自己犠牲
駅前の店先を見て回ってから、すっかり夕暮れになった頃、莉子さんに手を引かれてお家へ向かった。
賑やかな繁華街を抜けると、閑静な住宅街が広がっており、この辺の雰囲気は私の町と同じで、ようやくほっとする。
「同い年の子が泊まりに来るの、ほんとに初めてなのっ。煉も泊まりに来たことないし」
莉子さんはずっと私の手を握ったまま、先ほどからひっきりなしに喋っていた。
「小さい頃は本家で修行してたんだけど、中学からはこっちに移ったの。最初はそれはもー、つまんなかったよ。その前は修行はつらかったけど、毎日煉と会えて幸せだったのに。移ってからはちょっとずつ会えなくなっちゃったの。――でもね、莉子が会いに行けば煉は絶対遊んでくれるのっ」
話の内容はやっぱり天宮くんのことばかりだ。
「煉って結局、甘いのよ。押せば引いちゃうし、優しいから、面倒なことも背負っちゃう。損な性格してるの。でも、そういうとこ莉子はかっこいいなあって思うな」
そう言う莉子さんの顔は、私のほうからは見えないけれど、たぶん、幸せそうなんだろうなあと思う。
「ぶっきらぼうでも本当は気にかけてくれてて、どんな時も必ず守ろうとしてくれて、ああ見えてすっごく男らしいのっ。煉が傍にいてくれるだけで、安心するの。佐久間さんもそうでしょ?」
ほとんどずっと前を向いて喋り続けていた莉子さんが、いきなり振り返って、私は咄嗟に何も言えなかった。
そうでしょ、と訊かれて素直に頷いていいものか迷ったのだ。
莉子さんの言ったことは私も思ったことがある、けど、肯定したら莉子さんに変に勘繰られてしまうのではないかと心配で、でも否定したら天宮くんをけなすようなことになるから、やっぱり莉子さんが怒るかなとか、考えたらわからなくなった。
困って曖昧に笑い返すと、莉子さんが、すっ、と目を細めた。
「佐久間さんも、煉のこと好きでしょ?」
あまりに唐突で、びっくりして、ごまかそうとしたけど繋いだ手から震えが莉子さんに伝わってしまう。
いや―――
私は、そこでやっと、莉子さんと手を繋いでいないことに気づいた。
いつの間にか、手首を掴まれていた。
「好きでしょ?」
莉子さんは歩みを止めず、重ねて訊いてくる。
私たちは町のはずれのほうへ。
辺りはすでに、薄闇に包まれている。
「あ、あの、どこに行くんですか?」
尋ねた時が、あまりに遅過ぎたのかもしれない。
莉子さんは躊躇なく、近くの雑木林の中へ入った。
「―――あのね? 莉子、佐久間さんにお願いがあるの」
林の奥で、右の手首を掴まれたまま莉子さんと向き合う。
笑みを消した彼女は真顔だった。
「パパに佐久間さんのことを聞いて、莉子、思ったの。自分で自分の身を守ることすらできないような人は、きっと約束だって守れないんじゃないかなあ、って。本人に裏切るつもりがなくたって、無知で無力な人間はすぐにはめられる。今だって佐久間さん、簡単にこんなとこに連れて来られちゃったでしょ?」
少しずつ光を失う世界の中で、彼女の大きな瞳だけが美しい。
「佐久間さんは赤ちゃんみたい。何も知らないし、何も疑わない。何が危ないのかがわからない。妖怪どころか古御堂にまで目を付けられて、さ。やっぱりね、そんな子を守るのはすごく難しいと思うの。佐久間さんが悪いって言ってるわけじゃないよ? でもね、こーゆーのって、善悪じゃはかれないことなの。要は、何を一番大切にするかなんだよ」
手首を掴む、細い指に力がこめられる。
そのまま皮膚を突き破りそうなくらい。
「莉子の一番大切は、家族だよ」
莉子さんは強く言い放った。
「今の状態の佐久間さんをずっとずっと守っていくことは、天宮にとってすごく負担だし、すごく不安なの。当主が様子を見るとおっしゃったから処分が保留になってるけど、まさかずーっと死ぬまで煉が隣で守ってあげられるわけないでしょ? 佐久間さんだって、毎日監視されて行動を制限されて、少し遊びに行くのもいちいち気にされるなんて、イヤでしょ? うんざりじゃない? もっと普通に、煉と友達になったり恋人になったりしたいんじゃない? だからね? これはお願いでもあるし、提案でもあるの。もし、煉のことが本当に好きなら、大人しくしてて?」
そうして、莉子さんがショルダーバッグから取り出したのは―――ナイフ、だった。
果物を切るような可愛いものじゃない。
刃渡りが十センチ以上もありそうな、凶悪な形のもの。
「安心して。大丈夫、殺すわけじゃないよ」
莉子さんの声音は、場違いなほどに優しく、落ちついていた。
「佐久間さんが絵を描けなくなれば全部解決でしょ? だから利き手、右手だよね? 切っちゃおうよ」
「――っ」
「止血の用意もちゃんとあるよ。だから、ね? 怖くないよー、痛くないようにしてあげる」
莉子さんは笑っていない。
黒い瞳がどこまでも澄んでいた。
「やっ・・・!」
咄嗟に、右手を思いきり引き抜く。
莉子さんも利き手は右だ。食事の時にフォークを右手で持っていた。
私の手首を掴んでいたのは左手だったから、全力を出せば逃げることはできた。
ナイフと、真顔の莉子さんと、どちらも怖くて仕方がなかった。
けど、身を翻した途端に、後ろから服を掴まれ引き倒される。
枯葉の積もるその上に仰向けに倒れ、目を開けると莉子さんに覗きこまれていた。
「・・・今、どうして逃げたの?」
きょとん、としている。
まるで理解できないと言うように。
「佐久間さん、煉のこと好きじゃないの?」
平静であった声が、徐々に大きくなっていく。
「佐久間さんは、煉より絵を描けることのほうが大事? 佐久間さんの一番大切は自分なの? 佐久間さんは、煉や莉子たちが死んでもいいと思ってるんだ!?」
「っ!」
莉子さんがナイフを大きく振りかぶる。
慌てて地面を転がり避けたが、刃先で服の端が切れた。でもそんなことには構っていられない。
目標を外し地面に刺さったナイフを莉子さんが抜く前に、また駆け出す。
「どうして逃げるの!?」
転びまろびつ走る背後から、莉子さんの非難の声が飛ぶ。
「やっぱり佐久間さんは煉のこと好きじゃないんだ! いっつも煉に守ってもらってるくせにっ、煉がいなきゃすぐ妖怪に喰われちゃうくせにっ! 煉のために手ぇいっこ差し出す度胸もないんだ! どうせ莉子たちのことなんか便利屋くらいにしか思ってないんでしょ!? 昔からそうだよ人間は! 天宮に面倒なことぜーんぶ押しつけてっ! なのに天宮の脅威になるなんてどういうつもり!? 佐久間さんは煉を殺したいの!?」
「ちがっ―――」
否定しようと振り返ったと同時に、片足が滑った。
「っ!」
落ち葉が濡れていたんだ。しかも先に段差があって、走っていた勢いのまま転がり落ちた。
衝撃に一瞬息が詰まり、でも慌てて立ち上がろうとしたところへ、上から降ってくる莉子さんが見えた。
「つーかまえたっ♪」
踏み潰されるかと身構えたけど、莉子さんは私を器用に跨いで着地した。
そして逃げられないよう、胸元を膝で押さえつけられる。
肺を圧迫されて、変な音が口から漏れた。
「本当は殺したいくらいムカついてるけど莉子はエライから殺さないよっ。今日は右手だけ。でも左手で絵の練習しちゃダメだよ? そしたら莉子、また切りに来るから。―――じゃ、やっちゃうね?」
もう片方の膝で手首を踏まれ、指を広げられる。
顔の高さまで、ナイフを振り上げる動作が、とてもゆっくりに見えた。
わかってる。
右手を切られたからって、死ぬわけじゃない。
けど―――死ぬ。
絵を描けなくなったら、私は死ぬ。
視界が、闇に覆われた。




