影の思惑
「よろしい」
蝋燭の灯された暗い部屋で、正座している天宮家当主が一つ、頷き、天宮煉はようやく眠れることに安堵した。
いつもの見回り後、白児の件についての顛末をすべて説明したのである。まだまだ未熟であるために、報告の後は必ず小言をよこされるものだが、今回は奇跡的に何もなかった。
とはいえ、煉は己が十分な働きをしたのだとは思っていない。
退出し、あくびを噛み殺しながら、部屋であと数時間たらずの睡眠を取ろうと思ったところ、廊下の向こうから彼の兄である翔がやって来た。
嫌な予感を覚えたが、逃げ場はない。案の定、翔は「ご苦労さん」とわざわざ話しかけてきた。
「当主はなんて?」
「・・・よろしい、だとさ」
「ふうん。まあ、人道的ではあったろうさ」
まるで馬鹿にするような口調である。煉は足を止めずそのまま兄の横を通り過ぎた。
「おしかったなあ」
ちょうどすれ違う時、先の晩のようにまた、翔が耳打ちした。煉が無視すると、それ以上は翔も構おうとはせず、どこかへ消えた。
(何が、おしいって)
わずかに残っていた心地よい感覚が完全に消え失せ、気持ち悪いもやが胸中にたちこめる。
影女を追って屋敷に入ったあの夜、後ろにいた少女には聞こえなかっただろうが、翔は彼女の目の前で平然と煉に囁いたのだ。
このまま取り逃がしてもいいぞ、と。
あの時点では影女が唯一の手がかりだった。それを取り逃がしていいということは、佐久間ユキを呪いから救わなくてもいいということだ。
翔の言いたいことは煉もわかっている。
佐久間ユキの持つ不可思議な力は、天宮家にとって最大の脅威である。
しかし妖怪と違い、人である彼女は簡単に《始末》できる存在ではない。人が一人いなくなるのは大きな事件となる。親族があるならばなおさら。
よって彼女に死の呪いがかけられた今回の状況は、天宮が手を汚さず、脅威を取り除くのにとても都合がよかった。
直接的に命令がなされたわけではないが、当主が清めの儀式を渋った時、はっきりと煉は違和感を持った。
しかし、ならば自分に課せられた役目は一体なんなのか。
もしや本当に、ただ経験を積ませるためだけのものなのだろうか。
彼女自身は約束を守る意思があるのに、天宮にはないのではないか?
天宮を信じ頼りにしている彼女は、ここぞという時に見捨てられるのではないか?
そんなことをした後に、天宮は、果たして人の中で生きていいのだろうか。
今、自分は、彼女に礼を言われていいのだろうか。
(俺たちこそ佐久間に呪いをかけたんじゃないのか?)
しかし、疑念に明確な答えを返す者は屋敷にいない。
すべてはこの家の深い闇が呑み込み、なにもかもを都合よく、曖昧にしていくのだった。
❆
傾きかけた店の奥で、目深にタオルを巻いた店主がカウンター越しに、つい先ほどやって来た客へ、なにやら喋り散らしている。
「――奴は真正の馬鹿なんですよ。何度痛い目に遭ってもへらへらしやがって、胸糞の悪ぃ、気味の悪ぃ野郎で」
客はカウンターに腰を寄りかけている。
周囲のがらくたの群れに視線を遊ばせ、まともに聞いているようではなかったが、店主の愚痴は構わず続いた。
「絵だって、うちに預けりゃあ人にも妖怪にも高値で売って、いい暮らしさせてやったってのに、よこしやがらねえケチ野郎でね。あげく利き手を妖怪に喰われておじゃんや。まったくアホな男で」
そうそう、と店主は思い出したように付け足した。
「奴の孫娘、ユキとか言いましたか、それも同じ穴の狢ですわな。違うのは怖い目付け役がいるとこですかねえ」
その時、客の鋭い目が店主に向けられた。
「天宮って、ご存知でやしょう? 二人してガッコの制服着とりましたんで、同級生なんだか知りまへんがね。ご親切に妖怪の失くした琴を探し回っとったみたいですよ。とまあ、手前が知っとるのはこんくらいでしょうか」
店主は息つき、客を仰ぎ見る。
「で、あんさんはどこのお方なんで?」
客はついぞ、その問いには答えなかった。
「・・・佐久間ユキ、か」
かすかな独り言だけを残して店を去り、二度と戻って来なかった。
2章終了。
次章は16日開始。




