もう一つの琴
その日、私はいつもよりかなり早く登校した。
陸上部などが朝錬をしている校庭を横目に、一年生の教室があるA棟の前を通り過ぎ、先輩方の教室があるB棟へ外から回る。
早朝の静かな校内には、ピアノの音が響いていた。
一階空き教室の、埃で曇った窓を覗くと、セミロングの女子生徒がピアノを弾いているのが見えた。
音を立てないよう壁に寄りかかり、見事な演奏に聞き惚れる。
やがて曲が終わると、頭の後ろの窓が開いた。
「おはよう」
笹原さんは、窓枠に肘をかけ微笑んでいた。
「おはようございます。すてきな演奏でした」
「ありがと。少しだけひさしぶりかな? 元気だった?」
笹原さんとは学年も部活も何もかも違うけれど、四月に知り合って以来、お互いに顔を合わせればお話しする仲になっていた。
こうして早起きできた朝には、すばらしいピアノも聞かせてもらえる。
「腕治ったの?」
右腕を指され、少しびっくりした。どうして知ってるんだろう。
「この間ちょっと見かけた時、包帯巻いてたからさ」
「あ、はい。大した怪我ではなかったので、もう治りました」
「そう、よかった。絵描きさんは手が大事でしょ? 気をつけてね」
明るい笑顔の中に、わずかに安堵が滲んでいるように見える。知らない間に、笹原さんにまで心配をかけていたみたい。
「はい、ありがとうございます」
「いえいえ。じゃあ快復祝いに何か弾いてあげよっか?」
「あ、えと、はい、ありがとうございます。ですが、その前にちょっと、笹原さんにお聞きしたいことがありまして・・・」
「うん? なに?」
後輩思いの優しい先輩は、身を乗り出して聞いてくれる。
「えっと、笹原さんのお家には琴なんて、あったりしませんか?」
「琴? いやー、さすがにないかなあ」
やっぱり。
そうだよね、いくら笹原さんが色んな楽器を演奏できるからって、そうそう持ってるものじゃない。
「どうして琴なの?」
そして当然ながら、疑問に持たれてしまった。
「あ、えっと、あんまり詳しくは言えないのですが・・・私の友達が、ある人たちに大事な琴を取り上げられてしまったんです。その子じゃうまく演奏できないから、って。でも私は、そんなことないと思うんです。なので、その人たちにその子の演奏を聞かせてあげたら、琴を返してくれるんじゃないかと、思いまして・・・」
夜中ずっと悩んで、私なりに立ててみた作戦。
でも自分で言っててなんだけど、こんな説明で伝わるんだろうか。
笹原さんにはまだ、妖怪が見えることをはっきり言えてないから、どうしてもぼかした言い方になってしまう。
不安な気持ちで窺えば、先輩は思案顔をしていた。
「ふーん? つまり、その子の腕前を証明するための、かわりの琴を探してるってわけだね」
なんと、笹原さんは私の意味不明な説明を、すんなり受け入れてくれていた。
「は、はい、そうなんですっ。二本弦の珍しい琴なんですけど」
「二本? もしかして、それ八雲琴?」
笹原さんが驚きながら口にしたその名前は、確か、影女さんを追って入ったお屋敷の女性も言っていた。
「はい、たぶん、そうです」
「それなら心当たりあるよ。っていうかサクちゃんのほうが知ってるんじゃない?」
「え?」
「ほら美術部の顧問、相馬先生でしょ? 八雲琴って、神楽を演奏する時に使われるものなんだよ。相馬先生は神社の息子じゃなかったっけ」
「は、はい。でも、え? あれって神社にあるものなんですか?」
「うん、八雲琴はね、神聖な楽器なんだよ。神様に捧げるための曲しか弾いちゃいけないことにされてるの」
「そういう楽器だったんですか・・・でもそれって、頼んで貸してもらえるものなんでしょうか」
そんな宗教的に大切な楽器なら、たとえあったとしても、貸してもらえない気がする。
「サクちゃんがお願いすればきっと大丈夫だよ」
笹原さんは軽い調子で言ってくれたけど、私にはなんの権限もないのでたぶん無理だと思います。
とはいえ、まずお願いしてみないことには、何も始まらない。
「――わかりました、相馬先生に訊いてみます。教えてくださってありがとうございました、笹原さん」
「いえいえ。助けになれたなら何より。うまくいくといいね」
どこまでもありがたい笹原さんに何度も頭を下げてから、私はすぐさま職員室に走る。
大抵の先生方は、出勤時刻が生徒よりちょっと早い。相馬先生も、幸いながらデスクにいらっしゃった。
「――八雲琴? あー、それかはわからないけど、琴なら確かあったと思うなあ。なに? 絵のモチーフにでも使うの?」
「は、はい」
神社の琴をお借りしたいと言ったら、相馬先生が都合のよい感じに解釈してくれたため、そのまま乗っかってしまう。嘘ばかりついてごめんなさい先生。
「突然のお願いで本当に申し訳ないのですが、なるべく早く、お借りできれば、と」
「わかった。今、親父に訊いてみるよ」
「あ、す、すみません」
相馬先生はいったん職員室を出て、お家に電話をかけてくれた。ありがた過ぎる。
先生の席の横で待っていると、間もなくして戻っていらして、「いいってさ」との嬉しい答えをいただいた。
「ほ、ほんとですか!?」
思いのほかあっさり許可を得られて、ちょっと拍子抜けというか、びっくり。
「どのくらい、あの、しばらくお借りしても平気ですか?」
「それなんだけど、相手が佐久間さんなら、あげるってさ。いや、返すって言ってたな」
「? 返す?」
「うちにあるその八雲琴は、もともと冬吉郎さんからいただいたものらしいんだ」
「おじいちゃんが?」
そんなの初めて聞いた。
どうしておじいちゃんが琴なんか持っていたんだろう? おじいちゃんも、それにおばあちゃんだって、琴が弾けたなんて聞いたことない。
我が佐久間家は、押し入れに高価な和楽器が眠っているような由緒ある家でもないのに。
「なんだかね、もらったはいいものの、音が鳴らなかったらしい」
続く言葉を聞いて、心臓が跳ね上がった。
「全然使い物にならないけど捨てるわけにもいかなくて、佐久間さんのほうで必要なら返したほうが、うちの物置が片付いて助かる・・・って、なんかごめんね。たぶんうちの親父が受け取る時に壊したんだろうと思う。がさつな人だから」
「い、いえっ、いただけるのなら助かりますっ」
慌てて言いながら、私はまだどきどきしている。
おじいちゃんが持っていた、出どころ不明の鳴らない琴って、なんだかとっても怪しい。何か秘密がある気がする。
さっそく今日の放課後、琴を受け取りに伺ってもいいと言っていただけたので、期待に膨らむ胸を抑え、私は一日中、学校が終わるのをそわそわと待ち続けた。




