行き倒れ大将
河童。たぶん、ここにいるのは河童。
見た瞬間にわかった。
この頭頂だけ髪がないのは、明らかにそうだと思う。
「だ、大丈夫ですか!?」
駆け寄って、ちょっと揺すってみたらうめき声がした。
よかった、死んではいないらしい。
とりあえず仰向けにしてあげると、長い舌がべろん、と口から出ていた。
一体全体、どうしてこんなところで倒れているんだろう?
「皿、からっからじゃ」
否哉さんが足先で頭のお皿というか、窪みをつつく。
そういえば、河童は頭のお皿が乾くと力が出なくなるんだったかな。
え、まさか、この炎天下でお皿が乾いちゃって倒れたの?
「み、水が必要ってことですか? 麦茶しか持ってないんですけど、これでも大丈夫ですか?」
判断を仰いでみるも、否哉さんはくすくす笑っているだけで教えてくれない。
しかたないので、思いきって水筒からばしゃばしゃお皿に注いでみた。
残っていた分を全部かけ、しばらく待つと、その河童さんは意識を取り戻す。
いいんだ、麦茶でも・・・。
河童さんはまだちょっと具合が悪そうに頭に手をやりながらも、自力で起き上がって、私と否哉さんに黒い双眸を向けた。
「だ、大丈夫、ですか?」
「おう、助かったばい」
すんすんと河童さんは鼻を動かし、頭の上から伝ってくる茶色い液体に指先を触れ、赤い眉毛を怪訝そうにひそめた。
「むぅ? あ、これ茶か!? わりゃ俺様に茶なぞかけよったか!?」
「ひっ!? すすすみません!?」
いきなり怒鳴られ、反射的に身を竦める。
けど、河童さんは一度は拳を固めたものの、息を吐き出し、それを下げた。
「・・・まあ、よか。助かったことには助かった」
すんでのところで、怒りを収めてくれたらしく、命拾いした。その大きな拳に殴られたら、たぶん一撃で死んでしまうもの。
「わりゃあ、俺様が見ゆるようじゃが、祓い屋の類か?」
落ちつくとその場にあぐらをかき、尋ねてくる河童さん。
「いえ、私はただの人間です。佐久間ユキと申します」
「この土地のもんか?」
「はい」
「ならばネネコば知らんか?」
「ネネコ、さん? え、それは、人ですか?」
「河童じゃ。俺様と同じな」
ネネコさんという、河童?
「俺様は九千坊。九千匹の手下を率いる西の河童の大親分じゃ」
どうだとばかりに胸を張り、その河童さんは名乗り上げる。
西、というのはこの町の西という意味では、なさそう。
私にこの土地の人間かとわざわざ聞いたんだから、もっと別の遠い場所からやって来たんだろう。
「そんでネネコは東の河童の女親分。どうじゃ、聞いたことはなかか? ここらに移りよったらしいが」
九千坊さんがずずいと詰め寄って来るので、私のほうは膝をついたまま後ずさる。
「え、ええと、否哉さんはご存じありませんか?」
困って隣に話を振ると、否哉さんは吹き出した。
「ぷぷ、九千坊、また負けに来たか」
「なにおう!? 今度は負けんぞ!」
途端に九千坊さんが否哉さんに襲いかかる。
否哉さんはひらりと身を翻し、私の後ろに隠れてなおも笑っていた。
「ま、負けるって、なんですか?」
「じゃから負けん!」
「っ、ご、ごめんなさい!」
だめだ、いちいち怖くて事情を聞けない。
すると否哉さんが、私の背をつついて教えてくれた。
「大昔、九千坊河童はネネコ河童と戦い、負けた」
なんでも、この町ではない場所で、河童の親分どうしの対決があったのだそうだ。
「えっと、じゃあ九千坊さんは、ネネコさんと再戦するためにいらしたんですか?」
「そうじゃ! 今度こそ俺様が勝ち、奴を手下にすっとじゃ! わあったらはよネネコばおるとこに案内せえ小娘ぇ!」
立ち上がった九千坊さんに胸ぐらを掴まれ、足が宙に浮く。
あ、案内しろと言われてもぉ・・・。
「い、否哉さんっ、ネネコさんの居場所っ、ご存じですかっ?」
「ぷくく、河童の沼。南山」
「南はどっちじゃ」
「あ、あちらです」
「よしっ」
と、言うやいなや、九千坊さんは私を小脇に抱えて飛び上がった。
「――っひ!?」
空を駆ける移動方法は、奇しくも三度目だったけど、ひさしぶりでとても怖かった。
というか、私はどうして運ばれてるの?
家々を飛び移り、あっという間に南山へ着いてしまうと、九千坊さんは山中で一旦止まって辺りを見回す。
「ネネコはどこじゃ」
抱えられたまま、訊かれてもそもそも私はネネコさんを知らない。
「い、否哉さんは、沼にいるとおっしゃってましたけど・・・」
でも沼なんて、この山の中にいくつあるのかわからない。
なんの情報にもならない気がしたけれど、一応伝えたら、九千坊さんは鷹揚に頷いていた。
「まかせい、水の匂いを辿るは得意じゃ」
い、いえ、私のことはそろそろ下ろしてほしいです。
片手で持たれているお腹が圧迫されて地味につらいんです・・・あ、でもネネコさんには会ってみたいかも。女親分という響きがかっこいい。
また飛ぶように岩山を移動するうち、やがて青く光る、大きな沼に辿り着いた。
周囲は緑の木々に囲まれ、水底まで見通せそうな、美しい場所だった。
「ネネコーーっ! 九千坊が参ったぞっ!」
九千坊さんの大声が、静かな中に響く。
間もなくして、沼の中からひょっこりと、緑の肌のヒトが現れた。
こちらは黒い頭のてっぺんに、やっぱり白い窪みがある、河童さん。その体は女性らしいくびれと膨らみを持っていた。
まなじりがつり上がった、きりっとした顔立ちの、いかにも女親分といった風体だから、たぶんこの方がネネコさん。
水上に立ち、岸辺にいる九千坊さんを、余裕たっぷり腕組みして眺め、「ふふん」とまず鼻で笑った。
「ずいぶん久しいねえ、九千坊。何百年ぶりだ? 西の果てからわざわざ、また負けに来たか?」
「だらがっ! 今度こそわりゃを俺様が手下にしたらあ!」
「へえ? ずいぶんと大口叩くもんだな負け河童が!」
「はっ! わりゃも人間ごときに負けたんじゃろが!?」
言い返されたネネコさんは、むっとした顔になる。
「そんで利根川からねぐらを移したのじゃろ!? 言うとくが、俺様はまた強くなっとんぞ!」
「どうだかねえ」
「勝負じゃっ! 絶対に負かしたらい!」
びし、と勢いよく指をさし、宣戦布告をする九千坊さん。ところで、私はいつ下ろしてもらえるんだろう・・・。
一方のネネコさんは、熱い九千坊さんとは対照的に、冷ややかだった。
「やだね。一度負かした相手にゃ興味ないんだ。一人で乗り込んできたその度胸は認めてやらないでもないが・・・おや? 一人じゃないね?」
ここで初めて気づいたように、ネネコさんは九千坊さんの小脇に抱えられたままの私に目を向けた。
「なんだいそれ? おいお前、まさか人の子かい?」
「っ、は、はいっ」
私に訊かれたのだと思い、抱えられたままお腹に力を入れるのは難しかったけれど、なるべく声を張って答えた。
「さ、佐久間ユキと申しますっ」
「佐久間? もしかして妖怪絵師の?」
するとネネコさんの声が急に弾んだ。人によく似た顔に笑みが広がり、水面を駆けて来る。
逆に九千坊さんは慌てて飛び退った。
「な、なんじゃっ、わりゃ、こやつば知っとんのか?」
「我ら妖怪の姿絵を、そりゃあきれいに描いてくれると評判の絵師だよ! 九千坊との勝負なぞどうでもいい! 佐久間っ、わが絵を描いておくれ!」
さらにネネコさんが大股に迫ってくる。それで九千坊さんがさらに飛んで逃げる。
逃げて追って、沼の周りをぐるぐる回る。
「九千坊! 佐久間をよこしな!」
とうとうネネコさんが怒りだし、それに呼応するように、突然、沼の水が大きく波立った。
「お、俺様との勝負が先じゃ!」
「お前なんぞにゃ興味ないと言ったろう!? 佐久間を置いてさっさと帰りな!」
「嫌じゃ! そ、そうじゃ、こいつは先に俺様が手下にしたんじゃ!」
「えぇ?」
思わず変な声を上げてしまう。
でも構わず、九千坊さんは堂々と言い放った。
「こやつば欲しけりゃ俺様と勝負しろ! わりゃが勝たばくれてやる!」
「なにを生意気なっ! ぶっ殺してやるから覚悟をし!」
ネネコさんが水面を蹴ったのと同時、私は九千坊さんに後ろへ放り投げられ、東西の河童どうしの激しい水上戦が始まった。




