含んだ声音だった。シエルにとって、自分の裁量で意図的に人を殺したのはこれが初めてではない。だが、決して慣れるものではなかった。
彼女は重く深い息をついた。
「……慣れる必要なんかない」
シエルの内心を読んだかのように、レオンが言った。
「お前はそのままでいろ」
シエルはレオンの顔に、自虐の影を見た。彼は続ける。
「俺みたいな人間になる必要はないんだ。お前には、人を殺して平然としているような人間にはなって欲しくない」
自分を見つめる表現し難い色の瞳を、シエルは覗き返す。慰められているのに、何故か悲しくなるような慰め方だと思った。
シエルがレオンの瞳に見ているのは、今も昔も深淵のような虚無だった。「あんたは、この世界が綺麗だとか、人間が善いもんだとか、本気で信じているのか」と。
そう言った時の彼の表情は今でも覚えている。まだ子供なのに浮かべた、諦観と世界に対する嘲弄の混じった歪んだ笑み。
彼をそうしてしまったこの世界が許せないから、七年前、自分は約束したのだと思う。
人間がまだまだ捨てたものじゃないってことを教えてあげる、だから、少しだけでもいいから私に期待していなさい、と。
「……まったく、もうちょっとましな慰め方は出来ないの?」
気を取り直すために、シエルは毒ついてみた。
「俺は殺す方、お前は創る方だからな」
「ほんと、貴方は大した悪党ね」
「お前に頭を撫でてもらえて光栄の極みだよ」
レオンの顔には、あの皮肉げな笑みが戻っていた。わずかな自嘲も混じる笑みだった。シエルは軽く息をつく。
「さっき回廊でシュテルンベルク中将とすれ違った」レオンが言った。「何か問題が起こったか?」
「問題?」シエルは憮然として言った。「ええ、問題だらけよ。イルセルク貴族領がきな臭くなってくるし、王宮には不平貴族たちの内通者がいるらしいし」
「どうやらシエルリーズ女王陛下は相当な嫌われ者のようだな」
「言うことはそれだけ?」
シエルはレオンを睨んでみるが、さして意味のないことは判っていた。
「何を言えって言うんだ?」レオンは答える。「よし、言ってやる。国中から膿が出るのは判っていたことだ。その膿への対処する術を、お前は持っている。それを使えばいい」
シエルは渋面を作った。この、自分にとってたった一人の友人が何を言いたいのかは判っている。
「躊躇をするな」レオンは鋭く言い放った。「大規模な内乱に発展した場合のことを考えろ。軍事費だけでも国庫の金を喰う上に、農民は農地を荒らされる危険に怯え、商人たちも落ち着いて商売が出来なくなる。必然的に景気が落ち込む。景気が落ち込めば、税収も減る。例え反乱を鎮圧出来ても、莫大な財政赤字が残る。増税は論外だな。景気をさらに落ち込ませるだけだ。結果として起こるのは社会不安だ。そして最悪、貴族反乱どころではない内乱が起こる可能性もある」
孤児であったレオンをシエルが従者にした後、彼は必死になって勉強をした。まるで、学を身に付けることが己の身を守るとでもいうがごとくに。
子供の頃から聡い彼は、頭のいい人間が世の中を好き勝手にしていることを知っていた。
学がなければ、喰いものにされる。
それを多分、彼は孤児であった経験から学んでいたのだろう。
シエルは思い切り息を吐き出した。レオンの発言の内容は、彼女も心配していることであった。
シエルは癖のない長い髪を指先に絡めてくるくると弄んだ。傍目から見てもはっきりと判るほど、苛々していた。
思わずレオンは苦笑する。
「……何だか、貴方の才能をこのまま私の下で腐らせてしまうのは惜しいわね」
ようやくシエルはそう言った。皮肉でも言っていないと、やり切れない気分だった。
「そうかもしれない」レオンは言った。「だが、俺は気にしてないがな」
「少しは自分の才能を有効活用すべきよ。と、言う訳で、私の為にお茶を淹れてきなさいな」シエルは悪戯っぽい笑みを浮かべた。「貴方の所為で、最近、女官たちの淹れたお茶がますます不味く感じるようになって困ってるのよ」
「そいつはどうにも素敵だな」
レオンにお茶淹れの技術を叩き込んだのは、シエルだった。最初は、毒殺などを警戒してやらせていたのだが、どういうわけかその内女官たちよりも上手くなっていた。
「出来ればお茶菓子も作ってもらいたいけど」
「御命令とあらば、お茶菓子でもお食事でもお作りいたしますよ、陛下」
レオンは恭しく言った。もちろん演技だが、中々堂に入ったものだった。シエルはそれを見て、少しふざけてみたい気分になった。
「じゃあ、来世は私専属の料理人ね。決定」
レオンは迷惑そうな顔をした。
「来世もお前に付き合うのか?」
「だって、私の側にあなたがいてくれないと、私が落ち着かないんだもの」
レオンは唇を捻じ曲げ、諦めたように息をついた。
「御意のままに、陛下」
すっと臣下の礼を取るレオンを見ながら、シエルは考えた。
レオンの言った危険性を排除するには、早急に邪魔者を排除するしかない。そのためには、自分の手駒を最大限有効に使うのが最上だろう。
「ねえ、レオン」
「ああ?」
「状況が落ち着くまで、貴方には忙しく動いてもらうから覚悟しなさい」
レオンは意外そうな表情を見せなかった。なんだそんなことか、とでも言いそうな顔をしている。
「断る理由はないな」レオンはにやりと唇を曲げた。「二人で一緒に地獄行きだ」
アルジオス王国のモデルは、十六世紀のスウェーデン王国やエリザベス一世の御代のイングランドです。地理的にはスウェーデンに近いです。
もちろん、〈帝国〉は神聖ローマ帝国、ガリア王国はフランス・ブルボン王朝です。
この作品を思いついた頃、ちょうど近代国家と近代的軍隊の成立について調べていたのを思い出します。