納戸の思い出
物置き部屋に入ってすぐ横の影の中。
極端に頭の大きな、でも体は子供のように小さい、おばあさんが正座している。
首も腕も細く、顎や頬骨が突き出て、ぎょろりと丸い瞳が二つ、影の中で光っていた。
まるで骨の上に直接皮だけ張ってあるみたい。
長い白髪は頭のてっぺんでまとめて、赤い玉の付いたかんざしで留めている。
「美月、美月や」
おばあさんは少しだけ腰を浮かせ、美月さんの名前を呼んでいる。
でも、美月さんが気づく様子はない。
それで確信できた。
このおばあさんは、妖怪だ。
「美月や、ひさしぶりだね。帰って来るとは思わなんだよ。ほんに、大きくおなりだねえ」
おばあさんは目を細めて、とても嬉しそう。
「美月や、美月、こっちを向いておくれ」
けれど、いくら呼びかけても、美月さんは気づかない。
「ここで誰かと遊んだような記憶があるんだけれど・・・」
幼い日の記憶を、必死にたぐり寄せている。
「ユキちゃん、何か見える?」
私は咄嗟に答えられなくて、無意識に一歩下がった。すると慧さんにちょっとだけ肩がぶつかり、約束を思い出す。
「・・・いえ、何も、いません」
「そう? ここじゃなかったのかしら」
うーん、と唸りながら、美月さんは出て行ってしまう。
「もうババの声は聞こえぬか。ババの姿は映らぬか」
再び声のほうを見やると、おばあさんがうなだれていた。
「・・・あなたが、美月さんのお友達の妖怪ですか?」
あまりに寂しそうな姿に、つい、私は声をかけてしまっていた。
おばあさんの前にしゃがむと、おばあさんはそこでようやく、私や慧さんと目が合うことに気づいたみたいだった。
「おぬしら、わしが見えるのかえ?」
驚いたおばあさんは、慧さんのほうを見やって、今度は別の意味で目を細める。
「一人は、天宮じゃな? わしを退治に来たのかえ?」
それになぜか慧さんが答えなかったので、慌てて私が言った。
「ちがいますっ。私たちは、ただ、美月さんの付き添いのような感じでして」
「おぬしはなんじゃ?」
「私は佐久間ユキと申します」
「どこかで聞いた名じゃな」
「あ、あなたのお名前も、伺っていいですか?」
「わしか。わしゃあ納戸に棲みつくで、納戸婆などと呼ばれとるがの。美月は、ババ、ババ、と呼んでおったよ」
そう言って、懐かしそうな顔をする。
「やっぱり、あなたが美月さんと遊んでくれた妖怪なんですね?」
「・・・昔、あの子が悪さをして、納戸に閉じ込められたことがあっての」
と、納戸婆さんは美月さんにとっては遠い昔の思い出を語った。
「あんまりうるさく泣くで、姿を現し、あやしてやったらそれから納戸に遊びに来るようになった。わしが化け物だともよくわからずに、無邪気になついてくるもんで、つい、たぁくさん遊んでやってしまった。――じゃが、あの子が学校とやらに行くようになってからは、とんと遊びに来ぬようになり、いつの間にか、わしの姿も見えぬようになり、さらにはこの家からも出て行った」
「・・・そうでしたか」
それは、とても寂しいことだったろう。
誰が悪いわけじゃない。美月さんは幼かったのだ。学校で新しい友達ができて、納戸の中の友達を忘れてしまい、成長するにつれ妖怪を見る力まで失ってしまったのだから、しかたのないことだったんだろう。
「お寂しかったですよね・・・」
もっと気の利いた言葉をかけられたらよかったのだけれど、何を言ってあげられるのか、わからなかった。
「自業自得じゃ。人などと関わるから、こういうことになる」
納戸婆さんは自嘲するような口ぶりだ。
人と関わると、妖怪は必ず寂しい想いをするのだろうか。お狐様もおじいちゃんを亡くして悲しんでいた。
美月さんは生きているけれど、二度と触れ合えないという意味では、ほとんど同じなのかもしれない。
でも。
「・・・美月さんは、あなたのことを忘れていません」
これから先はもう二度と触れ合えない。
それでも、過ごした時間はなくならない。
「はっきり覚えていなくても、楽しかった気持ちだけはきっと、ずっと美月さんの心に残るんだと思います」
それも一つの、存在の証になるんじゃないだろうか。
おじいちゃんや私が描く絵と同じ、確かにこの心優しい妖怪が、存在してくれていることを示すもの。
「――あ、あの、もうすぐ、この家は取り壊されてしまうんです。その前に、美月さんはあなたの存在を確認しに来て、でも・・・」
どうしても濁してしまう言葉の続きを、納戸婆さんは汲み取ってくれた。
「わかっとる。天宮がそこにおるのは、わしが美月に憑りつかぬようにするためじゃろう? わしが二度と、美月に関わらぬように」
「・・・すみません」
納戸婆さんは美月さんと話すことができないばかりか、住処まで追い出されてしまう。それに対して、私は何もしてあげられない。
「おぬしが詫びることではなかろうに」
すると納戸婆さんは目元を緩めて、大きな頭をわずかに傾けた。
「あぁ思い出した。佐久間とは変わり者と評判の、妖怪絵師の名じゃったな」
ころころと楽しそうに声を立て、納戸婆さんは小枝のような指で、私の頬を優しくなでてくれる。
「わざわざ教えてくれてありがとう。未練がましくこの家の納戸に残っておったが、潮時なのじゃろうて。立派になったあの子の姿を見られただけでもよかった」
「・・・これから、どうなさるんですか?」
「またどこかの家の納戸に棲みつくよ。心配はいらん。もともと、わしは滅多に人前に姿を現さぬのじゃ」
なんの力にもなってあげられないことは歯痒かったが、そもそも私なんかが何かできると思うほうが、おこがましいのかもしれなかった。
「――美月に憑りつくより、おぬしに憑りつくほうが簡単そうじゃの」
「え?」
うつむいていた顔を上げると、納戸婆さんは欠けた歯を見せて、ちょっと意地悪そうな笑みを浮かべている。
「気ぃつけよや佐久間。なんだか知らんが、おぬしには妙に甘えたくなる。わしも少し、頼み事をしたくなった」
「なん、ですか? 私にできることでしたら」
「ゆうべ、ちぃと様子のおかしい妖怪が家の周りをうろついておった。美月が怪我せんように見といてくれんか」
「? それは、どんな妖怪ですか?」
妖怪がおかしいと思うなんて、相当なことだろう。
納戸婆さんは、大きな頭を傾げるばかりだ。
「さあて、あれの正体はわしには見当もつかぬ。ともかく、魂の抜けたような者がおったら、おぬしも気ぃつけよ」
「わ、わかりました」
反射的に頷いてしまったものの、魂の抜けたような妖怪って・・・?
「慧ー? ユキちゃーん?」
なんだかよくわからなかったけれど、気づけばけっこう話し込んでいたらしく、美月さんが戻って来る足音が聞こえた。
私は慧さんと顔を見合わせ、急いで納戸を出る。
「――それでは、どうかお元気で」
「おう。ありがとうよ」
納戸婆さんとお別れし、そっと戸を閉じた。
面倒見のよさそうな、美月さんの言っていたとおり、とても優しい妖怪だった。
もしまた会えたら、今度は絵を描かせてもらいたいな。
「ユキちゃん、妖怪は見つかった?」
慧さんと私は、納戸から少し離れた廊下で、何食わぬ顔で美月さんと合流した。
「い、いえ、見つかりませんでした」
「何かがいそうな気配も、しない?」
「はい、特には」
「そう・・・取り壊されるのを察知して、いなくなっちゃったのかしら」
残念そうな美月さんの表情に胸が痛むけど、なんとか伝えたい衝動をこらえる。
「もういいだろう」
頃合いを見て、慧さんが言った。
「彼女のことは家に帰してやれ。いつまで拘束するつもりだ」
「いっそ夕ご飯も一緒に食べちゃう?」
「君も帰れ」
「嫌よ。妖怪を祀ってるっていう神社にも行ってみたいもの」
「わかった、俺が案内する。だから彼女のことは解放してやれ」
「別に無理やり連れ回してたわけじゃないのよ?」
「無自覚さは君の悪いところだ」
「あら、そんなに気味が悪い?」
「ああ」
おちょくるような美月さんと、それに投げやりに応える慧さんの掛け合いが、ちょっとだけおかしい。
そんなこんながあり、結論として私はここで離脱することになった。
納戸婆さんの言っていた、様子のおかしな妖怪というのが気がかりだったものの、「君と美月がこの場を離れれば問題ない」と慧さんに断言され、それもそうだと納得。
「また今度一緒にご飯食べましょうね」
最後まで朗らかな美月さんと、その影のように佇む慧さんとは、家に帰る途中の道で別れた。
朝、九時前に家を出てから気づけば昼を過ぎて夕方近くまで、夏休みなのに制服のままずっと出歩いていたんだなあと思うと、なんだか長い一日だった気がする。
でも、つまらない休みになるかと落ち込んだけど、やっぱり楽しみかも。
だって初日にいきなり珍しい人や妖怪に会えたんだもの。
うん。きっと、楽しい夏休みにしよう。




