千年桜
翌日の土曜日、私はさっそくパーカーとジーンズに、トレッキングシューズがないかわりに履き慣れたスニーカーを装備し、スケッチブックや絵具などは大きなリュックにまとめて入れて、いざ山へ。
目的地は私の住む西区からバスで二十分ほど。
町の北側にそびえる大きな山はそのまま、北山と呼ばれている。中腹辺りに神社があって、夏には麓でわりと大規模なお祭りがあったりする。
笹原さんが教えてくれた峠は、その北山に連なる小ぶりな山の、旧街道。かつては実際に山道として使われていた、と説明している看板があり、今でも普通に歩けるくらい道が整えられていた。
《千年桜》の黒い文字と赤い矢印が書かれた小さな看板も、朽ちかけてはいたが、ちゃんと山の入り口に立てられている。
案内の通りに、山の斜面をじぐざぐに登っていく。傾斜が緩やかで、初心者用のハイキングコースといった感じ。
私は運動がまったく得意ではないけれど、写生のために近所の小さな山に行くことがよくあり、道もそんなに大変ではなかったので、最初は森林浴を楽しみながら進む余裕があった。
だけど、緩やかでもひたすらに坂を登り続けていると、徐々にきつくなってくる。
腕時計をちらちら見ながら進んで、一時間。でもまだ辿り着かない。
看板は一定の間隔で立っているようだけど、目的地まであとどのくらいという距離が書かれておらず、矢印だけなので、あまり目安にはならなかった。
おまけに、だんだん木々の間に霧が立ち込めてきて、なんだか、同じ場所をずっと歩いているような気がしてくる。
よく昔話では、旅人が狸や狐に化かされてそんな目に遭うけれど・・・大丈夫かな。
もしそうなら、ここから一生出られない、かも。
嫌な想像をして、ちょっと怖くなってきた。そろそろまた休憩を入れたほうがいいかもしれない。
その時、ちょうど目印になるようなものが前方に見えた。左右の木に絡みついた藤蔓が上で繋がり、何かの入り口のようになっている。
いったん、そこで休もう。そう思って、自分を励ましていくと、薄桃色が頬にかすった。
・・・桜?
急いで振り返ったものの、すでにどこかへ消えてしまっていた。
でも、たぶん、今のは桜の花びらだった。
へろへろの足を速めて、木のゲートをくぐる。
そこからもう少しばかり、くねった道を進めば、薄桃色の光景が広がった。
「―――」
花が、天から降り注いでいる。
途方もなく大きく、視界を覆うしだれ桜が、まるで時間を静止した滝のように見えた。
花の滝だ。
広がる枝を他の木が避け、空間に桜だけが堂々と立っている。
きれい。美しい。本当にこの世のものだろうかと思う。
私はその場にリュックを降ろし、パレットを出した。
後のことはもう、あまり覚えていない。
たぶん夢中になって描いたんだろう。夢中になるとよく記憶がなくなる。
気がつくと私は、千年桜の根元に転がっていた。
周りには私の描いた絵が花びらと一緒に散らばっている。スケッチブックのページを全部切り離して地面に広げ、大きな一枚絵として桜を描いていたのが、風に吹き散らされたのだ。
登山の疲れもあり、絵を描き上げたらいつの間にか眠ってしまったみたい。
頭や背に当たる木の表皮はごつごつしていて、不思議とほのかに温かい。
見上げれば、空中で止まった花の滝が襲い来るよう。
みっしり咲いた花々が全部降り落ちてきたら、押し潰されてしまうんじゃないかと心配になる。実際はそんなことあるわけないとわかっていても、胸がどきどきした。
ちょっと、怖いな。
でももう少しここに居たくて、再び目を閉じる。花びらはそんな私の上に、静かに降り積もっていった。
「――もし、生きていますか」
聞こえた声を、はじめは夢かと思った。体を動かすのが億劫で、目だけで辺りを探す。
「よかった。生きていましたか」
男の人の声。けれど姿はどこにもない。
「そのまま死んでしまうのかと思いました」
頭上の、花の群れの中から聞こえてくるようだ。
木の上に誰かいるのか、身を起こして探してみても、あまりに花の密度が高く、何も見えなかった。
「・・・どなたですか?」
返事はない。さあ、と風が静かに傍を吹き抜ける。
『あそこ、出るらしいの』
笹原さんに聞いてから、私なりに考えてみた。
そうして思い出したのは、おじいちゃんがしてくれた木霊という妖怪の話。長い年月を経た木には精霊が宿るのだという。もしかしたら、これは千年桜の精の声なのかもしれない。
山は黄泉の国への入り口。そこで木霊は死者の魂を見守る存在なんだと、おじいちゃんは言っていた。むやみに木を傷つけたりしなければ、害をなさないものだって。
だから、だったら、話してみたい。
登山の疲労のせいか、それとも絵を描き上げた満足感のためか、私は自分でも不思議なくらい、穏やかな心地だった。
「あなたは木霊さんですか?」
するとようやく、応えてくれる。
「貴女は?」
「私は、佐久間ユキと申します。すみません、勝手にあなたの絵を描かせていただいていました」
「構いません。とても素晴らしい絵をお描きなさるのですね」
散らばる絵が、木霊さんにも見えるのだろうか。
「これほどのものはかつて見たことがありません」
「そんな、全然、まだまだです。祖父に比べれば私なんか」
「貴女の祖父?」
「佐久間冬吉郎です。木霊さんはご存知ありませんか?」
「さあ。残念ながら覚えはありません」
「そうですか・・・」
おじいちゃんの友達は、どうやらこの木霊さんではなかったみたい。もしそうだったなら、おじいちゃんとの話を聞いてみたかったけれど。
「有名な方なのですか?」
逆に訊き返されてしまい、ちょっと苦笑い。
「人の間では、あまり。でも妖怪の間では、よく知られていたのだと思います。祖父は妖怪絵師だったんです」
妖怪を専門に描く絵師。おじいちゃんが自分を言い表すのに使っていた言葉だ。
ただの画家と言うよりも、ぴったりな呼称だと思う。おじいちゃんは妖怪のために、絵を描いていた人だったから。
「貴女も妖怪絵師とやらなのではないのですか。私が声をかけても驚かれないほど、妖怪に慣れているご様子ですが」
「いえ、私は・・・そうなれたらとは思っているのですが、まだまだ、未熟なので。妖怪のことも、絵のことも」
「では、ゆくゆくは妖怪の絵師になるつもりなのですか。なぜ、人の子がそのようなものに?」
「え? ええっと」
言葉に詰まってしまう。私がこんなにも妖怪を好んで描く理由を私自身、うまく説明できない。
「・・・妖怪は、とても素敵だからです」
悩みながら、口にする。
あれこれ考えても、結局はそれに尽きる。妖怪だって桜だって、素敵だなあとか、きれいだなあと思うから描きたくなるのだ。
「貴女は人であるのに、妖怪を怖くは思わないのですか?」
「怖いです。だからこそ私は妖怪が好きなんです」
「どういうことです?」
「怖いことは、決して悪いことじゃないと思うんです。人は怖がるからこそ、限りのない欲望を抑えて、誰かを、大切にできるんじゃないかなあ、と。きっと、見えない恐怖が私たちを幸福へ導いてくれているんです。不幸をもたらす妖怪も、実は、幸せを招いてくれる存在なんじゃないかと、私は思っています」
おじいちゃんの話を聞いていたら、自然とそこへ行き着いた。
例えば木霊さんのことだって、やみくもに木を切り倒してはいけないという教えになっている。それが巡り巡って、私たち自身を助けてくれているのだ。
「我らが、人の幸せを?」
「はい。だから私は、妖怪にとても感謝しているんです」
大きな大きな木と向き合って、地面に手を付き、頭を下げる。
「この世にいてくれて、ありがとうございます」
妖怪と話せたら、ずっと言おうと思っていたこと。今、ようやく言えた。
なんだかほっとしてしまい、勝手に頬が緩んだ。
「・・・なるほど」
少しの沈黙の後に、声が降る。
「貴女は我らを心からおそれ、心から愛しんでくださっているのですね。ゆえに、でしょう。私が貴女の絵に強く惹きつけられるのは」
木霊さんは続けて言った。
「絵を、いただけますか」
「あ、はい。どうぞ」
うっかりそう返してしまった直後に、強い風が吹いた。落ちた花びらが巻き上がって辺り一面、薄桃色に包まれる。
目を開けていられず、咄嗟に身を竦めた。やがて風がやみ、そっと瞼を開くと、地面に散らばっていた絵が残らず消えている。
「木霊さん?」
呼びかけても、二度と応えてはくれなかった。