犬神、再び
呪いをかけられていた間、コンクールに出す用の絵も全然進んでいなかったので、部活はいつもどおり行い、終わるとすぐに相馬先生のお宅へ向かう。
今日も天宮くんはお仕事でいない。
また相馬先生もお忙しい様子だったため、一人でお邪魔した。場所はわかっているし、神主さんにはおじいちゃんと一緒にご挨拶したこともあるので問題ない。
神社の隣に建つ、相馬先生のお家もかなり大きい、昔ながらのお屋敷だ。
天宮くん家のような門はないけど、広い庭があって、瓦屋根の立派な二階建て。これもお狐様のご利益だろうか。
玄関チャイムを押すと、神主さんではなくその奥さんが出てくれて、「大きくなったのねえ!」なんて開口一番に言われた。
どうやら、小学校に上がる前くらいの頃にお会いしたことがあるらしいのだけど、私のほうは残念ながら覚えておらず、大変気まずく申し訳ない。
今日は神主さんがお出かけで、まだ帰宅されていないらしく、奥さんから紫色の布に包まれた琴を受け取った。
「糸はさっき締め直しておいたわ。でも鳴らないのよねえ。どこも壊れてるようには見えないんだけどねえ」
一応確認ということで、玄関でちょっと布を取って見せてもらったところ、奥さんの言うとおり、二本の糸はぴんと張られて、だいたい十センチちょっとくらいの幅の胴部分のどこにも傷はなさそうなのに、試しに糸を弾いてみても、鳴らない。
響かないとかではなく、まったく音がしない。不自然なほどに。
「妖怪の琴だからしかたがないって、主人は言ってたけれど」
「え・・・」
奥さんはいたずらっ子のように、思わず目を瞠る私を見て笑っていた。
「おじいさまは時々、不思議なものをうちに持って来られていたそうよ。きっとこの琴もその類だろうって。なら、佐久間さんで持っているほうがいいんでしょうね」
まるで事情を全部、見透かされているみたいに感じた。
神主さんたちも、おじいちゃんが妖怪を見ることを知っていたのかな。そして、信じてくれていたのかな。
さすが、妖怪の神様にお仕えする家の方だ。
琴を包み直し、丁重にお礼を述べて、お家を後にする。
一般的な十三弦などの琴よりもずっと細くて短く、決して重い楽器ではないものの、しばらく持って歩いていると、だんだん腕が疲れてくる。私、筋肉ないからなあ。
家まで落とさないように気をつけなくちゃ。鳴らない琴でも、きっと白児さんなら鳴らせるはずだ。
ちょっと道に止まって、膝などを使い、もう一度しっかり抱え直す。
「――呪いが解けてせいせいしたか?」
冷たい風が、首筋をなでる感覚があった。
思わず鳥肌が立つ。振り返れば、赤い夕陽を背に、まっ黒な姿の妖怪が、いつかの時のように浮いていた。
「犬神さん・・・」
前と同じ、背筋が凍えるようなおそろしい気配を放っていたけれど、私は怖がるよりも先に、どうして今ここに犬神さんが現れたかのほうが、咄嗟に気になってしまった。
「こ、こんばんは。なにか、ご用でしょうか」
ひとまず向き直ってお辞儀をすると、それまで牙を剥いていた(たぶん笑っていたのだと思う)犬神さんは、急に不機嫌そうに唸り出す。
「絵師に用などないと言ったろうが」
「え? あ、ごめんなさい。・・・えと、どうされたんですか?」
「どうもせぬ。たまたま通りかかっただけじゃ」
たまたま、かあ。
通りかかるのはいいとして、わざわざ声をかけたのなら私に用があると思ったのだけど・・・。
「何を持っておる」
抱えている包みを指された。それが気になったのかな。
「八雲琴です。狐神社の神主さんから、いただいてきまして。あ、そうでした、白児さんのほうの琴も先日、見つかって――」
「知っておる」
事の次第を犬神さんにも説明しようとしたら、遮られてしまった。
「もしかして、白児さんに会われたんですか?」
これには、犬神さんは答えてくれない。
「琴なぞ手に入れてどうするつもりだ」
返答いかんによっては咬みつくぞ、と言わんばかりの牙の見せ方だ。いや、気のせいかもしれないけど。怖くて、つい、琴を持つ手に力が入る。
「し、白児さんに、渡そうと、思いまして」
「なぜだ」
「じ、上手に弾けることがわかれば、お師匠様の琴を、返してもらえるんじゃないかと」
くわ、とその時、犬神さんが口を開けた。
「なぜだ。呪いは解かれ、もはや貴様と奴との縁は切れたというに、なぜ関わる。憐れな妖の子に同情したかっ」
それが心底不愉快だと言うように、犬神さんは唸りを上げる。
「一時の同情で半端に期待させ、手に負えなくなれば捨てるが人か。後のことなど考えず、所詮は己が気をよくせんがための偽善であろう。尊大で傲慢な、人とはまこと勝手な生き物ぞ。世のものはすべて己らの好きにできると思い込んでおる」
まったく偏見に満ちた意見、とは、言えなかった。
犬神と呼ばれる妖怪のことを、私は天宮くんに聞いていたから。
かつてこの日本にも普通にいたという、呪術師と呼ばれる人々の間には、蟲術という術があるそうだ。
人に呪いをかけるための術で、この一つに、飢えさせた犬の首を切り落とし、道に埋めて、怨念を募らせ呪いとするものがあるらしい。
犬神という妖怪は、その術から生まれたもの。
人を憎み、呪うために、他ならぬ人の手によって生み出された。
そう思うと、犬神さんが白児さんを拾って育てた理由がわかる気がする。
なんだか少し、似ているから。
人の勝手のせいで妖怪になってしまった白児さんに、きっと、色んなことを教えてあげたくなったんだろう。
――ああ、そっか。犬神さんはつまり、白児さんを心配しているんだ。
人の無責任な同情のせいで、また絶望させられるんじゃないか、って。
実際、作戦がうまくいくかなんてわからない。何をしても、北山の妖怪たちの心は開けないかもしれない。お師匠様の形見の琴は返ってこないかもしれない。
だったら、白児さんのために、なんて言うのはおこがましい。
私は頼まれてもいないことをしたいのだから。
「・・・私、白児さんの琴を聞いてみたいんです」
もう、最初ほどの怖さは残っていなかった。
背筋を伸ばして言うと、犬神さんは眉をひそめるような仕草をする。
「なに?」
「この琴を差し上げる一番の理由です。正直、白児さんのお師匠様の琴が戻って来るかはわかりません。でも私は、とりあえずこの琴の音色を聞けたら満足できます」
「・・・白児が弾けると思うのか?」
「はい。だって琴弾き木霊のたったひとりのお弟子さんなんですよ。それにもし、今はまだ弾けないとしても、いつかは弾けるようになるはずです」
白児さんがお師匠様にもらったのは琴だけじゃないはずだ。
弾き方の技術、曲、それらに伴う温かな記憶。
琴を弾くたび思い出せば、白児さんは独りにならない。
「白児がいつ弾けるようになるともわからぬぞ。貴様の一生のうちには叶わぬやもしれぬ」
「そうかもしれません。でもまずは、やってみなければ」
絵がうまくなるには描くしかない。琴だってなんだって、同じだろう。
白児さんが琴を受け取ってくれるかわかないけど、よけいなお世話だと言われるかもしれないけど、それだって渡してみないことにはわからないはずだ。
「・・・愚かな」
唸り声はいつの間にかやんでいる。
犬神さんは疲れたように息を吐きながら、
「――明日の夜、北山で宴がある」
唐突に、教えてくれた。
「宴で見事な演奏を披露できれば、白児は戻れるやもしれぬ」
「えっ」
そんな場があるのなら、絶対に逃す手はない。
「っ、ありがとうございます!」
思わぬ情報が嬉しくて、反射的にそう返してしまったら、
「人がおれに礼を言うでないっ」
即座に、怖い目で睨まれた。
「次にほざいたら喉を咬み切ってやる」
「ご、ごめんなさい、すみません。もう申しません」
「ふん。こんなのはただの気まぐれだ」
犬神さんは不機嫌そうに鼻を鳴らす。お礼を言ってはいけないかわり、私は深々と腰を折った。
けど、ふと気づいて、顔を上げる。
「――犬神さんは、白児さんがお師匠様のもとに戻ってもいいんですか?」
最初に白児さんを拾って育てたのは犬神さんだ。
白児さんがお師匠様に弟子入りする時、犬神さんは反対していた。白児さんを迎えにも来た。
本当は、離れたくないんじゃないだろうか。
「・・・おれは人が嫌いだ」
犬神さんは喉の奥で低く唸る。
「恨みを忘れた奴とはおれぬ」
言い残して、袈裟の袖を翻し、宙に消えてしまった。
・・・犬神さん、もしかして最初から、白児さんが山に戻れるようにするために、私のところへ来てくれたんじゃないだろうか。
わからない。思い上がりかもしれない。
でも教えてもらったからには、行動しないではいられない。
宴は明日。
どうするか決めるのは白児さん。
だからまずは、白児さんを探さなければ。




