いやや
じりじりと地面を焼く暑い日差しの中で、元気に蝉が鳴いている。
でも不思議なことに、こんなに鳴き声が響いているのに、いざ探してみると、どうしても姿が見当たらない。
もちろん、私の注意力不足であることは間違いないけれど、姿が見えないとまるで、木そのものが鳴いているかのように錯覚する。
もしかしてそうなのかも? と思って、幹に耳を当ててみると、鳴き声が止まってしまう。それでやっぱり、確認できないのだ。
今日もそうして音源探しをあきらめて、私は描き上げたばかりの青葉が茂った桜の木と、横のシーソーを入れた風景画の微調整を繰り返す。
部活も終えた午後の昼下がり、家の中でじっとしているのもなんなので、絵具を持ち近所の公園へ写生に来た。
特に大きなトラブルもなく、夏休みはすでに十日ほど過ぎた。美術室に訪ねてくる妖怪もほとんどないし、例の猿面の人にもあの夜以来、会っていない。
この前、天宮くんが再び部活へ来てくれた時、調査状況を聞かせてもらったら、「たぶん大丈夫」とのことだった。
まだ十分に調べが終わったわけではないらしいが、天宮くんの口ぶりからは、大体の見当がついているような、そんな雰囲気を感じた。
とにかく私は心配せず、普通に過ごしていればいいと再度言われたので、あまり詳しい話は聞いていない。
ちゃんとわかったら、きっと教えてくれるんだろう。まかせきりなのは本当に心苦しいが、へたに動くほうがかえって迷惑なんだから、よけいなことは考えず、大人しく過ごすことにする。
・・・でも、さすがに真夏の炎天下に、外で写生は厳しかったかも。
一応、つばが広めの帽子をかぶってきたものの、日影に入らないと熱中症で倒れそう。
道具を片付け、桜の木の下に避難する。水筒に入れてきた麦茶で水分も補給。すると、涼しい風が吹いた。
ありがたいことに、汗と熱をさらってくれる。しかし、その気持ちのよさに油断していたら、帽子までさらわれた。
「あっ・・」
なまじ、つばが大きいせいで、帽子はうまく風を受け、空に舞い上がる。
そのまま公園の敷地を越えていく。さすがに慌てて追いかけると、最後は雑木林の中に、すっと入っていってしまった。
どうしよう。
外から覗いても、木に引っかかっているような帽子の影は見えない。けっこう奥に落ちてしまったのかもしれない。
今日はスカートにサンダルだから、あんまり入りたくないんだけど・・・このまま失くしてしまうのはあまりに惜しいので、服を引っかけないように気をつけながら、茂みに分け入った。
色んな草がちくちく脛に触ってかゆい。
だんだん木の陰が濃くなってくると、ちょっと草丈が低くなってましになり、かわりに湿った土でサンダルが汚れる。
そうしてある程度まで進み、間もなく、私は帽子でなく人影を見つけた。
こちらに背中を向けて、五輪の花の模様が入った、桃色の着物を着ている人が立っている。
頭にはなぜか、和装と不釣り合いなハットをかぶって。
・・・と思ってよく見たら、なんだかとっても、私の帽子に似ている。
帽子の下には白い布を一枚かけているらしく、垂れた部分が頭の後ろも側面も覆い隠し、まったく顔が見えない。
黒くて太い帯をした腰の片側を上げて、くねん、と全身で曲線を描いている立ち姿は女性のものだけど、たぶん、人間の女性ではない、と思う。
どうしよう。声をかけても大丈夫かな。
だいぶ不安ではあったけど、私はわずかな勇気を振り絞り、おそるおそる、言ってみた。
「あ、あの、すみません」
するとゆっくり、相手が振り返る。
「っ!?」
その顔は、口元にハの字に髭を生やした青白い肌のおじさんで、格好から完全に女性だと思い込んでいた私は腰を抜かしそうになった。
彼(彼女?)は、その反応に満足したように、かっ、と口を開いて笑い、くるりとまた背を向けるや、しずしず歩いて行ってしまう。
「あ、ま、待ってください!」
慌てて呼んだら幸いにも、そのヒトは足を止めてくれた。
「そ、その帽子、ちょ、ちょっと見せては、もらえませんか?」
「いや」
返答は短い。
「そ、そうですか」
それ以上、言い募ることはできなかった。
仮に私の帽子だったとしても、返してなんて言ったら怒られるかもしれない。
帽子はぱつぱつで、サイズが合っているようには見えないけれど、無理やりでもかぶりたいくらい、気に入ったのかもしれない。だったらもう、差し上げたほうがいい。
「お前はだれ?」
口元を袖で隠しながら、そのヒトが尋ねてくる。
「あ、私は、佐久間ユキと申します」
「おぉいやだ」
「え?」
そのヒトはくすくすしながら、なぜだか袖を高く上げて、顔の右半分を隠してしまう。
「いやだいやだ、出会うてしまった。おぉいやだ」
もう片方の袖でさらに半分隠し、その場にしゃがんで丸まってしまう。ただ、相変わらず笑い声は聞こえる。
「ど、どうかされましたか?」
「佐久間に出会うてしまった」
袖の隙間から、赤い瞳だけ覗かせてそのヒトは言う。
「・・・私を知っているんですか?」
「冬吉郎の孫」
「あ、おじいちゃんを知っているんですね」
私のことをおじいちゃんと混同する妖怪が多いなか、ちゃんと区別できているのは、おじいちゃんをよく知っている妖怪だけだ。
このヒトも、おじいちゃんの友達なのかな?
「あの、あなたのお名前を伺ってもいいですか?」
「いやや」
「え? だ、だめですか?」
「いやや」
「・・・えっと?」
「いやや」
・・・もしかして、《いやや》という名前?
「否哉」
四度聞いて、どうやらそうだと確信する。不思議な名前の妖怪がいるんだなあ。
「否哉さんはおじいちゃんの友達ですか?」
スカートの端が汚れないようにまとめながら、私も否哉さんの隣にしゃがむ。
「冬吉郎は、妖怪の味方。人の味方」
否哉さんは顔の左半分をまた出して言った。
「そして、神の味方」
「? 神様ですか?」
もしかして、お狐様のことかな? お狐様は妖怪だけど、神格化された存在だから。
そう思うと、おじいちゃんって人とも妖怪とも、神様とすらも友達で、すごいなあ。
私はおじいちゃんにあやかったり、天宮くんに助けてもらいながらなんとかそういった存在たちと知り合えたけど、おじいちゃんは全部自力だもんね。
どんな存在とも仲良くなれたら、本当に素敵。
「あ、あの、もしよければお近づきの印にというか、否哉さんの絵を描かせてもらえませんか?」
近頃あまり妖怪の絵が描けず、右手がうずうずしてる。
ところが、完全に顔を出してくれた否哉さんは、
「いや」
と。ううぅ、だ、だめかあ・・・っ。
ところが、この後にまだ続きがあった。
「今は、いや」
「? 今は?」
「迷い子が迷うておるうちは、どうせなくなる」
「えっ、と?」
よくわからないけど、今この場では嫌だというだけなのかな?
「・・・今日がご都合が悪いのでしたら、今度、別の機会に描かせてもらっていいですか?」
「んー、ふふふ」
否哉さんは含み笑いをするばかりで、いい、とは言ってくれなかった。けど、いや、とは言われなかったから、気が向いたら描かせてもらえるのかも。
すると急に、否哉さんに手を取られた。
袖の下から指先だけ出してつまむ感じで、あまり強い力じゃなく、振り払おうと思えば簡単にできそう。
そのまま、立ち上がってどこかに歩いていく。
「否哉さん? どこへ行くんですか?」
「とんとこ、とんとこ、落ちやんな」
今度は、突然軽やかに歌い出した。
「おいらは怖くねえけどさ、可愛いあの子が、怖がるからよ」
やがて雑木林を出て、アスファルトの道に戻り、でもまだ否哉さんは私の手を放さない。
どうも、町中に向かっているようだ。
わけもわからず引かれるままに歩いていると、ある時、視界の端に一瞬何かが映り、二、三歩行ってから、ん? と思って足を止めた。
私が止まったので、否哉さんの手が離れてしまう。
「・・・否哉さん、今、何かありませんでしたか?」
振り返った否哉さんが、私の背後を見やって首を傾げる。
私も、おそるおそる振り返ってみたら、日差しに焼ける道路の隅に、緑の肌の大きなヒトがうつ伏せに倒れていた。
血のように真っ赤な、ざんばらな髪が背を覆って、頭のてっぺんだけは毛がなく、白く窪んでいた。
手や足の指の間にヒレがあり、肌は肌というか、鱗。よく見るとぴくぴく痙攣している。
全体的に、なんだか見覚えのある姿。
「・・・かっぱ?」
無意識に、その妖怪の名前が口に出た。




