怪異
夢うつつの中、遠く霞みがかった向こう側に、巨大な何かの影を見た。
それがとてつもなくおそろしいものであることは、なんとなく知っている。なるべく離れたほうがいいけれど、あれが見えない場所に逃げることはできない。
昔、おじいちゃんが言っていた。
この世にはどうしても逃れられないことがある。
それは例えば死。例えば、出会い。
「――・・・」
目を開けると、黒いまだらの天井が見えた。周囲を薄緑色のカーテンに囲まれて、その向こうから人の声がする。
ここは、病院?
空間に満ちる消毒液のような匂いから、そう思った。昔おじいちゃんが病気で入院した時、この匂いを何度も嗅いだ。
起き上がろうとすると手足が鉛のように重く、まるで激しい運動をした後みたいに全身がだるい。
どうしてかな。
それでもなんとか起き上がって、カーテンを開けると、すぐ目の前にお母さんがいた。
「あ、起きた! よかった~」
こちらを振り返って、大げさに胸をなでおろしてる。
誰と話していたのかと思えば、担任の鈴木先生と、相馬先生の顔が向こうにあった。鈴木先生なんかはジャージ姿で、急いで駆け付けたみたいな感じ。
どちらの先生も、うちのお母さんと同じようにほっとした顔をしている。
私はちょっと、まだ、事態を把握しきれていなかった。
「あんた大丈夫? 気分はどうなの? どこか変な感じはしない?」
なのにお母さんは遠慮なく問い詰めてくるので、勘弁してほしい。
「ちょ、ちょっと待って。私、どうしたんだっけ?」
「ええ? 覚えてないの?」
「絵を描いてたのは覚えてるけど・・・」
そう、確か、天宮くんを描いていたはずだ。でも、それからの記憶が曖昧。
「美術の授業中にいきなり倒れたんだよ」
結局、相馬先生が詳しい経緯を教えてくれた。
どうやら、私は救急車で町の総合病院に運ばれたらしい。
相馬先生が付き添ってくれ、後から連絡を受けたお母さんが、スーパーの仕事を抜けて駆けつけ、今しがた鈴木先生もわざわざ様子を見に来てくださったのだそうだ。
何か、とても大ごとになってしまった。気絶も、救急車に乗ったのも初めて。全然覚えてないけど。
それから医者の先生がベッドに来て、改めて診察をされた。
念のため血液検査もするということで、その結果を待っている間、お母さんは飲み物を買いに行き、鈴木先生は学校に連絡を入れると言って病室を出て行き、残った相馬先生が、なぜか最初から脇に抱えていたスケッチブックをベッドに立てた。
私が普段使っているものより一回り大きい、美術の授業で今日配られたばかりのものだ。表紙に黒マジックで私の名前が書いてある。
「これ佐久間さんが抱きしめてたから、そのまま持って来ちゃったんだけど・・・ちょっと教えてもらってもいいかい?」
先生は、そう言ってあるページを開く。
「これ、何?」
勇壮な鎧をまとった戦士の瞳に、まっすぐ射抜かれた。
――そうだ。思い出した。
あの時、天宮くんから急に炎が出て、このヒトになったんだ。
鉛筆で描いた絵は白黒だけど、あのヒトは髪が緋色で、肌はさらに濃い赤だった。だから金色の瞳がとても目立って、力強くて、見つめられると頭が痺れた。
何も考えられなくなり、心臓ばかりうるさく鳴った。
今もそう。
これが何って、訊かれたってわからない。
絵の中の瞳に見つめられると怖い。怖いのに、目を逸らせない。とても自分が描いたものに思えなかった。点と線で表現されているだけの体に、まるで何かが、宿っているみたい。
そう、思った瞬間、戦士がゆっくり、口を開けた。
「っ!」
反射的に、スケッチブックを閉じた。ばあんとすごい音が鳴ったので、相馬先生をびっくりさせてしまう。
「どうしたの?」
私は、からからの喉を震わせ、なんとか声を絞り出す。
「すみません、これ、持ち帰らせてもらえませんか・・・っ」
「い、いいけど」
ありがたいことに、相馬先生は深く理由を訊いてはこなかった。あるいは私の普通でない様子に、何も言えなかっただけかもしれない。
また、目まいがしてきた。心臓がずっとばくばく鳴っている。
私は一体、何を描いたの?
何を、見てしまったの?
夢でもないし、気のせいでもなかった。私はなんだかわからない存在を描いて、今、そのなんだかわからないものが絵に宿っている。
アレは一体なんなのか。そして、アレが出て来た天宮くんは一体、何者なの?
天宮くんは人じゃない? でもみんなが天宮くんの存在を認識しているのだ、そんなわけない。でも、だったら、アレはなに?
私はもしかして、見てはいけないものを、見てしまった・・・?
「佐久間さん? 佐久間さん、大丈夫?」
相馬先生に、なんとか頷き返すのが精一杯で。
その後、血液検査の結果は問題なく、私はスケッチブックを抱きしめて、家に帰った。