想定外
もう全部が終わったと思った。
これまでのこと、これからのこと、すべて、何もかも失うのだと思った。
黒い羽が視界を覆うまでは。
「――きゃぅっ!」
莉子さんが目の前から消えた。
ぎゃあぎゃあとカラスの鳴き声が林の中に響く、その中心。
新たに私を見下ろすのは、漆黒の翼を持った、ヒト。
山伏のような格好をして、顔の上半分だけを隠すお面をつけて、背中の羽さえ見なければちょっと変わった格好のただの人のようであるけど、その本性は大勢の小天狗たちを統べる主――――東山の大天狗様は、倒れたままの私を抱え上げた。
「おひさしぶりですね、佐久間殿」
お面に隠れていない口元が、きれいな微笑みを形作る。
それから大天狗様は正面を見据えた。
大天狗様の視線を辿ると、枯葉にまみれて転がる莉子さんの姿があった。
周囲の木々には大天狗様の子分である烏天狗さんたちが太刀を抜き、鳴き声で莉子さんを威嚇している。
莉子さんは素早く立ち上がると、スカートのポケットから紙片をいくつか投げた。
それは、よく見れば人の形に切り抜かれたもので、まるで意思を持っているように宙を飛び回り、烏天狗さんたちを撹乱する。
たぶん以前、白児さんを探す時に天宮くんが使っていた式神というものだ。
烏天狗さんたちが顔に貼りつく紙人形に動揺している隙に、莉子さんは囲みを抜け、両手を素早く動かしながら何かを叫んだ。
「・・・身の程知らずな」
大天狗様はつぶやき、黒い羽を空間いっぱいに広げた。
同時に、衝撃が周囲を襲う。
大天狗様は、その大きな羽を広げただけ。
それだけなのに、大天狗様から発せられる見えない力が、辺りの空気をびりびりと震わせ、生ある者を恐怖させる。
大天狗様に抱きかかえられている状態の私でも、体が竦む。
怖い。
ただただ、怖い。
相対する莉子さんも、震えていた。さっきは大天狗様へ果敢に突撃しようとしていたのに、その場から一歩も動けなくなっている。
目を見開き、口を半開きにして、広がる漆黒に怯えていた。
そして大天狗様がわずかに身じろぎした途端、即座に踵を返して走り出す。
「逃がすな」
すかさず大天狗様の命令が烏天狗さんたちに下った。
「捕らえて八つ裂きにせよ。骸は木々の枝にかけ、鳥どもの餌とせよ」
「っ、や、やめてくださいっ!」
我に返り、私は大天狗様に慌てて取り縋った。
すると大天狗様は小首を傾げるような仕草をする。
「貴女に狼藉を働いた者です。相応の罰であると思いますが」
「わ、私は平気です! どうかひどいことをしないでください! お願いします!」
「ですが、ここで息の根を止めておかねば、再び襲って参るやもしれませんよ」
「そんなことありません!」
本当は、大天狗様の言う通りかもしれないけれど、でも関係ない。絶対に莉子さんを殺させてはいけない。
「お願いですっ、何もしないでください、殺さないでくださいっ。なんでもしますからっ・・・」
怖くて、とにかく必死で、涙がぼろぼろ零れてきた。
大天狗様はそれに小さく肩を竦め、
「そこまでお願いされては致し方ありませんか」
そうして、追跡しようとした烏天狗さんたちを止めてくれた。
よかった、これで莉子さんは無事だ。
一度あふれた涙はなかなか止まらなかったけど、少し安堵した頭は徐々に冷えてきた。
右手は莉子さんの爪の痕があるだけで、まだどこも切られていない。ちょっとひりひりするだけだ。
とりあえず助かった、けど、どうして大天狗様がこんなところにいたんだろう?
「あっ、あの、大天狗様。どうして、ここ、に?」
しゃくり上げながら訊いてみると、大天狗様の指先で涙を優しく払われた。
「所用で鞍馬まで出かけておりまして、その帰りに偶然通りかかったのです。まさか貴女が天宮の者に襲われているとは思いもよらぬことでありました」
「・・・? 莉子さんを、ご存知、なんですか?」
「それはあの者の名ですか? いえ、存じません。失礼ながら隠れて話を盗み聞いておりました」
「え・・・」
隠れて聞いていたって、私と莉子さんの会話を?
ちょっと、それって、かなりまずくはないですか?
「お可哀想に、大切なお体に傷ができていますね。我が宮で手当てを致しましょう」
私に断る隙など与えず、大天狗様は闇に染まりゆく空へ羽ばたいた。
❆
はや夕飯時を過ぎ、天宮煉は仕事衣装の狩衣に着替え、夜回りの準備を整えていた。
控えの間として利用されている広間には、珍しく彼の兄と姉の顔が二つそろっている。
大抵はどちらかが、外部からの妖怪退治の依頼でいないことが多いのだが、こういう夜もたまにはある。もう一人いる兄はそもそも家におらず、夜回りにはずいぶん長く参加していない。
いつもと変わらぬ、この家の夜の風景に、突如として静寂を破る声が響いた。
「りーちゃんかしら?」
椿がつぶやいたと同時、莉子が襖を開け部屋に飛び込んできた。
ひどく慌てた様子で靴も脱がず、髪は乱れ、一体どこを通ってきたのか服のあちこちに枯葉や泥を付けている。
顔を真っ赤にして、激しく呼吸を繰り返していた。
「どうした?」
莉子が突然訪ねて来るのは今に始まったことではない。が、様子がおかしい。
煉が近づくと、莉子はその着物に取りついた。
「てん、天狗っ!」
「は?」
「さらわれた! さらわれちゃったの!」
莉子はひどく興奮しており、まったく状況が周囲へ伝わらない。
「あれはきっと大天狗だよ! 東山の妖怪がどうしてあんなところにいるの!? 莉子一人じゃどうしようもっ・・・」
「落ちつけっ」
煉は錯乱している莉子の細い肩を掴んで引き離し、その目を覗きこんだ。
「何があったのか、ちゃんと話せ」
「お、大天狗が」
莉子はこくりと一度唾を飲み込み、
「大天狗が佐久間さんを連れて行っちゃった!」
叫んだ瞬間、その場にいた全員が咄嗟に腰を浮かせた。
「・・・どういうことだ?」
焦るよりもまず、煉の頭に浮かんだのは疑問だった。
「だから大天狗が佐久間さんをさらってったの! あそこには妖怪なんていないはずだったのにっ、莉子はちゃんと調べたんだもん! あんなの予測できない!」
「待って、りーちゃん。ユキちゃんはどこでさらわれたの?」
椿もいぶかると、莉子は泣きじゃくりながら答えた。
「莉子んちの近くの林! あそこには妖怪なんていなかった!」
「お前の家、って、まさかまた佐久間を連れ出したのか?」
煉は莉子から手を離し、携帯を懐から取り出すと少女へ電話をかけた。
天狗の宮にいれば繋がらないが、もしまだ山に入っていなければ電話に出るかもしれない。とりあえずは無事を確かめたい。
すぐさま聞こえ始めたコール音に煉はやや期待したが、
「出ないよ」
袖で涙を拭いながら、莉子が言った。
煉は携帯から耳を離し、そちらを見やる。
「莉子が、家に携帯置いてけって、言ったから」
「は? どういう――」
「誰にも邪魔されたくなかったの!」
体の横で拳を作り、莉子は叫ぶ。
「こんなことになると思わなかったんだもん! だってあともうちょっとだったのにっ、まさか大天狗が出て来るなんて思うわけないでしょ!?」
「待て」
煉は、言い知れぬ不安を感じて、いとこの言葉を遮った。
「お前、佐久間に何をした?」
大天狗に彼女がさらわれた、その理由はいい。
もともと大天狗は彼女を欲していたのだから。
だがなぜ、莉子はわざわざ彼女に携帯を置いていかせ、夕方に林の中などという場所へ連れて行ったのか。
「莉子は皆を助けようとしただけだもん!」
煉をまっすぐ見返し、莉子は必死に訴えた。
「所詮あの人は天宮じゃないもん! いつ裏切るかもわからないのにこんな緩い監視続けて不安に思ってるくらいなら、莉子が解決してあげようと思ったの! 全部、計画通りいってたもん! あとは右手を切っちゃうだけでよかったのに! 莉子はこんなにがんばったのに、天狗なんかのせいでうっ!?」
まくし立てていた莉子は、突然胸ぐらを掴まれ声が止まった。
「――お前、佐久間の手を切ろうとしたのか?」
苦しげに喘ぐ相手に、しかし煉は少しも容赦せず、なお一層強く締め上げる。
「おい煉、やめろ」
翔が見かねて止めようとしたが、すでに煉の怒りは噴き出していた。
「ふざけんなっ!!」
力まかせに襖へ莉子の華奢な体を叩きつけ、ずるずると落ちる娘をなおも放さず上を向かせて怒鳴りつける。
「俺らの勝手な都合はっ! 佐久間を傷つけていい理由にはならねえんだよっ!」
煉は莉子を乱暴に投げ捨て、部屋を出る。
「おい、待っ――」
「一人でいいっ」
言い捨て、誰も追って来ないうちに夜闇の中へ駆け出した。




