犬神
次の日から、美術部は通常どおり活動していた。
お狐様に聞いた正体不明の泥棒に関しては天宮くんにまかせ、私はここへ私を訪ねてくる妖怪へ聞き込みをすることにしたのだ。町中を歩いて聞き回るよりは楽だろうと、天宮くんからの提案だった。
毎日、ぽつぽつと訪ねてきてくれる妖怪はいて、まず絵を描けないことをお詫びし、相手の反応を見て話を聞いたり聞かなかったり。
絵を描けないと言った途端に怒りだしてしまった妖怪には、話を聞くどころではなかった。
できる限り聞き込みを進めていくものの、情報はなかなか集まらない。
あればラッキー、くらいのつもりだったから、それはしかたがないのだけど、うーん・・・。
「どうかした?」
考え事をしていたら、隣で眠たそうにしている天宮くんに訊かれた。
「あ、うん・・・絵、描けないかなあと思って」
このままではせっかく来てくれる妖怪たちに申し訳ない。右手がだめなら左手で描けないかと、試しにスケッチブックを開いてみる。
「白児さん、絵を描かせてもらってもいいですか?」
「? いいぞ」
左手に鉛筆を握って、目の前の机に座っている白児さんを写してみる。
同じ形をしている左右の手で、どうしてこうも違うのか。全然思いどおりに描くことができなかった。
ちょっと描いては消して、描き直して、また消して、描き直して、一枚描き上げるのに右手の数倍時間がかかる。
「普通にうまいと思うよ」
ひとまずできた絵に、天宮くんは気を使って言ってくれたけど、
「なんかへん」
白児さんは正直だった。あんなに直したのに輪郭は歪で、水でふやけたように膨らんでしまっているのだ。
「ユキはほんとに絵師?」
「すみません。まだまだ修行中です」
右手で描く絵も本来は誰かにあげられるレベルではないけれど、慣れない手ではさらにひどい。
「冬吉郎の絵もこんな?」
「おじいちゃんは私なんかよりもっともっと上手です。利き手じゃなくてもきれいな絵を描けたんですよ」
おじいちゃんが残した絵で、迫力や凄みがあるのは利き手の左で描かれたものだけど、左腕を失ってから、右手で描かれた絵は繊細で、やわらかく、見ていると吸い込まれそうな深みがある。
そしてどちらで描かれた絵も、美しい。
とはいえ漠然とした感覚を口で説明するのは難しい。帰ったら白児さんにおじいちゃんの絵巻を見せてあげようかな。
「冬吉郎の絵はそんなにうまいの? いちばん?」
「はいっ、私の知る限りでは」
胸を張って言える。
「いつかおじいちゃんのような絵を描けたらとは思うんですが・・・道のりは遠いです。こんな絵では妖怪絵師の孫として笑われてしまいますよね」
おじいちゃんは私の誇り。でも同時に、それは――
「苦しい?」
不意に言われて、びっくりしてしまった。
白児さんの赤い瞳はとても澄んでいて、まるで考えを読まれたみたいだった。
「・・・はい、苦しいです」
素直に認める。
大好きな分野で、絶対に敵わないと思わせる存在がある。どうやってもたどりつけない、ましてやあれ以上のものなんて生み出せない。
そう思うと苦しいから、自分は自分らしい絵を描けばいいんだと言い聞かせてみる。でも、やっぱり比べてしまう。
「おじいちゃんの絵と比べて、自分に失望するんです。でも妖怪たちはおじいちゃんのような絵を私に望んでいます。だから申し訳なくて・・・描くことがつらくなってしまう時もあります」
「だったら描かなきゃいいのに」
「そうなんですよね。その通りです」
理想と現実のギャップが苦しい。描けば描くほど苦しみは募る。おじいちゃんのように描けるようにならなきゃと、筆を動かすのが虚しくて悲しくなる。
「でも、どうしても、描くのをやめられないんです」
苦しいのに、比べてしまうのに、気づけばまた、筆を取っている。
それこそ呪いのように。
「なんで?」
「・・・これしかないからでしょうか」
私もはっきりとはわからないけど、言いながら考えてみる。
「他になんの取り柄もないから、しがみついてしまうのかもしれません」
「ふうん・・・」
ぷらぷらと足を振りながら、白児さんは頷いた。
「おいらもユキとおんなじかもしれない」
次に出てきた言葉を意外とは思わなかった。
白児さんのお師匠様はすばらしい琴弾きだと聞いていたから。道は違っても、届かないものへの想いはたぶん、同じ。
「じゃあ、私も白児さんもがんばらなければいけませんね」
「え?」
私はスケッチブックをめくり、再び左手に鉛筆を持った。
「もう少し絵を描かせてもらっていいですか?」
「うまく描けないのに?」
「絵の練習法に、利き手じゃない手で描くというのがあるんです。慣れていない手だと対象物をよく見るようになるそうです。観察力を鍛えることが、うまくなる第一歩なんだそうですよ」
未熟者は暢気に立ち止まっていられない。利き手が使えないからって、悠長に構えていたら、貧弱な私の命はあっという間に尽きてしまうだろう。
「私は、この目で見える景色を見たままに描けるようになりたいです。今よりもっとうまくなれたら、もっともっと、素敵な妖怪たちを精確に描き写せます。それが私の理想なんです」
全身で感じるすべてを込めた絵を描きたい。見ただけで、その時の匂いや、触覚、声、感情までも、想起させるような。
光の眩さ、闇の深さ。
それが背負うもの、隠し持つもの。
いつか、すべてを感じて描き写せるようになりたい。
「今は変な絵しかできませんが、協力してもらえませんか?」
「・・・いいよ」
白児さんは二つ返事で受けてくれた上に、優しい言葉までかけてくれた。
「ユキはきっとなれるよ。冬吉郎みたいな妖怪絵師に」
そうして何枚も何枚も、日暮れ近くまで描かせてもらった。
やっぱりへただけれど、不思議と枚数を重ねるうちに少しずつ、白児さんの抱えるものが形として見えてくるような気がした。
そんな時だ。
突然、天宮くんが立ち上がり、直後に冷たい風と息苦しい空気が窓の外から流れ込んできた。
外を見ると、日暮れが近くなった空に、犬のようなものがいる。
まっ黒な耳の垂れた犬が、毛並みと同じ黒の袈裟を着て、宙にあぐらをかいている。顔は犬でも、目は人の形に近い。背筋がぞわりとする感じが、ただ者ではなさそうだった。
白児さんが机から飛び降り、私の後ろに隠れる。
その妖怪はその奇怪な眼差しで天宮くん、そして私の足もとを見る。
「久しいな白児よ」
低い、くぐもった声が犬の口から飛び出した。にやりと笑うと、白い牙が目立つ。
「佐久間、下がって」
「う、うん」
席を立ち、白児さんともども天宮くんの後ろへ隠れる。窓を境に、天宮くんと黒い犬の妖怪が対峙する。
「犬神だな?」
「そちが神憑きの天宮か」
名乗らなくとも、お互いがお互いの正体をすでに知っていた。
白児さんは私の足に抱きついて、ひどく怯えている。
確か、犬神さんの名前は白児さんの話に出てきたと思ったのだけど、友達ではなかったのだろうか。
「佐久間を訪ねて来たのなら、悪いが今は腕を怪我していて絵が描けない。後日出直せ」
すると、犬神さんは鼻を鳴らしてちらりとだけ私のことを見た。
「おそれを知らぬ生意気な絵師めに用などないわ。おれに絵はいらぬ」
一瞬だけ合った目が、あの夜の白児さんと重なる。
激しい憎悪が、込められた目だ。
「祓い屋にも用はない。白児、なぜ隠れておる」
犬神さんは鋭く白児さんへ呼びかける。
「琴弾き木霊が死んだそうだな」
すると白児さんが震えた。
「ならばもう山に留まる理由はなかろう。我がもとへ戻り、以前のように仕えよ」
白児さんは答えない。
仕えろという言葉から察するに、白児さんは犬神さんの従者のようなものだったのだろうか。一体どういう事情があるのだろう?
「おい、勝手に話をするな」
そこへ天宮くんが割って入った。
「今は日中、ここは人の領域だ。押し入ったわけを話すくらいの礼儀も持ち合わせていないのか?」
「祓い屋風情に礼を説かれるまでもないわ」
犬神さんは唸りつつも、まだ態度に余裕があった。お狐様や大天狗様ほどの力は感じないものの、けっこうな大物妖怪なのかもしれない。
「白児はもともとおれが拾い、小間使いとしておった者だ。おれが言葉を教え、字を教え、世のあらゆることを教えてやった。だのにそやつは主への恩を忘れ、北の琴弾き木霊に弟子入りなぞしおったのよ。白児がおらぬところで一向困りはせんが、手塩にかけて育てたものをやるのは気分が悪い。連れ戻そうとしたが、木霊の奴がかわりの品を差し出してきたゆえ、しばらく奴に預けてやった。だが奴が死んだとあれば、おれのもとへ戻るが道理」
貸した相手が死んだから返してもらう、と。
それは、物だったらそうかもしれないけれど。
「・・・事情はわかった。だが今、白児を連れて行かれるわけにはいかない」
「であろうな」
犬神さんが唸る。でも今度は瞳を半月の形に歪めていたから、威嚇しているのではなく、笑っているのだとわかった。
包帯を巻いた私の右腕を見ているようだ。
「祓い屋が、ずいぶんと優しいことだな。滅すれば済むものを、情念を解くため琴探しを手伝うか」
「っ、知ってるのか!? お師匠様の琴がなくなったこと!」
白児さんが、突然叫んだ。半分だけ私の後ろから身を乗り出して、犬神さんを見上げる。
犬神さんはゆったり頷いた。
「知っておるぞ。お前、琴を見つけねば山に帰れぬのであろう? 当然よな。琴を譲り受けたお前が奴の後継とならねばならぬというに、肝心の琴をみすみす盗まれてしまったのだから。だが白児よ、たとえ見つけたところで、あそこにお前の居場所はないぞ。そんなものは木霊が死んだ時になくなったのだ」
「っ・・・」
「琴探しなどやめよ。我がもとへ戻って来い」
白児さんは、うなだれた。
どうやら犬神さんは琴探しをあきらめさせたいらしい。
それは、白児さんにとって、とてもだめなことな気がしたけれど、私がこの場で何を言えるのかわからない。
白児さんの事情をわかったようでいて、実は何も知らなかったのかもしれない。
すると、天宮くんがわずかに振り返り、白児さんを見下ろす。
「こっちは呪いが解けるならなんだって構わない。琴探しをやめるというならそれでいい。ただし去る前に呪いだけは解いていけ。そうすれば天宮がお前を追うこともない」
淡々と告げる天宮くん。白児さんは今にも泣きそうな顔で、私のほうを見上げた。
どうしていいかわからない。
白児さん自身もそんな顔をしている。
私は、しゃがんで、白児さんと目を合わせた。
「白児さんがしたいようにしてください」
そして迷いながら、言葉を付け足す。
「約束しましたから、私は探そうと思います」
たとえ呪いが解けた後でも、一人でも、探すつもり。
白児さんはきゅうっと口をすぼめた。そして、意を決したように犬神さんを見据える。
「おいらは琴を探す! あれはお師匠様がおいらに残してくれたもんだ、ぜったいになくせない。おいらにはもう、あれしかないんだ。あれしか、残ってないんだ。犬神のところには戻らない」
「生意気な」
犬神さんはまた、鼻を鳴らした。
「いずれ泣きついて来るが目に見えておるわ」
「そんなことないっ」
「人はあてにならんぞ。どうせ天宮に祓われるがオチよ」
その言葉を捨て台詞とし、犬神さんは袖を翻すや、宙に消えてしまった。
「ありがとう、ユキ」
後で、白児さんは泣きながらお礼を言ってきた。
「ありがとう、ありがとう・・・」
丸まった小さな背中を、白児さんが泣きやむまでさすってあげるくらいしか、私にできることはなかった。




