社の少女
「――こんばんは?」
知らない、男の人の声が聞こえた。
鳥居の向こう側から、こちらに歩いてくる人がいる。
二十代くらいの、細身の男性だ。ストライプの青いシャツに灰色のカーディガンとスラックス姿で、茶色い革の鞄を提げている。
その人は石畳に座り込んだままの私の絵を覗き、動きを止めた。微笑みを浮かべていた顔が、なぜか強張る。
「それ貸して」
妙に真剣な様子に気圧され、訳も聞けずに渡してしまった。
この神社とアグリさんを描いた絵を、その人はじっくりたっぷり時間をかけて鑑賞し、そして時々、
「・・・すごいな・・・こんな鮮やかな・・・確かにここを描いているのに、別の世界みたいな・・・」
などなど、独り言が聞こえてくる。
「・・・あ、あの」
なんとなく怖くなり、思いきって声をかけてみる。絵から目を離したその人は、最初の優しい顔に戻っていた。
「君、うちの学校の生徒だよね? 僕は美術教師の相馬というんだけれど」
「そっ、それはどうも、初めまして」
まさかの学校の先生。まだ美術の授業は始まっていなくて、わからなかった。
怖い人じゃなくてよかった・・・。
「初めまして。一年生? 何組? 名前は?」
ほっとしていると、質問の続きは矢継ぎ早に来た。
「い、一年二組の佐久間ユキです」
「佐久間さん?」
先生の声のトーンが、少し変わる。
「もしかして、佐久間冬吉郎さんの?」
何かと思えば、次に飛び出したのはおじいちゃんの名前。
「・・・と、冬吉郎は、私の祖父ですが」
「やっぱりそうか!」
先生は途端に大きな声を出し、またスケッチブックを見る。
「冬吉郎さんの絵に似てると思ったんだよっ」
「祖父をご存知なんですか?」
「うん。僕がまだ子供の頃、たまにうちの神社に絵を描きにいらっしゃって、何度かお話ししたことがあったんだよ」
・・・うちの神社?
「あ、こう見えて神主の息子なもので。この隣が実家なんだ」
「そうなんですか?」
びっくり。神主さんにはお参りの際にご挨拶したことが何度かあるものの、その息子さんが高校の先生だったとは初耳だ。
先生は家へ帰るのに神社の前を通りかかったところ、私の姿を見つけて声をかけたのだそうだ。
ということはもしかして、アグリさんは相馬先生のお子さんだろうか。
本殿のほうを見やると、アグリさんは相馬先生が来ているのにも気づかず、まだ飛び跳ねている。
若そうな先生なのに、すでにお子さんがいらっしゃったとは重ねてびっくりだ。
「佐久間さんも、よくここで絵を描いてるの?」
「は、はい。とてもきれいな神社なので、何度も描かせてもらってます」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
笑っていた先生は、けれどその後で、ちょっと眉根を寄せた。
「あー・・・もしかして佐久間さん、美術部に入るつもりだったりするかな?」
「え?」
「いや、それだけ描くのが好きなんだと、そうかなと思って」
この質問には、ちょっと困ってしまった。
特に入部するつもりはないということを、おそらく美術部の顧問であるだろう美術の先生に言って失礼にならないかどうか。
逡巡していると、先に「実は」と、弱ったような顔で切り出された。
「今、美術部は部員がいないんだよ」
なんと、悩む以前の問題だった。部員のいない部活って、それは廃部になっているということなのでは。
「・・・部活紹介のプリントにはありましたけど」
入学式に配られた資料の中に、学校の部活一覧というものがあって、美術部の名前もそこに表記されていたと思う。入る気はなくとも目に付いた。
「うん、去年までは二人いたからね。それが卒業してしまったわけなんだけど、昔からどこの学校にもある部活だし、そのうち誰か入って来るだろうってことで、廃部じゃなく活動休止中にして、最低限の予算も確保してあるんだ」
うちの高校で美術部はそれほどまで人気のない部活らしい。私が中学校の時も、さんざんサボリ部だなんて噂されてはいたけれど。
部活に入ることが強制されていた弊害で、最初から幽霊部員になるつもりの入部希望者が数えきれないほどにいたためだ。顧問の先生が、その辺りに厳しくない方だったから。
「部員がいなくて勧誘も何もできてないんだけど、入りたい時は気軽に言いに来てね。美術室に余ってる画材とか、デッサンのオブジェなんかも自由に使ってくれて構わないから、練習するには悪くないと思うよ。ただ、一人ぼっちの活動になるかもしれないけど」
一人ぼっち、それはとてつもなく寂しい響き。
でも、誰にも見られず妖怪の絵を描けるんだったら悪くない。むしろ理想的。
でも、部活となればコンクールの絵なども描いて、実績を出さなければならないはず。好き勝手ばかりはできない、と思う。
ああでも、美術室の道具を使って絵を描けるのは魅力的だなあ。それに誰もいない教室でなら、普段はできない大きな絵なんかも描けるかも。
「見学はいつでもどうぞ」
「あ、はいっ」
部活には入らなくていいと思っていたのに、気づけばそう応えてしまっていた。
うーん、四月中はちょっと悩んでみようかな。
「佐久間さんが入部したら、来年からは部員が増えるよ、きっと」
「え?」
言われたことの意味が、どうもわからない。すると先生は私に見えるようにスケッチブックを持ち直した。
「この絵、コンクールに出したら立派な賞をいただけると思うよ。掲示板に絵だけ飾っておいても勧誘になるんじゃないかな」
「そんなことはないです!」
「いやいや、佐久間さん才能あるよ。さすがは冬吉郎さんの孫というか、お世辞抜きですばらしい」
「そんなことないです! 全然だめですっ!」
全力で否定する。美術の先生に手放しで褒めてもらえるような絵を描けているはずがない。先生は気を使ってくださっているのだ。
「む、むしろそんな絵ですみませんっ。アグリさんのこと、もっとうまく描いてあげられたらよかったのですが、まだまだ力不足でっ」
すると、相馬先生は頭をわずかに傾けた。
「アグリ? あ、もしかしてこの絵にいる女の子のこと? 変わった名前だねー。佐久間さんの知り合いの子か何か?」
・・・うん?
「い、いえ、そうでは・・・」
「あ、じゃ、創作? この子を画面に入れたのはとてもいいアイディアだと思うよ。神社の雰囲気にぴったりだ。まるで昔にタイムスリップしたみたいで、幻想的な絵になってる」
・・・あれ、なんか、おかしい。
「あの、先生?」
違和感を確かめるため、にこにこしたままの先生に訊いてみる。
「なに?」
「先生のお子さんでは」
「え?」
相馬先生は、驚いていた。
「いや、僕はまだ結婚もしてないけど・・・どうして?」
先生は、まったくアグリさんのことを知らないようだった。でも、アグリさんはここがお家だと言っていた。
一緒に住んでるはずの人が知らないなんてこと、ありえるの?
「・・・ええっと、よくわからないけど、この辺にいたんなら近所の子じゃないかな。ところで佐久間さん」
まだ混乱している私をよそに、先生が別の話を切り出す。
「もしよければこの絵、もらえないかな?」
「だめですっ!」
アグリさんが、急いでこちらに走って来て叫んだ。
「だめですっ、それはわたくしのなのですっ!」
「うちの親にもぜひ見せたいんだけど」
先生は、目の前で飛び跳ねている小さな女の子に一瞥もくれない。声にも、まるで聞こえていないかのように反応しない。
「・・・そ、れは、別の人に、差し上げる予定、なんです」
少しずつ、自分の鼓動の音が大きくなっていく。
先生は残念そうに肩を落とした。
「そうなの? まあ確かに、この絵ならほしいと言う人は他にいるか。じゃあ今度、余裕がある時にでもまた描いてもらっていいかな?」
「は、はい・・・」
声の震えを抑え、なんとか答えた。
「じゃ、また学校で。暗くなる前には帰ってね」
相馬先生が神社を出て行くと、かわりにアグリさんが私の前に立った。
まるで過去にタイムスリップしたかのような、浴衣姿の可愛らしい女の子。小さいのにしっかりとした言葉遣いで話し、神社で一人で遊んでいる。
その姿が、私には、はっきりと見えた。
「ありがとうございます、ユキさま」
アグリさんはそう言って、石畳に落ちたスケッチブックから絵を切り取った。
「また、ぜひいらしてください」
ふっ、と蝋燭の火が消えるように、アグリさんの姿が消えた。
もう誰も境内にはいない。
呆然と座り込む私の上に、桜の花びらが数枚、静かに舞い落ちた。