夏休み初日
謎の猿面の人に会った夜、結局、私は無事家に帰り着くことができた。
何かあったら連絡してとは天宮くんに言われたものの、特に危害を加えられたわけではないどころかむしろ助けてもらったので、その日の夜はまあいいかと思って連絡しなかった。
まるで夢を見たようで、実感がなかったせいもある。
でも次の日さっそく天宮くんが様子を見に美術室へ来てくれたので、念のため、相談してみることにした。
「あの、天宮くん、実は昨日の夜に・・・」
話が妖怪のこととわかると、天宮くんは眠たそうだった半眼を見開いて、真剣な顔で聞いてくれる。
「別になんともなかったんだけど、なんだったのかなあ、と」
天宮くんは少し考えてから、答えてくれた。
「白い妖怪のほうは、たぶん、ぬりぼうって奴だと思う」
「ぬりぼう?」
「夜道で通せんぼする妖怪。特に危害は加えてこないし棒で叩けば消える」
「そうだったんですか」
とするとやっぱり、絵がほしかったわけじゃなかったんだ。
「問題は猿面だな。そいつから妖気はした?」
妖気とは、背中がぞくぞくするような、妖怪の独特な気配というか雰囲気みたいなもののこと。
でもあの猿面の人にそれがあったかというと、微妙。
「う、うーんと、ごめんなさい、よくわからないです。いきなり現れて、ほんとに一瞬で消えてしまったから」
「他に気づいたことはない? 見た目とか、できるだけ詳しく教えてほしい」
「えーっと・・・あ、じゃあ絵に描くね」
絵なら、口で説明するよりもっと正確に伝えられる。さっそくスケッチブックに鉛筆で大まかに描いてみた。
「こんな感じだったと思います」
彼(?)は黒い着物を着ていた。
ただ天宮くんの狩衣とは違って、袖と足首がきゅっと絞られ、動きやすくされていたと思う。
街灯の下だからこそ見えたが、これが闇の中だったら難しかっただろう。
猿のお面は張り子でできているように見え、古めかしい感じがちょっと不気味だった。
天宮くんはじっと絵を見つめて、ややあってから口を開く。
「・・・姿を見たのは一瞬だけって言ってなかった?」
「え? うん」
「一瞬でこんな細かく覚えられんの?」
どうやら本題とは別のところに驚かれてしまっていた。
「すごいな」
「そ、そんなことないよっ。普通だよ」
「いや普通は無理だよ」
そう、かな?
長年、妖怪をこっそり描いてきたために、なるべく一目で対象を覚える訓練が、多少は積まれていたのかもしれないけれど。
でも大したことじゃない。テストの暗記とかは全然だめだし。
「え、ええと、あ、すごく背の高い人だったよっ」
感心されたことが非常に居た堪れなかったので、補足の情報で話を逸らす。
「一八〇センチとか、もっとありそうだったかも。足も速かったよ。あっという間にいなくなっちゃったの」
「ふうん・・・」
「人か妖怪かはわからないけど、助けてくれたし、悪いものではないのかな?」
「さあどうだか。俺のほうで調べてみる。これ借りていい?」
天宮くんが絵を指す。
「それは、いいけど、わざわざ調べてもらうほどじゃ」
私はただ、天宮くんが何か知っていたらと思っただけで、知らなければ別にそれで構わないのだ。
「結局なにもなかったし、そこまでしてくれなくても」
「なんかあったら困るだろ。気にしないでまかせてくれていいよ」
てきぱきスケッチブックから絵を切り取り、じゃ、と出て行こうとする。
勝手に部活終わりまで付き合ってくれるものと勘違いしてしまっていた私は、つい手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。
そのぎりぎりで、天宮くんが振り返る。
「しばらくは夜に出歩かないようにして。狐のところにも、暗くなってからは行かないほうがいい」
「は、はい。わかりました」
注意を残し、颯爽と行ってしまう。
・・・やっぱり、黙っていたほうがよかったかな。
後悔しても遅い。
再び静かになってしまった教室に一抹の寂しさを覚えつつ、画用紙と絵具を出して、コンクールに出品する絵などを細々と描いていく。
日の高いうちはあまり妖怪も外に出てこない。出られないわけではないのだけれど、真夜中に外をうろつく人間が少ないのと理由は同じ。昼間は基本的に人の世界だから。
夏休みは妖怪の絵を描く機会が少なくなりそうだと思うと、そのこともまた寂しくて、あんまり夏休み楽しくないかも・・・と初日から気鬱になってしまった。
ところが。
「ごめんなんし」
わずかに目を離した隙に、いつの間にか、目の前の机に着物姿の女の子が立っていた。
ぱっと見は十歳くらいの子で、菊の柄の着物に紫の帯を巻き、黒々とした髪の毛がその肩の辺りで切りそろえられている。
顔や首には白粉を塗り、瞼の上と唇に着物と同じ朱色が乗っていて、それがやけに艶やかだ。
「あんさんが佐久間様?」
可愛らしい外見とは裏腹に、声は大人びて色っぽい。
昼近くになり、こちらはもうそろそろ片付けをしようとしていたので、なおさら対応に慌ててしまった。
「は、はい、そうです」
「わっちは大禿と呼ばれとる妖怪でござんす。本日は他でもない、妖怪絵師のあんさんに一つ、姿絵をお願いしとうて、ほれこの通り、替え札を持って参りんした」
「はいどうぞ、すぐに準備しますので――?」
大禿さんが、何かの紙切れを一枚差し出してきた。
毛筆で、《引換券》と殴り書きされている。
スーパーのちらしを長方形に切ったもののようだった。
「・・・こ、これは?」
「これと絵を取り替えてくださるのでござんしょう?」
「は」
子供の肩たたき券さながらの紙切れに、身に覚えはもちろんない。
一体どうしてそんな話に、というか、これは誰が作ったんだろう?
「違いんすか」
私が硬直しているので、大禿さんは不審顔になる。
「これは、一体どこで手に入れられたんですか?」
「わっちの知り合いが、仲介人の男に品を渡して手に入れてくれんした」
「ちゅ、仲介人? ど、どなたのことですか?」
「あんさんの手下ではありんせんの?」
「わ、私に手下はいません。絵も、券がなくたってお描きします」
「なんと」
大禿さんは口元を袖で覆い、眉根を寄せた。
「では、その男はわっちらをたばかったと?」
「どこのどなたかご存知ですか?」
「確か、キイチとか申しんしたか」
その名前に、心当たりは一つしかない。
北の町はずれで、古美術店を構えているキイチさんだろう。
影女さんを使って妖怪たちの持ち物を盗んだり、付喪神を人に売ったりしていたのが天宮くんたちにばれて、この間ものすごく怒られたみたいなのに、まさか、今度は妖怪たちを騙して、私の絵をもらうための引き換え券を売っているのだろうか。
さすがに、これはやめてもらわなければ。
大体、私の絵に代金がいるほどの価値はない。
ともかくも目の前の大禿さんには、深くお詫びをする。
真実を知った彼女はひどく不機嫌そうに眉間に皺を寄せていたけれど、まず今は絵を描いてほしいと促された。
「報復は、後にゆるりと」
にやり、と笑う顔がおそろしい。
キイチさん、大丈夫だろうか。
もしかして、黙って券を受け取っていたほうがよかったのかな、と今さらながら思う。
罪滅ぼしも兼ね、私は全力でもって大禿さんの姿を写す。
その甲斐あってか、できた絵はとても喜んでもらえた。
「こんなら、宝を渡しても惜しくはありんせん」
機嫌を良くした大禿さんはそこまで言ってくれて、普段ならとんでもないと否定するところなのだけど、ここは少し勇気を出してみる。
「あ、あの、できれば、キイチさんを、許していただけませんか? 絵でしたらいつでもお描きしますし、かわりに渡した品物も、返してもらえるよう私からお願いしてみますので」
必死にキイチさんの助命を乞うと、幸いにも大禿さんは上機嫌なまま頷いてくれた。
「どうかお気になさらず。あんな物よりわっちはこちらのほうがずぅっと貴重に思いんす。佐久間様がそこまでおっしゃるのであらば、キイチとやらも此度は大目に見ることといたしんしょう」
「あ、ありがとうございますっ」
「ただし、次はありんせんが」
口元を袖で隠し、瞳を半月の形に歪めて言うと、大禿さんは宙に溶けるように消えてしまった。
大禿さんがいなくなると、私は自分がずっと息を詰めていたことに気づいた。
見た目に似合わず、大きな力を秘めている妖怪だったのかもしれない。そういった妖怪はまとう空気からして、まず他の妖怪とは違うのだ。
さて。
キイチさんのことは、早くなんとかしなければならないだろう。
このくらいは天宮くんがいなくても私一人で解決できるはず。
というより、しなくちゃ。
なんでもかんでも彼に頼っていては、また東山の時のような事態になってしまう。
もう猿面の人のことをお願いしてしまったのだから、これ以上の頼み事をするわけにはいかない。
キイチさんは妖怪でなく人だ。そうそう危ないことにはならないはず。
うん、決めたら即行動だ。
手早く後片付けをし、学校を出たその足で、キイチさんのお店へ向かった。




