目覚め
「くたばれ天狗っ!」
荒々しい足音とともに、椿さんがお社の中に入ってきた。
その後から翔さん、洸さん、慧さんが続く。
皆さんの到着を待っていた私と煉くんは、無事な姿にまずは胸をなでおろした。
どうやら椿さんたちも大天狗様の風に飛ばされたらしく、散り散りになったところから苦労してここまで辿り着いたみたい。
なので椿さんは怒って慧さんと翔さんは疲労を顔に滲ませているのだが、なぜか洸さんだけが満面の笑み。
「いちいち予定を狂わされるこの感じ、懐かしいなあっ。冬吉郎さんといるといつもこうだった」
「・・・皆さん大変申し訳ありませんでした」
「佐久間が責任感じなくていいよ」
煉くんは優しいことを言ってくれるが、ほんとに心から申し訳ない。煉くんなんか私の被害をいちばん受けてきているのに。
「あぁもちろん責めているつもりなどありませんよユキさん。妖怪たちの助けがなければ我々はここに辿り着けていません」
洸さんは私たちの後ろへ視線を向ける。
お社の最奥に鎮座するのは、左右を向いている人面を象った岩。そこにしめ縄が回されている。
到底人が扱える大きさではない二本の剣と、同じくらい巨大な弓矢が、お面を付けた宮守りたちによって岩の前に整然と並べられていた。
「永く、この時を待っておったぞ」
翁の面を付けた宮守の妖怪が、洸さんたちへ語りかけた。
他にも、神前へ供物を用意し、場を整えてくれているお面を付けた妖怪たちは、千年前から北山様にお仕えしてきた方々だ。
洸さんは帽子を取って、宮守たちへ深々と頭を垂れた。
「あなた方の主を取り上げてしまい、申し訳なかった」
お面の中で、翁のヒトは低く笑う。
「我らの魂は北山様と共にある。天宮が赦さるるか否か、見届けん」
音もなく宮守たちが神前を下がり、天宮家の方々と交替する。
私は後方でスケッチブックを開いた。
「さて、これは誰が持つ?」
洸さんがコートのポケットから鈍色の短剣を取り出し、煉くんたちをぐるりと見回す。
するとすぐに、慧さんが手を挙げた。
「俺が」
「あら珍しく積極的ね」
そういう椿さんも、前に出ようとしていたと思う。
ただ慧さんのほうが早かった。
「最後に封印を《斬る》役目、下手すれば真っ先に宿儺に殺されるでしょ」
「一応長男だからな。俺でいいだろう」
「都合の良い時だけ兄貴ぶるなっつーの。先に死んで後のことを私らにぶん投げる気じゃないの?」
「適材適所だ。俺が消えるよりお前が残ることのほうに意味がある」
「うっざい! 意地でも死なせてやらないわよ。あんたにはこれまで私が肩代わりしてきた分、全部やってもらうんだからね」
「はいはい二人とも、喧嘩は後で仲良くやりなよ」
翔さんが茶化せるくらい、双子のお二人の口喧嘩は少し柔らかくなったように思う。
お家のことで色々あったわだかまりが、いくらかは解消されたのかもしれない。
結局、短剣は慧さんが持って岩の正面に立つ。他の皆さんは洸さんの指示でそれぞれ岩を囲むような位置についた。
封印を解くのに神様の力は必要ないらしい。
ただ霊力と、鍵となる詞を捧げ、千年に渡り何重にもかけてきた枷を一つずつ解いていくのだそう。
「――あずまの地のまつろわぬもの」
「天つ神、国つ神は聞こしめさん――」
洸さん、翔さん、煉くん、椿さん、慧さんの順番で詞を繋げていく。
私にはほとんど意味がわからなかったけれど、誰かが詞を一つ終えるたび、岩にたくさん巻き付いた細い糸のような光がぷつんと切れて、落ちる間に消えていく。
煉くんたちが儀式を始める前は、そんな糸など見えなかったのに。
少しずつ、神様の気配が濃くなっていく。
怖くはない。けど心臓がどきどきする。
さらに見つめていると、やがて岩の上にその姿が浮いてきた。
私は鉛筆を持ち、薄い影のような形を紙に写し始めた。
どうしても描かずにはいられなかったのだ。
一つの頭の前後に二つの顔。
腕も前と後ろに二本ずつ、同じ肩から生えている。
燃えるような髪は天に向かって逆立っていた。
衣装は布を腰に巻き付けて、四本の腕と二本の足に金の輪を嵌めている。
紫色の、瑪瑙のような瞳がこちらをまっすぐ見つめていた。
この方が――北山様。
「――八百万神たちとともに、聞こしめせともうす」
慧さんが短剣を抜く。
か細い刃が、太いしめ縄をぶつりと、切った。
途端に強い光が社の中を隅々まで満たす。
視界がまっ白になる。
やがてそれが収束してくると、床に置いたスケッチブックの上に、絵に描いたとおりの神様が現れていた。
私の身長でやっと腰に届くかどうか。
とても大きな神様だ。
最奥に鎮座していた岩は消えている。
宮守の妖怪たちは跪き、千年ぶりに顕現した土地の主へ厳かに拝礼した。
北山様は後ろの顔で私を見つめながら、前側の腕を伸ばし、並べられている剣を取った。
即座に椿さんや翔さんたちが跳び退る。
私もはっとして、転びそうになりがら慌てて北山様の前に出た。
「えとっ、わ、私は佐久間ユキと申します!」
咄嗟に何から話そうか迷い、とりあえず自己紹介。
幸い、北山様は剣を一本拾ったところで動きを止めてくれた。
今度は前のお顔が私を見てる。
「千年前に――ううん、そのずーっと昔にも、北山様がお守りくださった者の子孫ですっ。北山様のおかげで、私たちはこの土地で平和に暮らせていますっ」
しっちゃかめっちゃかな頭で、私は思いつくままに喋り続けた。
内容はおそらく支離滅裂。
私は自分が高校一年生であること、美術部員で、妖怪の絵を描くのが趣味であること、絵はおじいちゃんをお手本にしていること、いつか、おじいちゃんみたいな妖怪絵師になりたいことなどを気づけば話していた。
千年封印されていた神様にはなんのことだか意味不明だったと思う。
でも、北山様の不思議な色の瞳はただじっと私を見つめていた。
「この土地には、たくさんの人と、妖怪と、神様が一緒に暮らしています。毎日がとても楽しいです。もう誰もこの土地を脅かしたりなんか――あ、今はちょっと、危ないことになってしまっていますが、これまで長い間、天宮の方々が私たちを脅威から守ってくれていたんです」
忘れちゃいけない、いちばん北山様に伝えたいこと。
「千年前に天宮の方々に北山様を封印させた朝廷はもう、なくなってしまいました。今生きている天宮の方々は私と同じ、この土地に生まれた子供なんです。なので、どうかお願いします北山様。どうか、私たちをお守りください」
絵を描いている間も同じことを願っていた。
猛々しい姿をした北山様が、優しい神様だったらいいな、って。
宮守の妖怪たちをまねして私も両膝を床に突き、頭を下げる。
後ろで衣擦れの音がしたから、煉くんたちも同じことをしている気がする。
『――此の地は我が治むべき処』
垂れた首に声が降ってきた。
辺りに低く反響し、まるで天から聞こえてくるかのような厳かな声。
顔を上げると北山様の脇の下が見えた。私の頭上を越え、残りの剣と弓矢を四つの手に持ち、身を屈めてお社を出て行ってしまった。
私は急いで後ろを振り返った。
そこには呆けたような皆さんが、まったく無事な姿でいる。
「・・・赦された、のか?」
翔さんが詰めた息を吐き出す。
私はもう泣きそうだった。
「ありがとう佐久間」
煉くんが傍にきて、結局涙をこらえられなかった私の背をさすってくれる。
「よかった・・・よかった、です・・・ほん、とにっ」
「佐久間のおかげだよ。天宮も宿儺も、やっと千年の呪縛から解放された」
「うん・・・」
あとは、北山様がアマノザコノヒメ様を止めてくれたら何もかもがうまくいったことになる。
これ以上絵に涙が落ちてしまわないよう、私は両目を拭った。
「ユキさん、まだ描けますか」
洸さんが私に確認する。
そうだ、まだ最後の仕事がある。
天宮家の神様をアマノザコオノカミ様に返すんだ。
「はい、描けますっ」
鉛筆を握り直し、新しいページを開く。
傍にきた洸さんの瞳を見ると、そちらも涙で濡れているようだった。私が生まれる前から、洸さんはこの日を待っていたんだもんね。
「お願いします」
洸さんに私も頭を下げ返してから、白紙に線を引く。
この神様たちを見て描けるのは、これが最後。
一番目は椿さんの剣の神様。
描こうと思って見つめていると、はじめに椿さんの姿を描かなくても神様の姿が明瞭に見えた。
翔さんの水の神様も同じ。
描ききってしまうことがなんだか惜しいと思える。けど次々にもっと描きたいとも思う。
慧さんの雷の神様を描くのは初めてだ。
この神様は慧さんのように青く長い髪が顔の上半分を覆っていて、あんなに激しい雷の力を使うのに髪の隙間から覗くのはとても静かな瞳。私が絵を描き上げるのを見守ってくれていた。
そして――煉くんの火の神様。
とてもきれいで勇壮な緋色の神様。この一年間、私を最も守ってくれた神様。こちらも煉くんを見つめているとその中に現れた。
春のあの時から変わらず、金色の双眸が強く強く私に訴える。
早く描けと言われてるみたい。
火の神様もずっと解放されたかったのかな。お別れは寂しいけど、ありったけの感謝の気持ちを込めて私は絵を描き上げた。
あぁ――終わりだ。私の役目はとうとう終わり。
嬉しい。でも、悲しい。
これまでのおそろしくも楽しい日々、一緒に過ごしてくれた煉くんも、役目とともに去ってしまう気がする。
だけど、これでいい。
ぼやける意識の中で満足していた、そこへ。
ウォォォォ――
すべてを掻き消す、恐ろしい唸り声が響いた。
「っ・・・?」
重い頭を持ち上げると、宮守の妖怪たちや椿さんたちを蹴散らし、暴れる巨大な狼が見える。
御犬の経立。
年経た狼の妖怪。
人より一回りも二回りも大きく、逆立った銀の毛が刃物のように思えた。
神様の力の宿ったおじいちゃんの腕を食べ、私のことも食べるためにお社の結界の中まで追いかけてきたんだ。
人はそのうめき声を聞いただけで体が竦んで動かなくなる。
神様を描いた後でもあったから、私は逃げようとすることすらできなくなっていた。
だから一人、いちばん近くにいた煉くんが、飛びかかる狼へ私のかわりに腕を差し出した。
「っ、ぁっ!」
牙が右腕に突き刺さる。
左腕は動けない私を抱き寄せ庇っている。
いつもすぐさま妖怪を追い払ってくれる神様の炎は現れない。
煉くんの髪はもう黒に戻ってる。
椿さんたちも皆さんの神様はすでに、絵のほうへ移ってしまった。
――こんなの、だめだ。
せっかく全部うまくいくと思ったのに、煉くんを失ってしまったら何もかも意味がない!
「だめ・・・っ」
咄嗟に狼の鼻先へ、震える右手を伸ばす。
私の腕ならあげます。
いくらでも食べてくれていい、もう絵が描けなくなってもいいから、だから――
願うと、真っ赤な光景が広がった。
血の赤じゃない。
それよりもっと激しい、炎の赤。
床に散らばった絵の中から緋色の神様が飛び出し、長い槍を狼の体に突き刺した。
「え・・・」
無意識に漏れたような煉くんの声が聞こえた。
背中を刺された狼には神様がまとう炎が燃え移り、あっという間に火だるまになる。
たまらず煉くんの腕を離して、お社の中をのたうち回りながらやがて外へ逃げていった。
助かった・・・?
「っ、れ、煉くん腕っ」
すぐに確認しようとしたけど、体がうまく動かない。声もかすれてよく出ない。
すると、緋色の神様の手が穴の開いた煉くんの右腕を掴んだ。
反射的に煉くんが腕を引こうとしたけれど、神様は大きな手でがっちり掴んでいて、炎が煉くんと、私のほうにまで移ってきた。
それは出発前、煉くんが私の右腕にお守りとして巻き付けてくれたものと同じ。
優しく温かい炎だった。
ややあって腕を放されると炎も引いて、煉くんが自分で袖をまくってみれば、咬まれた跡はなくなっていた。
神様の金色の双眸が唖然とする私たちを見下ろす。
槍を振るう分厚い手が、ぽん、ぽん、と順番に煉くんと私の頭に触れて、緋色の神様はお社の外へ出て行く。
その後を、絵から現れた他の三柱の神様も続いた。
「・・・なでられたか? 今」
「な、なでられた」
まだつむじの周辺が温かい。
傷をも治す神様の炎に包まれたからかな、少し足に力が入るようになっていた。
「おい煉、大丈夫なのか?」
心配する翔さんたちにも無事な腕を見せたら、私たちはひとしきり困惑する。
「神たちはどこに行った? アマノザコオノカミのもとへ帰ったのか?」
「いや、神界との境は社の外にはない」
慧さんの言葉を洸さんが否定する。
私たちはひとまず神様たちを追って、外に出てみた。
北山の空には濃い暗雲が垂れ込めている。
その下で、黒い天女のようなアマノザコノヒメ様と北山様が剣を打ち合わせ、周囲に北山様たちより少し小さい四柱の神様が飛んでいた。
四柱の神様はアマノザコノヒメ様に、それぞれの力を宿した武器を向けてる。
北山様に味方してくれてる。
その光景を見た瞬間、私はすべてわかった気がした。
思えば最初から洸さんが言っていた。
天宮家が降ろしていたのは北山様と同じ荒神、天ではなくもともと地にいた神様だ、って。
もしかしたら、緋色の神様たちが私に早く描けと訴えていたのは自分が解放されるためじゃなく、早く自分たちをアマノザコオノカミ様に返して土地に危害が及ばないようにさせたかったのかもしれない。
天宮家とともに千年この土地を守ってきた神様たちもまた、ここを大切な場所だと思ってくれているんだ。
お社の前で私たちは勝負の行方を見守った。
戦いの中、神様たちが暗雲の上に消えってしまってもずっと。分厚い雲を通して激しい光が地上に漏れ出ていた。
とても長い戦い。
暗雲は少しずつその範囲を狭めていく。東と南と西からも雲が追いやられてくる。
私は、ひたすらに祈り続けていた。
「あ――」
雲がひと際強く光った後、洸さんが手のひらを上へ向けた。
はらはらと、花びらのような、雪のような白いものが落ちてくる。
空に手を差し伸べると、たまたま両手を合わせたところに落ちてきた。
花びらでも雪でもなく、それは紙。
薄暗い中でも鉛筆の線が見えた。
「私の絵・・・」
町を覆っていた暗雲が紺青色の空に霧散していく。
黒い女神の姿は、そこにない。
紙の器を斬ったんだ。アマノザコノヒメ様は地上に留まっていられず、元のところへお帰りになったのだ。
終わっ、た――。
脅威を祓い、北山様たちが降りてくる。
木々に隠れた空の端のほうが少し明るい。
たぶん、今は夜明け頃。
東天紅。神様がお帰りになる時間だ。
境内にいる私たちにほとんど見向きもせずに、神様たちはお社の中に戻られる。宮守の妖怪たちだけがしずしずと後に付いて。
土地はまるで何事もなかったかのよう。
間もなく朝日があまねく照らし、平和な明日がやってくる。
私はお社の入り口に向かって、深く、頭を下げた。
「ありがとうございました」
そしてそのまま限界を迎え、意識が遠く、白い霧に覆われた。




