通せんぼ
空は西がまだ明るく、東が紺色に染まっていた。
道端の街灯が灯り始め、お家に帰っていく人や、犬の散歩をしている人とたまにすれ違う。
黄昏時の景色は東天紅と似ていた。
ただし今度は逆に、人の世界から妖怪の世界へと移っていく。
闇が迫るといつも、胸には一抹の不安と、高揚感が舞いこむ。
怖いような、楽しみなような。不思議な心地。
やがて立派な鳥居が見えてきた。
奥には朱と白の美しい神社が佇み、浴衣姿の小さな女の子がいる。
「こんばんはアグリさん」
「ユキさまっ! おまちしておりました!」
おかっぱ頭が可愛らしいアグリさんは、嬉しそうに飛び跳ねて私の手を取る。
「こっちです!」
もみじの手に引かれ、本殿の後ろにそびえるお山へ入っていった。
神社に祀られるお狐様だけれど、その住処は本殿にない。いくらか山道を登ったところにひっそりとうずくまる、祠がお狐様の寝床だった。
その前で、輪になり楽しげに飲み食いする妖怪たちの姿がある。
「――おおユキ!」
真っ先に気づいてくれた一つ目入道さんが声を上げると、皆さん一斉にこちらを振り返った。
赤ら顔で「よぉ来た」「来たか」と口々にはやしたてる。
すでに皆さん、ほろ酔いな感じ。
「ユキ、ユキ、ここへおいで」
輪の中心にいる男性が、手招きをしている。
白金に光り輝く長い髪が闇夜でもよく目立つ。
人の体に三角の耳とふっくらとした九尾をおまけで生やしているこのヒトこそが、西のお山を統べるお狐様。
すでにお酒が入っているのか、ほどけきった満面の笑みだった。
「こんばんは、お狐様。お招きいただきありがとうございます」
「おうっ、さあもっと近くにおいで。可愛い顔をよく見せておくれ」
手を取られ、本当にすぐ傍に座らされる。
ふかふかの尾がまるでソファみたいで心地いい。
「酒は飲むか? 好きなだけ食べて飲むがよいぞ」
「ありがとうございます。あの、私もおみやげがあるんです」
招いていただいて手ぶらというのもなんなので、家からお酒と、評判のお店のおまんじゅうを持ってきたのだ。
しかもお酒はただのお酒じゃない。
「大天狗様からいただいたお酒なんです。中身がなくなっても、蓋をしておくとまた満杯になるんですよ」
東山に住む天狗の大将、大天狗様の宴に招かれて絵を描いた時、お礼にといただいた不思議な瓢箪だ。
私にはまだお酒の味はわからないけれど、お父さんたちがとてもおいしいと言っていたから、お狐様たちにも喜んでもらえるかなと思った。
「おお、天狗の酒か! それはいい!」
「お狐様、わしにも味見を」
「我もっ」
お酒は大好評だった。
残念ながら私は飲めないので、木の実やお魚の焼いたものなんかをちょこちょこといただきつつ、楽しそうな皆さんの様子を眺めていた。
「よい夜だなあ」
つぶやくお狐様につられて、木々の間の夜空を見上げれば、半月がちょうど真上にある。
月の光がやや弱いぶん、星の輝きも一緒に見えた。
「今宵も祓い屋どもはさぞ忙しく働いておろうな」
くっ、くっ、とお狐様は喉の奥で笑っている。
「天宮くんたちですか?」
「そうだな。この地の祓い屋どもだな」
「他にも祓い屋さんがいるんですか?」
これは初耳。
なかなか珍しい職業であると思うのだけど、そんなに何軒もあるものなのだろうか。
「そなたは知らなんだか。この辺りに祓い屋はいくつもあるぞ。そもそも天宮がこの地に来た理由は知っておるか?」
「あ、はい。封印を守るためでしたよね」
遡ればはるか昔、平安の時代。
当時、都を襲った強力な妖怪を、天宮家の人々が神様の力を使って封印した。
それからずっと、天宮家は封印を施したこの土地を妖怪たちに荒らされないように守っているのだと、綾乃さんから聞いている。
「そうだ。天宮の他にも、多くの法師やら呪い師やらが勅令を受け移って来た。いわば天宮を筆頭にした祓い屋集団だな。しかし、時を経るうち徐々に分裂していった。土地を移った者もおるし、天宮に反発するようになった者もあるようだ」
「仲が悪いんですか?」
「同業者となれば縄張り争いもあろう。まあ祓い屋どものいざこざなど、我にもそなたにも関りのないことだが」
よくわからないけど、妖怪のこと以外でも天宮くんたちには面倒事があるのかなあと、ぼんやりした認識だけはできた。
でも他にも祓い屋さんがいるということは、妖怪の見える人がいるということだ。
いつか、会ってみたいな。
「お?」
お狐様が小さく声を上げた時、夜空に細い光が走った。
青白い線が月を一瞬横切り、消える。
「なんでしょう、今の」
「ふむ。かみなり、か?」
直後、ごおぉぉん、と轟音が辺りに響き渡った。
「ひゃあっ!?」
あんまりにも大きな音だったものだから、ひっくり返りそうになってしまい、お狐様の尻尾に支えられた。
「どこぞに落ちたかな」
さすが年経た大妖怪はちっとも動じた様子がない。
変わらずお酒に口を付けている。
「ユキさま、だいじょうぶです?」
悲鳴を上げてしまったために、皆さんにお酒を注いで回っていたアグリさんが、心配して傍にやって来た。
「は、はい、ごめんなさい。ちょっとびっくりしてしまっただけです。こんなに晴れてるのに、雷が落ちることなんてあるんですね」
「鳴る神が月に酔うたのやもしれぬな」
「どこに落ちたんでしょう?」
「さあな。それよりユキよ、天の神すら見惚れ落ちてしまうほどの月夜ぞ? こんな晩は、そなたも興が乗るのではないか?」
お狐様はにっこり笑顔を私に向ける。
これは、もしかしなくとも、絵を描いてほしいということだろう。こんなこともあろうかと、ちゃんとお絵描きセットは持ってきている。
私が準備を始めると、他の妖怪たちも気づき、我も我も描いてほしいと言うので、順番にその姿を写していった。
まだまだ拙い私の絵でもとても喜んでくれるから、夢中になって描いて、気づけば月も木々の間から消えていた。
「――あ、そろそろ帰らないと」
携帯の時計を見れば、すでに真夜中だ。
これ以上遅くなるのはさすがにまずい。
「もう帰るのか?」
腰を浮かせると、寂しそうなお狐様に服の端を掴まれた。
酔っているせいなのか、まるで子供みたいな仕草。姿は大人だから、ちょっと不似合いで、微笑ましい光景だった。
「すみません、あまり遅くなると母が心配するので」
「むぅう、また来るか?」
「はいっ。今日はありがとうございました。とっても楽しかったです」
「いつでも来よ。待っておる」
お狐様たちに挨拶をし、その場を失礼した。
山中は道が暗くて見えにくいだろうからと、お狐様が紫の炎で道を照らしてくれ、行きと同じようにアグリさんが手を引いてくれた。
鳥居をくぐれば、あとは街灯の明かりでなんとかなる。アグリさんにも一礼して、家に向かう。
途中までは、ああ楽しかったなあと宴会気分に浸っていられたのだけど、しばらく歩いていると少しずつ、気持ちが落ちついてきた。
気持ちが落ちつくと、今度は頭が冷静になって、少しずつ、怖いような気がしてくる。
・・・よく考えたら真夜中に一人で歩いているのって、けっこう危ないかもしれない。
しん、と静まりかえった住宅街では、不意に何かが出て来るかもしれないと、思わせる雰囲気がある。背後を、まるで誰かにつけられているような錯覚をしてしまう。
いやいや。
お狐様のお社と私の家はすぐ近所なのだから、こんな短い距離でそうそう滅多なことは起きないはず。大丈夫、大丈夫。
間もなく家だ。
気持ち早足に最後の角を曲がろうとして、
「っ!?」
先に何かがあったために、慌てて足を止めた。
道に、不思議なものがいる。
先に結論を言ってしまえば、たぶん、妖怪。
街灯のもと、陶器のような見た目の滑らかな白い体は長く、短い足が芋虫みたいに何本も下に生え、ふくれたお餅のような形の頭に、赤い瞳と小さな口がついている。
左右にゆらゆら揺れるだけで、それ以上近づいて来るでもない。でも立ち去りもしない。
「あ、あの?」
おそるおそる声をかけてみるも、その妖怪は答えてくれなかった。
私の前に現れる妖怪のほとんどは、絵を求めてくるものだけど、何も言ってこないところをみると、ただここいるだけなのかもしれない。
「えと・・・すみません、通りますね」
と、避けて行こうとしたら、すいと妖怪の頭が移動して道を塞ぐ。
「?」
今度は反対側から行こうとすると、またしても前に。
「何か、ご用ですか?」
いくら尋ねても、妖怪は無言のまま。ただただ行く手を通せんぼする。
「あ、あの、すみません。もし、絵がほしいということでしたら、今はちょうど紙をきらしてしまっていて・・・」
さっきお狐様たちの絵をたくさん描いたから、絵具があってももう描くものがない。
しかし、説明しても妖怪はどいてくれない。
「家に帰れば紙があるので、一緒に来ていただければ」
妖怪を招くのはあんまりよくないかもしれないけど、この際やむをえない。
「私の家はすぐそこの、あそこなので・・・」
すでに視界の内にある自宅を指し示し、一歩踏み出そうとしても、やっぱりその妖怪に遮られる。
みょんみょん揺れて、まるで話が聞こえていないよう。
もしかして言葉の通じない妖怪なのだろうか。
「すみません、ほんとにすみません、通してもらえませんか?」
ひたすら謝りながら、ジェスチャーで伝わらないかとあれこれ動いてみたものの、妖怪の様子は全然変わらない。
体を揺らしている仕草がだんだん楽しげに見えてきた。
どうしよう・・・。
このままでは一生家に帰れない。
途方に暮れていると、頭上から影が降った。
落ちてきた勢いのままに。
影は、まっしろな妖怪の頭を殴りつけた。
お餅のようなぷっくりした頭が大きく歪み、一瞬で、妖怪の姿は溶けるように消えてしまった。
「っ――」
街灯の明かりのもと、白い妖怪にかわり目の前に立っている影は、一応は人の形をしている。
けど、全身黒ずくめの格好で、手には長い朱塗りの棒を、顔には猿のお面を付けていて、決して、普通の人じゃない。
呆然とする私のほうをわずかに振り返っただけで、猿面の人は闇の向こうへ走り去ってしまう。
この間、わずか数秒。
何が起きたのかわからず、私はしばらく、その人が消えた先を見つめて動けなかった。
そしてだいぶ経ってから、前に足を踏み出しても、通せんぼ妖怪は出てこない。
「・・・どちら様、ですか?」
口にした疑問は、夜に呑まれて、返ってはこなかった。




