河童対決
視界の端で、水がうねる。
音からして、とても激しい戦いが繰り広げられているのはわかるけれど、あいにく私は乱暴に投げ捨てられた拍子に石に腰をぶつけてしまい、しばらくは悶えて観戦するどころじゃなかった。
「うう・・・」
手足も服も、あちこちすり切れぼろぼろだ。打ちつけたところはたぶん、痣になるだろうなあ。
どうしてこんなことになったんだろ?
腰をさすりながら自分の行動を顧みていると、水が頭に思いきりかかった。
・・・うん、涼しい。
雫を拭って、見ればネネコさんと九千坊さんが、まるで竜のように立ち上る水の上に乗り、戦っている。
それぞれを襲う水が、周囲の木々や岩まで凪ぎ、岸辺にいる私のところにも飛び火ならぬ飛び水していた。
幸いと頭にかかっただけなので、バッグの中のスケッチブックは無事だった。
九千坊さんとネネコさん、どちらが勝つかはわからないけれど、絵を描く用意はしていたほうがいいだろう。
道具が濡れないように、急いで沼から離れる。
少し大きめの木を見つけたので、後ろに隠れ、一息。戦いの音だけを聞く。
できればどちらも怪我なく無事に、早く終わるといいな。
・・・でも、勝負がついたとして、私、ここから無事に家へ帰れるんだろうか。
南山は麓のほうに昔、小学校があったくらい、住宅地に近いところにあるけれど、ここはけっこう山奥のように思える。
もしネネコさんが勝って、絵を描いて喜んでもらえたら、麓までの道を教えてもらえるだろうか。
もしくは九千坊さんが勝ったら麓まで送ってもらえるだろうか・・・なんて、ちょっとそれは都合がよすぎる。
ここにもし天宮くんがいてくれたら、悩むこともないんだけど・・・。
と、また情けないことを考えてしまった時、右手が何かに触れた。
ぐにゃっとした、でも固い、そして冷たい感触。
「え・・・」
ぱっと手を上げる。
そこにいたのは青黒い、艶々とした、大きな蛇。
鎌首をもたげ、こちらをまっすぐ見つめる金色の瞳に、私は悲鳴も上げられなかった。
「っ・・・!」
噛まれると思い、どうしようもなく両腕で顔の前をガードする。そんなの意味ないって、わかっていたけどそれ以上、体が動かなかったのだ。
目を瞑って、一秒、二秒。
痛みはまだ襲って来ない。
「サクマ・・・」
――え?
その声は、気のせいだったのかもしれない。
おそるおそる瞼を開くと、何かが目の前に降り立った。
私の頭には一瞬、あの夜の猿面の人が浮かんだ。
でも違った。
蛇を無造作に蹴とばし、こちらを振り向いた顔は、天宮くんだ。
「大丈夫?」
呆然として、咄嗟に何も言えない私の前に彼がしゃがむ。
「ど、どうして・・・」
「なんか南山が騒がしいから、様子見に来たんだけど」
まさか助けが来るなんて、思っていなかった。
天宮くんは仕事着の狩衣でなく、普通のTシャツ姿で、通りすがりに助けてくれたような雰囲気。
「一体何がどうして、なんで佐久間がここにいんの?」
河童さんたちの戦いを指して訊く彼に、私は一から説明する。
天宮くんは九千坊さんの名前を聞いただけで、もう何もかもわかったような顔になっていた。
「妖怪どうしの諍いなら、俺らが手を出すこともないな。帰ろう。送るよ」
まだ激しい戦いが繰り広げられているなか、天宮くんはあっさり言って私の手を取る。
「あ、で、でも、ネネコさんが勝ったら絵を描くっていう約束をしたの。勝手に帰ったら怒られない?」
「まあ・・・面倒にはなるかもな。九千坊が勝てば問題ないんだろうけど」
天宮くんはちらりと戦いの様子を見やり、
「・・・微妙そうだ」
「そ、そうなの? だったらなおさら、決着がつくまではいたほうがいいんじゃないかと」
「・・・わかった。じゃあ、もっととばっちり食わなそうなとこに移動しよう」
「ご、ごめんね?」
「いいよ、別に。でもまあ、次からはなるべく、行き倒れてる妖怪には関わらないほうがいいかとは思う」
「ご、ごめんなさい」
そういえば二度目だった。
こうやって倒れている妖怪に近づいて、騒動に巻き込まれるのは。
表情はあんまり変わらないけど、天宮くん、きっと呆れきってるだろうなあ。
まったく進歩がないもんね・・・。
戦いが終わるまで、私と天宮くんは大きな岩陰に隠れてやり過ごし、音が聞こえなくなった頃、そっと顔を出してみると、水上に立っていたのはネネコさん。
九千坊さんは傷だらけで岸辺に倒れ伏し、最初に会った時のように、ぴくぴくしている。
無事、ではないけどとりあえず、生きているようなのはよかった。
「佐久間! 出て来い佐久間! 約束どおり絵を描いてもらうよ!」
「は、はい! ここにいます!」
岩陰を出ると、ネネコさんは天宮くんに顔をしかめたものの、彼は私を迎えに来てくれただけと伝えてなんとか、再び戦いになる事態は避けられた。
もともと、私のことを天宮家が護衛していることは妖怪たちにも知られていたので、今さら天宮くんが傍にいることには疑問を持たれなかったみたい。
その後、私は沼の上でポーズを取ってくれるネネコさんを丹念に写し取り、どうにか、満足いただけた。
「ありがとよ!」
絵を持って、上機嫌なネネコさんはそれから思い出したように、いまだ岸辺に伸びたままの九千坊さんを指す。
「そいつをちゃあんと片付けておいきよ」
・・・連れて行け、ということかな。
九千坊さんが私を手下だと言ったからだろうか。
ネネコさんは立ち上った沼の水に包まれると、そのまま姿を消してしまった。
残された私と天宮くんはお互い、顔を見合わせる。
「ど、どうしよう?」
「いや、別に、ほっといていいんじゃないか?」
すると九千坊さんが起き上がった。意識が戻ったらしい。
辺りをきょろきょろして、「ネネコは?」と言うので、先ほどお帰りになられた旨をお伝えした。
「そうか・・・」
九千坊さんはがっくりと、うなだれる。なんだかちょっと、可哀想になってきた。
「あ、あの、怪我とか、大丈夫ですか?」
「せからしかっ。もとはと言やあ、わりゃが皿に茶なぞかけやるから、調子出んかったんじゃっ」
「す、すみませんっ」
怒鳴った九千坊さんは、でもまた肩を落としてしまう。落ち込み過ぎて天宮くんの存在にも気づいてない様子。
どうしよう。励ましたほうが、いいんだろうか。
でも何も言う前に、九千坊さんは自分で顔を上げた。
「・・・ネネコに、絵ば描いてやったと?」
「え? は、はい。描いてお渡ししました」
「俺様にも描いてくれんか」
意外なお願い。もちろん、断る理由はない。
でもスケッチブックを開き、九千坊さんの姿を写そうとしたら、なぜか止められた。
「俺様じゃなく、ネネコのことば描け」
「え?」
「頼む」
言われたとおり、先ほど描いたのと同じ、水上のネネコさんの絵を描いて渡すと、九千坊さんは目を細めて、なんだか穏やかな顔をしていた。
「・・・また修行すったい。次こそ勝って本物を手に入れるんじゃっ!」
絵は丸めて懐に入れ、そのまま、飛ぶように樹林の間を駆けて、行ってしまった。
「・・・結局、なんだったんだ? あいつ」
天宮くんが怪訝そうにしている横で、私はちょっと笑ってしまっていた。
「もしかしたら、九千坊さんはネネコさんが好きなのかもしれないね」
絵を見た時の顔は、憎い敵に対するものじゃなかった、と思う。
本当は手下じゃなく、例えば恋人とか、もしくは奥さんとして、迎え入れたいのかもしれない。最初に戦った理由も実はそういうことだったりして。
求愛が拳で、なんて激しいなあ。妖怪らしいと言えば、そうなのかもしれないけど。
「・・・まあ、なんでもいいや。家まで送る」
悪いと思っても、天宮くんに結局送られることになってしまう。この夏休みこそ、迷惑かけないようにと思ってたんだけどなあ・・・。
軽く落ち込みながら彼の後について河童の沼を去る時、ふと、視界を光る何かが横切った気がした。
「――?」
一瞬、蛍かと思ったけど昼間にそれはない。周囲を見回してみても、水面の反射以外にどこにも光ってるものなんてなかった。
「佐久間? どうかした?」
少し先で天宮くんが足を止めて待っている。
「・・・ううん、なんでもないです」
たぶん気のせい、だろう。
小走りに天宮くんに追いつきながら、でもなんとなく、何かが背後にいるような、不思議な感覚が山を出るまで続いていた。




