姫のお使い
祭りの余韻が残っている翌朝、美術室で私はパレットに絵具を出していた。
スケッチブックをイーゼルに立てかけ、描いているのは昨夜の思い出。
道路の両脇に夜店が立ち並び、その間を多くの人たちが歩いている。
鮮やかな着物に、下駄を鳴らして、金魚すくいや輪投げ、射的にクジにと楽しんでいる人々。
提灯やお店の明かりは近くを強く照らして、少し離れたところはかえって闇が濃く、明るくて暗い独特なお祭りの雰囲気をかもし出していた。
でもこれは単に記憶にある光景を写しただけじゃなく、あちこちに秘密を仕掛けてみた。
人と人の間や、ちょっとした木の影、店の影。あの夜見かけた妖怪たちを随所に散りばめてみたのだ。
ぱっと見た感じではわからないけど、よーく見ていればいずれ気がつく。
いつも私たちの傍にある闇の存在に。
この絵を描いている時、天宮くんが美術室に顔を出してくれていた。
今回はすぐに帰らないで、涼しい風が通る窓際の席に座り、仕上げ途中の絵を眺めている。
「ほんと、きれいに描くよな」
さらっと褒めてくれるのが、ちょっと気恥ずかしくて顔が熱くなる。
「そ、そんなことはないけど・・・えと、ありがとう。天宮くんのおかげです」
「俺?」
「天宮くんが付き合ってくれたおかげで、楽しい絵が描けました」
頭を下げると、今度は天宮くんのほうが戸惑ったようになる。
「俺は別になにも・・・ただ遊んでただけだよ」
「ううん、すごく助かりました。とっても楽しかったし、本当にありがとう」
前日にいきなり連絡したのに来てくれて、妖怪からも守ってくれた。
天宮くんはお礼を言われるほどじゃないと謙遜するけれど、私としては大感謝だ。
「やあ、ユキはおるか」
横から、のんびりした声が割って入った。
見れば、一つ目入道さんが開いた窓から入ってくるところだった。部活が午前中になってから、ここで会うのはひさしぶりだ。
「こんにちは、一つ目入道さん」
「うむ。のうユキよ、ついでに天宮の小僧も、昨夜か今朝にわしを見かけなんだか」
「? お会いするのはおひさしぶりです、よね?」
なんだかよくわからない質問だ。
一つ目入道さんは机に座り、着物の袖を探る。
「そうか。ではどこに行ったのかのう」
「おい、何を言ってるんだ?」
「これじゃ」
天宮くんと私の前に、一つ目入道さんが出したのは、四つ折りにされた紙。
手触りからしてスケッチブックの紙だとわかる。ということは、私が前に描いてお渡しした一つ目入道さんの絵だろう。
ところが紙を広げてみると、そこに一つ目入道さんの姿はなかった。
「これは・・・?」
背景の桜は、確かに私が描いたもの。
でもその真ん中が、一つ目入道さんの形にきれいに白抜きになっていた。
「絵からわしが抜け出したのではないかと思うたのだが」
そう言われると、まさしくその通りに見えてくる。
いや、でも、まさか、そんな。
「・・・佐久間が描いた絵に間違いない?」
天宮くんに確認され、それには頷く。
「今までこんなことはあった?」
「な、ないです」
「とうとうユキの絵も達人の域に達したのだなあ」
「それはあり得ないと思います!」
というか、どんなに絵がうまかったとしても、紙から抜け出すことなんてない。ないはずだ。
今にも動き出しそうなんて表現はあるけれども、実際に動き出したならそれは、人のものではない力が働いているに違いない。
「――お? むっ?」
「一つ目入道さん?」
急に、一つ目入道さんがもぞもぞしだす。
手を背中に回して、しきりに掻いていたかと思うと、袖から何かが落ちた。
床にぼた、と。
紐のように長い、でも紐より太く、黒い光沢のあるもの。
蛇、だ。
「やっ!?」
後ずさった拍子にイーゼルを倒してしまう。
一人で大騒ぎしている私を尻目に、蛇はするすると器用に机の足を上って、一つ目入道さんの隣で鎌首をもたげた。
素早く立ち上がった天宮くんも、それに怪訝な顔をする。
逃げるわけでも威嚇するわけでもなく、その蛇は赤い瞳を私たちにまっすぐ向けていたのだ。
「佐久間ユキ、ようやっとつかまえたぞ」
赤い舌が閃くその口から、突然、女の人の声がした。
少し低くて艶っぽい。そしてなんでか、怒っているような感じ。
「ただちに南山へ来よ」
「・・・え?」
「そちの引き起こした面倒ぞ。来ぬ時は、どうなるかわかっておろうな?」
見ず知らずの蛇さんに、会うなり脅された。
わけがわからないからこそ、よけいに怖い。
「山住姫か?」
一つ目入道さんがそう問いかけると、天宮くんも、あっと気づいた顔になる。
「南山の山姥かっ」
「黙れ小童っ」
シャーと蛇さんが威嚇する。
山姥という呼び名は嫌なのかな。
そもそも、山姥って蛇だっけ?
おばあさんのような妖怪じゃなかったっけ。
「山住姫はな、蛇を使役する南山の主なのだ」
何もわからないでいる私に、一つ目入道さんが教えてくれた。
つまりこの蛇さんは山住姫という妖怪のお使いで、姫は蛇を通して話しているのだそうだ。
蛇にしても姫にしても、どちらにせよ怒られる理由に心当たりはない。
「わらわは迷惑しておる」
だけど山住姫のほうは、声からしてもう我慢ならないといった感じだった。
「よいか、麓にありし人の打ち捨てた屋敷へ来よ。明日の夜明けまでに片を付けねば、そちのもとへ蛇を千匹差し向けよう。さあ、わらわは確かに忠告したぞ。ゆめゆめ忘るるでないぞ」
「え、ちょ」
するりと蛇さんは机を伝って、開いた窓から行ってしまう。
結局わけがわからないまま、脅し文句だけ残された。
蛇を千匹差し向けるって、一体、私はどれだけのことをやらかしてしまったの?
「念のため訊くけど、心当たりはある?」
本当に本当に申し訳なかったが、天宮くんの問いには首を横に振るしかなかった。
「ごめんなさいっ。でも南山にはこの夏何度か行ってますし、知らないうちに何かしてしまったのかも・・・」
「いや、心当たりはないんだろ? 何かあっちが勘違いしてるのかもしれない」
「いずれにせよ、南山に出向かぬことには何もわからんだろうなあ」
のんびりと、一つ目入道さんが結論を言ってしまう。
私も天宮くんも、それにちょっと動きが止まる。
「・・・いや、まあ、俺が調べてくるよ。佐久間は家にいて」
「果たしてそれでよいのかの」
一つ目入道さんが言うと、天宮くんはそちらをじろりと睨む。
けれど一つ目入道さんは動じない。
「あまり妖を見くびるなよ、天宮の小僧。山住姫は聡明なる妖だ。逆恨みをするような愚か者では決してない。その姫がわざわざユキに言付けたのだぞ、意味がないわけがなかろう」
「・・・だとしても、何があるかもわかんねえ場所に、佐久間を連れて行けるか」
天宮くんが声を低めると、一つ目入道さんはますます愉快そうに一つ目を歪めた。
「守りきる自信がないか。ならばぬしは来ぬでよい、ここはお狐様にお頼み申そうぞ」
「は?」
いきなり西山の主の名前が出てきて、私もびっくりする。
「あのお方に敵う輩は滅多なことでおらん。天宮の小僧よりも心強い護衛じゃ。ユキ、そうしようぞ。やはり天宮なぞあてにならぬ」
「待て」
一層低い声で、そしてとても不機嫌そうに、天宮くんが私のほうに伸びる一つ目入道さんの手を弾いた。
「なんじゃ、お狐様がユキの味方であることはうぬも知っておろう? 己の力量に自信がなくばまかせておくがよい。あの方はユキの頼みとあらばなんでも聞いてくださる。普段より我が娘のように可愛がっておられるのじゃからの。心配せずとよい」
「そういうことじゃねえんだよっ」
「では、どういうことかの」
「・・・」
天宮くんは、じと、一つ目入道さんを睨んだ。
「要するにお前は、なにがなんでも佐久間を連れて行く気なんだろ」
「おそらく、そのほうがよいからの。ユキはぬしが思うよりも、やわではないぞ」
一つ目入道さんはそう言って、機嫌のよさそうな笑い声を響かせる。
実を言うと私も、行ったほうがいいんじゃないかと思ってしまってる。
天宮くんにまかせてしまうのは簡単だけど、私が行くと言えばよけいに迷惑がかかることもわかるけれど、だからって家でじっとしてる状況じゃない、気がする。
私が何かをしてしまったのなら、ちゃんと責任を取りたい。
「天宮くん、あの・・・」
どう説得したらいいのか。
言葉に迷っていると、天宮くんはちょっと私のほうを見て、また悩むように視線を空に流して、最後にかすかな溜め息を吐いた。
「・・・わかった。ただし、少しでも危ないと思ったら佐久間はすぐに帰すからな」
「――うんっ。ありがとう、天宮くん」
また、ついつい彼の優しさに甘えてしまう。
そうと決まったならば、なんとしても役に立たなければっ。
こっそり気合を入れて、まだ部活終了の十五分前だったけれど、私はさっそくパレットの片付けに取りかかった。




