子守唄
部活は相馬先生に怪我をしたと話してお休みさせてもらえることになり、放課後はまっすぐ天宮くんのお家へ向かう。
相変わらず立派なお屋敷の客間へ通され、当主の綾乃さんを待つ。その間、山鳥の声が遠くに聞こえた。
春に来た時と同じく、お屋敷の中はまるで人の気配がしない。前はご兄弟の翔さんや椿さんともここでお会いしたけれど、今はお仕事に行っているのかな。
しばらくして天宮くんが綾乃さんを連れて戻って来た。
今日の綾乃さんは、藍色の地に露草の柄があしらわれた涼しげな着物に身を包んでいた。これで子供が四人もいるなんて思えないくらい若々しく、美しい。
天宮くんはこのお母さんと顔立ちがよく似ている。
綾乃さんは私の向かいに座し、問題の右腕を取るとじっくり観察してから、
「少々、厄介なものですね」
静かな口調で告げた。
「呪詛が肉体に深く根付いてしまっております。よほど人に恨みを持つ妖怪だったのでしょう」
綾乃さんは至極冷静におっしゃっているけど、私は驚いて言葉をつかえさせてしまう。
「の、呪いは解けないってことですか?」
「いいえ。ただ、清めの儀式で無理やり引き剥がすとなると、大変な苦痛を伴うでしょう」
わざわざ口にするからには、相当なものなのだろう。でも死ぬよりはましなはず。
「それでもお願いします。右手が元に戻らないと、絵が、描けないんです」
「絵、ですか」
「はい。物を持つと、とても痛いんです。我慢しても今度は痺れて、感覚がわからなくて」
「そうですか」
すると綾乃さんは束の間、こちらを見つめて沈黙した。こんな状況だけど、きれいな顔をまっすぐ向けられてどきまぎしてしまう。
「貴女にとって絵が描けなくなることは、死に等しいことなのですね」
ややあって、そう言われた。
確かに絵が描けなくなることは死ぬくらい怖い。けど、改めて言葉にされると急に恥ずかしくなってくる。
「・・・す、すみません。絵なんて、気にしてる場合じゃなかったですよね」
「いいえ、人によって大事とすることは様々です。しかし、どうかここは焦らず、まずはお体に負担の少ない方法を採りましょう」
「他に、方法があるんですか?」
「呪詛をかけた妖怪を滅せば、苦痛なく呪いは解けます」
そういえば、はじめに天宮くんもそんなようなことを言っていた。
「でも、その妖怪がどこにいるかは」
「この土地で我らから逃げおおせられる者はございません。心安らかにしてお待ちください」
頼もしい反面、なんだかおそろしくなる言葉だった。
昨夜のあの小さな妖怪を滅す、つまりは殺せば、私は助かるのだ。きっと綾乃さんたちなら簡単なことなんだろう。
でも・・・いい、のかな。
道筋を示された途端に、別のことが心配になる。
まっ白な妖怪は茂みの中で倒れていた。着物や手足を汚していたものは、本当に泥だけだっただろうか。暗くてよく見えなかったけど、あれは、血ではなかっただろうか。
だとすれば、怪我をして倒れていたということになる。
何か、事情があるのかもしれない。
私を呪ったことにも、何か、事情が。
「あ、あの、どうしても、その、退治をしなければいけないものですか?」
我慢できずに、口に出してしまった。
「話せば、呪いを解いてくれたりは・・・」
すると、綾乃さんはひどくきれいな微笑みを浮かべた。
「話の通じる相手であれば、あるいは叶うことやもしれません。ですが、その程度の知性がある者は、そもそも通りすがりの人に呪詛などかけぬものです」
「で、でしたら、やっぱりお清めをしていただくわけには、いかないでしょうか。痛いのはがんばって、がまんしますので」
「むろん、妖怪が見つからなかった場合はそのようにいたしましょう。しかし繰り返し申し上げますが、儀式はひどい苦痛を伴うものなのです。また、この地の守護者として、危険な妖を放逐したままではおれません。いずれにせよ、退治せねばならぬ者です」
優しい口調で、きっぱり言われたらもう、何も返す言葉はなかった。
祓い屋にとって妖怪は祓うのが当たり前なのだ。私のような甘い考えでいては、誰も守ることはできない。
私があの夜に声をかけなければ、あの可哀想な妖怪が、天宮家に狙われることはきっとなかっただろうに。
呪われたのは、一体どちらなのか。
「もし、件の妖怪が再び現れることがございましたら、その場でご連絡ください。天宮が貴女をお守りいたします」
綾乃さんのありがたい言葉を、私は、どう受け止めればいいのか、よくわからなかった。気づかいを嬉しく思う一方で、心がざわざわする。
結局、暗くなる前にお帰りくださいと綾乃さんに促され、天宮家を出た。
何も言わずとも、帰りは天宮くんが送ってくれる。
彼が前を、私が後ろを歩き、お互いに無言。さっき綾乃さんにお願いしたことを天宮くんに言ったところで、同じなんだろう。
私からは何も話すことはなく、天宮くんも背を向けてちらりとも振り返らなかった。
空はまだ青く、夕暮れではない。
私の家にまっすぐ向かう途中、赤や黒のランドセルを背負った小学生たちに追い抜かされた。
一年生か二年生くらいだろう。ふざけ合いながら走り回る男の子たちや、手をつないで、童謡を歌ってる女の子たち。
可愛らしい声に、心が少しだけ和む。歌は、子守唄のようだった。私も昔、おばあちゃんに歌ってもらったことがある。
懐かしいなと思った時、なぜかいきなり視界がぼやけた。
まるで霧が立ち込めたかのように、辺りが白くなり、目の前の狭い範囲しか見えなくなる。
そこには着物をまとった誰かの姿があった。細かいところは、やはりぼんやりとしてよく見えない。
長い髪が、白く輝いていた。ただ、まっ白ではなく、ほんのり赤みがかっている。
一見して、女性のように思えた。大きな木の根元に座り、膝に白い何かを乗せ、優しくなでている。
それらは一瞬だけ見え、次には急に視界が暗くなった。
「佐久間っ、佐久間!」
気づくと私は、前を歩いていたはずの天宮くんに、抱きとめられていた。
「っ、ご、ごめんなさい! あ、うぅ、わ、私、何してたんだろう?」
自分でもびっくりして、慌てて体勢を起こす。
まるで、夢を見ていたかのような感覚だった。
まさか歩きながら寝てしまった? でも直前まで眠気はなかったはずなんだけどな。それにさっき見えた光景は、なんだったのだろう?
まだ子守唄が聞こえる。そういえばさっきの女の人もこれを歌っていた気がする。
「佐久間? 大丈夫?」
少し身を屈めた天宮くんに覗きこまれ、心配そうな表情が見える。私が相当おかしな様子だったんだろう。いけない、いけない。
何でもないよと言おうとして、一歩下がったら、さっきまで周りにいた小学生たちがいなくなっていることに気づいた。
「――?」
とっくに走り去ってしまったのか。
でも、まだ歌が聞こえる。
意識しなければわからないくらい、とてもかすかだけれど確実に。すると右腕がずきんと痛んだ。
「どうした?」
天宮くんの声と顔に緊張が帯びる。
「うた、歌が、聞こえない?」
「歌?」
怪訝そうに、天宮くんは周囲を見回す。私も、どこから聞こえてくるのか探るために、よく耳を澄ませた。
一歩、二歩、進むと天宮くんが後をついてくる。行ったり、戻ったりして、やがて歌は近くの雑木林の中から聞こえてきていることが、わかった。
奇しくもそこは昨夜、あの白い妖怪を見た場所だ。ちょうど茂みの前に立つと、腕が強く痛む。
「この中から聞こえる?」
天宮くんがわざわざ確認してくる。彼には聞こえないのだろうか。
「どう?」
「う、うん、聞こえるよ。それに、なんだか、腕が・・・」
ずっと一定の間隔で痛みは生じていたけれど、天宮くんの処置のおかげでその間隔は広くなっていた。でもここに立ったらまた、狭くなった気がする。
「・・・呼んでるのかもしれないな」
つぶやき、天宮くんは躊躇なく林の中へ足を踏み入れる。
「佐久間。俺の後ろについて、歌が聞こえる方向を教えてくれ」
「え? う、うん」
かすかな音を辿り、鬱蒼とした奥へ進む。葉が日を遮り、中はだいぶ薄暗い。湿った土がぬるりと滑る。
やがて、少し開けた場所に着く。
大きな楠の前に、まっ白な子供が立っていた。




