狐の社
授業が終わると、全校生による一斉清掃の時間がある。
出席番号順で決めた班ごとに、割り当てられている掃除場所の清掃を手早く済ませ、放課後になるとみんな荷物をまとめて、ぱらぱらと教室を出て行く。
四月中は仮入部期間なので、沙耶はテニス部を見るため即行で教室を飛び出していった。
特に用事のない私は、ゆっくりリュックに教科書を詰める。
すると、視界の端を赤い頭がよぎった。
ちょうど、天宮くんがリュックを背負って、教室の前の扉から出て行くところだった。
今日一日、ついつい彼のことを目で追ってしまっていたわけだけど、授業中も休み時間も天宮くんは誰と話すこともなく、ひたすら机に突っ伏していた。
授業で来る先生たちには寝ていることを注意されても、髪色のことは何も言われていなかった。
やっぱり、染髪禁止の校則はないのかな。高校生ってバイトもできるようになるし、いきなり自由になったみたいで、かえって戸惑ってしまう。
さすがに中学校で染髪は禁止されていただろうと思うので、これが噂に聞く高校デビューというものかもしれない。緋色を選んだそのセンスと勇気がすばらしい。
ふと、まったく関係ないけど、自分の髪をつまんでみる。
私も、一度くらい染めてみようかな。似合う色があるだろうか。でも純和風なこの顔立ちじゃあ、違和感がひどくなる可能性が高い。
焦げ茶色、栗色、その辺りなら・・・うーん、いや、ちょっと勇気が出ない。
あれこれ想像しつつ、校舎を出て、陸上部やサッカー部なんかが一生懸命活動している姿を横目に、のんびり歩いて帰る。
小学生の頃から、放課後まっすぐ帰宅することは少ない。帰り道を逸れて、今日、向かったのは町の西外れ。
そこに、小さな神社がある。
立派な鳥居をくぐった奥に、朱色の柱と白壁の美しい社が佇む。
背後には西山と呼ばれる大きな山を背負い、お社の脇に一本、満開に咲いた桜の木がある。
本殿までの道には朱色の灯篭が並び、白っぽい石畳の色と相まって、とても幻想的な雰囲気をかもしだしていた。
通称、《お狐様のお社》。
本当は狐神社という。ここはいわゆる《お稲荷様》とは違う。
遠い遠い昔、この地に生まれた狐が千年の時を経て、九つの尾を持つ妖孤になった。お狐様はそれはそれは強い力を持っていて、気まぐれに天変地異を起こしては、人々はそのたびに家や田んぼを失っていたという。
困り果てた人々は、お狐様の心が少しでも鎮まるように、神社を建てた。するとお狐様はとても喜んで、以後、天変地異は収まったそうな。
立て札に書いてある神社の由来を要約すると、こんな感じ。
つまり、この神社が祀るのは厳密には神様ではなく、妖怪。幸せを祈るより、不幸をもたらさないでくれとお願いするところなのだ。だから、その辺の由来をよく知っている人は、願掛けには来ないらしい。
私は、小さい頃からおじいちゃんに連れられてよくお参りしている。
おじいちゃんは、お狐様に会ったことがあるらしかった。
「困ったことがあればお狐様にお願いしてごらん。きっと助けになってくださるよ」
ここに来るとおじいちゃんの声で、おじいちゃんの言葉が蘇る。
神社の由来を聞く限りでは恐ろしげな妖怪だけど、おじいちゃんの様子からは、どうもそれだけとは思えない。
私も、お狐様に会ってみたい。
こうして通っていたらいつか現れてくれるかも。そんな淡い期待を抱いて、今日も本殿にお参りを済ませた。
まだ辺りは明るく、すぐに帰ってしまうのももったいないので、お社の濡れ縁を借りて休ませてもらう。ちょうど桜が屋根にかかる位置で、薄桃色の天蓋が広がっていた。
春の温かな風が、優しく頬をなでていく。
ここはいつも静か。社務所には神主さんがいるはずだけれど、滅多に人の気配がしない。まるで日常と切り離された不思議な空間だった。普段と違ってゆったり時が流れていくよう。
長い長い時を生きる妖怪たちの世界とは、もしかするとこんな感じなのかもしれない。彼らは一体何を想い、どんなことをして、この世を生きているんだろう?
描けば、それが少しわかる気がする。
右手がむずむずしてきたので、トートバッグからスケッチブックを取り出し、頭上に広がる桜を、鉛筆で丁寧に写していった。
「――できた」
描き終え、一息ついた時。
「できました?」
いつの間にか、横に小さな女の子がいた。
おかっぱ頭に、茜色の浴衣と黄色の兵児帯をした、見たところ三歳かそのくらいの子。私の座っている板の間に立って、絵を覗きこむ。
「さくらっ!」
その子は明るい声で、ぴょんと跳ねた。からん、と赤い鼻緒の浴衣下駄が板の上で鳴る。
「きれいなのですっ!」
「・・・あ、ありがとうございます」
気に入ってもらえたのは、よしとして。
ど、どこの子だろう?
辺りには大人の姿がない。こんな小さな子が、一人でいてはいけないんじゃないだろうか。
ど、どうしよう?
「おじょうずなのですね」
周りをきょろきょろする私に、構わずその子は話しかけてくる。
「いえ、そんな・・・あの、どう、したんですか? 迷子、ですか?」
舌ったらずなわりに女の子の話し方はとても丁寧だったから、私もなんとなくつられて敬語になる。
「まいご?」
女の子はきょとんとし、
「わたくしのおうちはここです」
自分の足元を指す。
「あ、そうなんですか」
ということは、神主さんのお家の子なのかな。確か神社のすぐ隣に大きなお家があったはずだ。
じゃあ、大丈夫かな。社務所にはきっとまだ神主さんがいらっしゃるだろうから、一緒に帰るのだろう。
「このキをかいたのですね?」
女の子が小さな手で桜の木を指す。その仕草だけで可愛らしい。
「はい、そうですよ」
「よく、ここでえをかいているのですよね」
「え? あ、はい」
驚いた。
いつも人の気配がしないこの場所で、一体どこから見られていたんだろう?
女の子は、にこにこしている。
「ほかのえは、かきません?」
「描きますよ」
「みせてください! みたいのです!」
まるで今朝の沙耶のようにせがまれて、スケッチブックを渡した。
同級生に見せるよりは、小さな女の子に見せるほうがまだ気楽。妖怪の絵も、きっと単におもしろがってくれるだけ、と思う。たぶん。少なくとも昔の私はそうだった。
「お名前はなんというんですか?」
濡れ縁にスケッチブックを置き、じっくり一枚一枚を鑑賞してくれている女の子の横顔に訊いてみる。でも口にしてから、まずは自分が名乗らなくちゃいけないと気づいた。
「あ、私は佐久間ユキといいます」
女の子が、ぱっと顔を上げた。
「はい! ユキさま!」
「え? あ、様は付けなくていいですよ?」
「ユキさまユキさまなのです!」
どうしてか譲ってくれない。そういうごっこ遊びなのかなあ。
「わたくしはアグリともうします」
続いて教えてもらえたその子の名前はまた、ずいぶんと珍しい。
「アグリ様ですね?」
こちらも同じように呼んであげる。
ところが、女の子は眉間に皺を寄せて、難しい顔になってしまった。
「わたくしに、けーしょーはいらないのです。アグリとおよびください」
「え? だったら、私のこともユキでいいんですが・・・」
「ユキさまはユキさまなのです!」
また同じやり取りに。何かこだわりがあるのかな。でも様付けしてくれる子にこっちが呼び捨てというのは、ちょっとなあ。
「せめて、アグリさんではだめですか?」
「むぅ・・・ユキさまが、どうしてもそうしたいのでしたら」
最終的には、なんとかお許しをもらえた。不思議な遊びだ。
「アグリさんは絵がお好きなんですか?」
「ユキさまのえがすきです」
「へ? あ、ありがとうございます」
全然大した絵は描けていないのに、そんなに気に入ってもらえると、恥ずかしいというか申し訳ないというか。
「あのあの、わたくしのこともかいてくださいませんか?」
全部の絵を見終わったアグリさんが、私の袖を引っ張ってきた。
「わたくしもかいてほしいのですっ。おねがいです、かいてくださいっ」
「は、はい、いいですよ。私なんかでよければ」
「ユキさまが、いいのです!」
というわけで、さっそくスケッチブックを返してもらったのだけれど、
「わたくしのえは、いろがほしいのです」
鉛筆を握り直したところで、止められてしまった。
「しろくろのえも、とてもすてきですけど、わたくしは、いろをつけてほしいのです」
可愛い瞳にお願いされたのだから、ぜひぜひその通りにしてあげたいところ。
・・・だけど。
「すみません、今は絵具を持っていないんです」
「では、かけないのです?」
途端にアグリさんはとてもとても残念そうな顔になり、このままいけば泣き出しそう。慌てて続きを付け足した。
「少し待っててもらえますか? 家から取って来ますので」
まだ明るいし、ここは近所だ、十分くらいで戻って来れる。するとアグリさんの顔がぱーっと晴れた。
「はい、おまちしているのですっ!」
そういうわけで、私は家と神社を走って往復することになった。
劣化に強くて便利な、アクリル絵具の道具を持って戻ると、アグリさんが小躍りして迎えてくれた。息を整えたら、さっそく石畳の上にスケッチブックとパレットを広げ、白紙の上に朱色の線を引く。
私は、絵具を使う時あまり下絵を描かない。わずかでも鉛筆の線で色が濁るのを、できれば避けたいのだ。それは見えた通りの色じゃないから。特に薄い色のところは線がよく浮いてしまう。
描く対象によっては、そのほうがいい場合もあるけど、個人的にはあんまり好きじゃない。
それに、ぱっと見てどんどん色を置いていくほうが、描いていてわくわくできる。
浴衣姿のアグリさんは、まるでこれからお祭りにでも出かけるみたい。
きっとお気に入りの浴衣なんだろう。私も、亡くなったおばあちゃんに初めて浴衣を着せてもらった時は、はしゃいで毎日着るとだだをこねたっけ。
朱と白の美しい神社の前で遊んでいる、小さな彼女の姿を描く。タッチはやや淡く、水彩に近い優しい印象の絵になるように。でも陰影はしっかりつける。
明るいところを描いてから、随所に影を落としていく。山林の間、お社の縁の下、灯篭の足元、日が傾くにつれ、濃さを増していく闇たち。
闇を足すことで光が生まれ、その光がまた、見慣れたはずの景色の中に、ふと知らない闇を浮き彫りにする。
幻想的な空間に、一人きりでいる可愛らしい女の子も、こうして絵にしてみると現実世界のものではないように見えてしまう。
たとえるなら、そう、山の精霊のような。
「すてきっ!」
できた絵を見せると、アグリさんは境内を跳ね回って喜んでくれた。
下絵の時間もないし、私はわりと描くのが速いほうだから、今もまだ日は沈んでいない。
「ユキさまはてんさいなのです!」
「そ、そんなことはないですよ?」
「そんなことあります! ユキさまはだいいっきゅうの、えしであります!」
興奮する子を止めるには、どうすればいいのだろう。
悩んで・・・落ちついてくれるのを待つことしかできなかった。