姉兄襲来
妖怪たちの執拗な追撃をかわし、私たちは走り続け、すっかり暗くなる頃にやっと古御堂家に辿り着けた。
お屋敷の周りには、妖怪に見つかりにくくする結界が張られているらしく、そのためか辺りに妖気は感じられない。
ひとまず、逃げ切れた。
最後のほうは私も全力で走ったので喉が痛い。
「遅い」
間髪入れず響く声。一瞬で心臓が凍りつく。
いつの間にか古御堂家の塀の上に現れた人影が、息を切らせる私たちを冷たく見下ろしていた。
東山から昇ったばかりの満月が彼女の凄みをいっそう増している。
お仕事用の狩衣に、真っ白な絹のような長い髪をまとわりつかせた椿さん。天宮家の次期当主であり、四兄弟の中でもとびきり強力な剣の神様をその身に宿した彼女に笑顔はなかった。
煉くんは私を背に庇い、拓実さんと慧さんが前に出る。
椿さんはまだ、動かない。
塀で見えないその背後から時折、何か争うような音がする。
「待ちくたびれて、先にこっちを制圧しちゃったわよ。ちんたら走ってご苦労様。さ、早くユキちゃんを渡しなさいな。今なら半殺しで赦してあげるわよ愚弟ども」
「渡すと思うのか」
慧さんが言い返すと、椿さんはあからさまに機嫌悪く、大きな舌打ちをした。
「どいつが正義面してんのよ。あんたも親父も、いい加減にしろよ」
荒々しい口調は、もう私の前でも殺気を隠す必要がなくなったことを端的に表していた。
椿さんも、翔さんも、たぶん最初から、明るい言葉の下にもどかしい怒りを潜ませていたんだろうと、今では思う。
慧さんは小さく、肩を竦めた。
「・・・お前が現状維持を最優先に動くしかないのはわかっている。この期に及んで説得はしない。俺がお前のかわりに終わらせる」
「私のかわり? はあ?」
ぶわりと椿さんの白髪が広がった。
「ふっざけんなっ!! 私が今までずっと、あんたのかわりをやってやったんだろうが!!」
夜闇を金色の剣が切り裂く。
椿さんが無数に出現させた神様の剣は、慧さんに向かうと見せかけ、大部分が私を目がけていた。
怒っていても、椿さんは冷静だ。
四方八方から縦横無尽に標的を狙う刃。たぶん一瞬の隙に決着をつけるつもりだったんだろう。
けれど煉くんが咄嗟に渦巻く炎で壁を作り、すべての剣を溶かしてしまった。
私は、お正月に茨木さんへとどめをさそうとした椿さんの剣を、煉くんが炎で退けた光景を思い出した。
なんでも、煉くんに宿る火の神様は椿さんの神様に対して相性がいいらしい。つまり、煉くんには椿さんの剣があまり効かないそうだ。
だから炎で囲まれているうちは、安全。
でも怖い相手は一人だけじゃない。
突然、空気が破裂するような音がした。
笹原さんが教室を飛び出す前に聞こえたのと同じ。たぶん私たちにしか聞こえない、古御堂家の周辺を覆っていた見えない結界が、破れた音。
どぉ、と背後から左右から、胸を圧迫する気配が押し寄せる。
天地の闇に紛れている妖怪たちが、ここにいる私たちに気づいたんだ。
きっと、間もなくやってくる。
「佐久間!」
煉くんが私を押した。
そこへ大量の水が降り、かわりに煉くんがそれをかぶってしまう。
すかさず慧さんの放った雷光が水を弾き飛ばすも、さらに間を置かずに剣が追撃する。
煉くんが素早く広げた炎はさっきよりも薄く弱々しく、うまく剣を消せずに、咄嗟に私ごと転がりなんとか避けた。
塀の上に、いつの間にか人影が増えている。
「親父は片付けたの?」
「いや古御堂を何人かノして結界破っただけ。他は妖怪どもにまかせて、俺らはこっち優先でいいだろ?」
椿さんと同じ狩衣姿の翔さんが、こちらへ手を振る。
殺気なんかまるで感じないのに背筋がぞくりとした。恐ろしい妖怪と対峙した時のように予感させる。
私は、今からこの人に殺されるのだと。
慧さんが雷を放った。
たぶん翔さんを狙ったんだろう。けれどほとんど同時に椿さんも剣を出現させていて、雷は剣に弾かれ届かなかった。
「お仕置きの時間よ♪」
椿さんが慧さんを牽制した隙に、翔さんが塀を飛び降りまっすぐ私たちへ向かう。
「古御堂っ、佐久間を!」
煉くんが応戦し、拓実さんが私の腕を掴んで後退する。
狙われている私は、どこかに隠れたほうがいい。でもこの場から離れることはできない。辺りにはすでに、妖怪の影が集まってきているから。
「頭下げろっ」
拓実さんが棒を振るって背後の妖怪たちを追い払う。あっちもこっちも、敵が多過ぎてどこを注意していればいいのかわからない。
その時、しゃらん、ときれいな音がした。
お屋敷の門が開き、出てきた正宗さんが地から湧く影たちに向かって、錫杖をフルスイングした。
一緒に衝撃波のようなすごい風が吹いて、妖怪たちは悲鳴を上げてちりぢりになる。
「クソ天宮が」
ぼそりと悪態をつく正宗さんは額がざっくり切れており、かなり心配になるくらいに血塗れで、私はつい声をかけてしまった。
「ま、正宗さんっ」
「? さ――ぐっ!」
辺りを見回した正宗さんの背を、後から飛び出した洸さんが踏みつけた。
跳び箱の踏切みたいに高く上がって、空からやって来ようとしていた黒い影にお札を投げる。途端に光が広がり、じゅわっと焼けるような音とともに影が霧散してしまった。
「ユキさん無事ですか!?」
洸さんもまた、全身ぼろぼろだった。先に翔さんたちと戦っていたんだろう。
「あ、わ、私は大丈夫ですが――」
「何をするか貴様ぁっ!」
私の声は正宗さんの怒号にかき消された。
洸さんはさっそく私の傷の有無を確認しつつ、正宗さんを見もせずに応じる。
「ごめんごめん。ちょうどいいところにでかい踏み台があったからつい」
「ふざけている場合か!」
「場合じゃないとも。ユキさんこの護符を持っていてください。絵を描くことはできますか?」
洸さんは私に何かの文字が書かれたお札を数枚握らせ、早口に言う。
「今のうちに椿と翔の神を引き離しましょう。神の力を奪ってしまえば、どうにでもできます。逆に奪えなければ勝機はない」
現状、慧さんが椿さんと、煉くんが翔さんと戦っている。
煉くんの神様は翔さんの神様が苦手で、慧さんの神様は椿さんの神様が苦手なのに。
拓実さんが今、煉くんのほうへ加勢に行ったけれど、翔さんは暗闇にまぎれる水を操って二人を軽くいなしている。
煉くんの炎も全然きかない。正宗さんたちは妖怪の相手をしながら私を守ってくれているので、これ以上は加勢できない。
「わ、わかりましたっ」
洸さんたちに庇われている私が、リュックからスケッチブックを取り出そうとした時、視界の端できらりと刃が光った。
「椿さあああんっ!」
突然、塀の下から飛び出してきた龍之介さんが椿さんの腰に抱きついた。
その拍子に椿さんの狙いが逸れて、剣が私たちの頭上を通り過ぎていく。
「さ、わんなあっ!」
悲鳴を上げて椿さんは思いきり龍之介さんを蹴り落とす。
龍之介さんは上手に地面で受け身を取り、なぜか胸元のポケットから薔薇を一輪差し出した。
「失敬! ですが貴女とは刃を交えるよりも愛を語り合いたいのです! どうか今宵こそ、月にも届くほど積もり積もったこの思いを受け取ってください!」
「翔ーっ! こいつだけはぶっ殺しとけって言ったでしょうが!」
「ごめん。俺その人と絡みたくない」
翔さんは煉くんと拓実さんを相手にしつつ、そんな会話を交わしていた。
龍之介さんが加わり、椿さんのほうも二対一。
でも龍之介さんは椿さんを傷つけたくないはずだ。
早く、私が絵を描かないと。
「ユキさん、こちらへっ」
だけど乱戦の中で、暢気に描くことはできない。
いつどのタイミングで飛んでくるかわからない攻撃を警戒しながら、本気で集中しなくては描けない神様の絵を仕上げることは、かつてないほどに難しかった。




