雪鬼
私たちを見張っているのは誰なのか。
煉くんは夜よりも昼間を警戒すべきだと言っていた。それはつまり、妖怪よりも人が怪しいという意味。
もし黒幕が人間ならば、その人はおじいちゃんの左腕を奪った人でもあるわけだから、それなりの年齢になっているだろう。
少なくともうちの親より上の年代じゃないかと思う。
ただ、妖怪の可能性も完全には拭いきれない。
私の周りの妖気は煉くんが普段から注意してくれているが、それを上回るくらい上手に人に化けていたり、なんらかの理由で気配が読みにくくなっている場合も考えられないわけではないという。
個人的には、怖い妖怪たちを集めたり、お狐様の目をも欺くようなことを人の仕業とするのは難しいのでは、と思う。
一方で、私が神様の本当の話を洸さんから聞いたことを、昨日までに知り得たのは誰なのか考えると・・・美月さんたちを除けばやはり、天宮家の人では、と思えてしまう。
でもでも、だったら私の記憶を封じるより先に腕を取っちゃうんじゃないかという疑問にすぐぶつかって、昨夜、お狐様がイライラしていた気持ちがよくわかった。
小さな子供の腕を取るのはさすがに可哀想でできなかったのかな?
だから記憶を封じるだけに留めた?
でも私が秘密を知ってしまい、やはり力を奪う必要があると思い直した?
そんな可能性も浮かぶけれど、やっぱり天宮家の人が妖怪を使うということがどうしても納得いかない。
あと忘れちゃいけないのが、はじめに私を北山に導いた存在。
私に力を与えたヒトと、奪いたいヒトの両方の正体がわかっていない。
まずは身の安全のためにも後者を早急に判明させないといけないのはそうだけど、どうにも私は、あの繋いだ手の感触が気になってしまう。
「ひどくなってきたねえ」
ふと、同じクラスの女の子が窓の外を見て呟いた。
今は授業が終わり、班ごとに割り振られた空き教室を掃除中。考え事をいったん切り上げ、その子が制服の袖で拭った窓を覗けば、景色がまっ白になっていた。
雪は今朝から降っていた。
道路の地面が露わになってきてそろそろ冬は終わるのかと思ったのに、最後の足掻きとばかりの吹雪である。
風の音がいつの間にかひどくなっている。無事に帰れるか、ちょっと心配になるくらい激しい。
空の様子を見ようと思って、隣の窓の曇りを拭い、顔を近づけると、
「――さくま、居だが?」
黒い爪の生えた指が、ひたりと窓に張り付いた。
たった一本で私の背丈ほどもありそうな、大きな指。
血走った金色の目玉が、拭った窓の隙間から私を覗き込む。
「っ、っ!?」
喉が引き攣り悲鳴すら出なかった。
逃げようとして足がもつれ、私は思いきり尻もちをつく。
「大丈夫!?」
同じ班の子が心配してくれていたけれど、それにごまかしの言い訳をするよりも早く、この場を離れなければならない。
妖怪がきた。学校にまで、私を探しに。
空き教室を飛び出して、私は煉くんがいるはずの自分の教室に走った。
一生懸命腕を振っているのに、廊下の横の窓を辿り、黄土色の指がずっと追ってくる。どうしても引き離せなくて、叫びたいくらい恐ろしかった。
「さくまぁ、居るなら返事をしねがぁ」
吹雪の中に妖怪の声が混じる。
赤い舌が真横の窓を舐める。
もう体力は尽きかけだったが、とにかく少しでも振り切ろうと走って、誰かにぶつかっても止まらなかった。
「おい!」
腕を掴まれた。
急に体が振られた拍子に、目の端から涙が零れ落ちる。
見れば腕を掴んでいるのは拓実さんだった。
「何を連れてきやがった」
「っ、わか、りませんっ」
怖いお顔に少しだけ安心してしまう。
ああでもだめだ、拓実さんを巻き込んでしまってはだめだ。
「は、はなしてくださいっ、早くっ、私がいなくならないと危ないんですっ!」
学校で妖怪に襲われるのはまずい。他の人も無事では済まないかもしれない。私がここにいてはだめなんだ。
拓実さんはそんな事情を何も知らないはずだったが、私の切羽詰まった様子からおおまかなことは察してくれたのかもしれない。
腕を掴む力が少しだけ緩んだ。
「要はお前を連れ出せば奴らは付いてくるんだな?」
「は、きゃあ!?」
答えを待たず拓実さんは私を肩に担ぎ上げる。
と同時に、外の吹雪を大きな炎が押し返した。
「いっでぇっ!?」
妖怪が悲鳴を上げて、たまらず窓から離れていく。その時に長い白髪と二本の大きな角が見えた。
鬼? みたいだ。
でもその姿をよく確認する前に拓実さんが走り出していた。
神様を宿しているわけじゃないのに、まるで煉くんみたいな動き。さすが陸上部、なんて暢気に感心してしまう。
「佐久間!」
昇降口を出たところで、煉くんが上から降ってきた。
その後ろの空、吹雪の影にちらほらと何かが見え隠れし、こちらを窺っている。
煉くんが現れると拓実さんは私を下ろしてくれたので、慌てて彼に駆け寄った。
「だ、大丈夫?」
「うん。でもまだ追い払えてない」
彼の周囲には炎が広がり、吹雪をわずかに和らげている。けれど煉くんの鼻の頭は赤くなっていたし、少し触れた手はとても冷たかった。私が妖怪に気づく前から外で戦っていたのかもしれない。
「さっき、妖怪どもがくる直前に慧から連絡があった。交渉決裂だそうだ」
「えっ・・・」
お腹の底に氷の塊を放り込まれたような衝撃だった。
あぁやっぱり、と思う一方、どうしてこのタイミングなんだろうと思う。
妖怪たちに襲われ、天宮家の助けも得られないなんて。
「こ、洸さんたちは? どうしてるの?」
天宮家が神様を返すことを承諾しなかったのなら、それをどうしても叶えたい洸さんたちの扱いはどうなる?
綾乃さんは?
彼女は洸さんやおじいちゃんを信じて一族の人たちを説得してくれたのか、それとも――
訊きたいことがたくさん湧いてくるけれど、もちろん、悠長に質問責めをしている暇なんてなかった。
「今は妖怪と天宮家の両方から隠れなくちゃいけない。合流場所も指示されてる。古御堂!」
吹雪に負けず、煉くんは拓実さんに呼びかけた。
「付いてこい! お前の家に逃げる!」
「あぁ?」
私もびっくりしたし、拓実さんはなおさら意味がわからなかっただろう。
「ふざけんな勝手に決めんじゃねえ」
「お前が知りたがってたこと全部教えてやる! だから手伝え!」
拓実さんは虚を突かれて一瞬黙った。
い、いいの? いいのかな?
煉くんの思いきりのよさに私が内心でおろおろしているうちに、拓実さんは即決する。
「俺は高ぇぞ」
にやりと笑み、ベルトに提げていた竹筒から四匹の小狐を放った。
ちょうど背後の校舎を越えて大きな白髪の鬼が顔を出したところ、その目元に黒っぽい毛並みの管狐さんたちが噛みついた。
「ギャア!」
背丈が人の十倍くらいありそうな鬼が怯んだ隙に、煉くんが私を抱き上げる。
「行くぞっ」
そうして吹雪の中へ突入した。
細かい雪の礫や冷たい風が体や顔に打ちつける。これでも煉くんの炎で弱められているんだろうけど、目を開けていられなかった。
耳や指先がかじかんで痛い。聞こえるのが風の音なのか妖怪の唸り声なのか区別がつかず、ただ寒さと恐怖に耐えていた。
いつしかそれが永遠に続くんじゃないかとさえ思えた頃、煉くんが大きく飛び上がって、足を止めた。
薄く目を開けると、閉めきった黒い雨戸が見えた。その一つが内側から開いて、拓実さんのお兄さん、龍之介さんが顔を出した。
「早く入りたまえ!」
すぐさま私たちを招いてくれた、その片手には携帯電話を握っている。
煉くんは私を龍之介さんに預けると、すぐさま踵を返した。
「佐久間を頼みます。俺は妖怪を片付けてくる」
「あっ」
止める間もなく、また吹雪の中に消えてしまう。
反射的に追いかけようとしたら、視界を背後からタオルでふさがれた。
「彼なら心配ないさ。それより君が凍えてしまいそうだよ。早く中に入って温まるといい」
龍之介さんがごしごし頭を拭ってくれる。
確かに追いかけたってできることなんかないし、コートも着ていなかった私はうまく喋れないくらい冷えていた。
かじかむ手でどうにか上靴を脱いで縁側に上がる。と、庭のほうで雪の上に何かが落ちる音がした。
煉くんにならい塀を乗り越えて帰宅した拓実さんが、雪まみれでやってくる。
「ご苦労。お前も早く温まれ」
「・・・ああ」
「た、拓実さっ、だいじょ、ぶでっ」
一言ごとに歯がガチガチ鳴ってしまう私よりも、拓実さんはまだましだった。
唇の色は失せていたけれど、そこまで手こずらず中に上がり、その際になぜか左手に絡まっていた紐を取って庭に捨てた。
「なんだいその紐?」
「雪降り婆。たぶん」
「手あたり次第に出会った人間を縛るというあれか。妖しい吹雪に乗じて、雪に縁のある妖怪たちが暴れているようだねえ」
龍之介さんは雨戸を閉めて、拓実さんにタオルを放る。拓実さんはそれを受け取り奥へ行ってしまった。
「いやあ、急に何事かと思えば」
龍之介さんはさらにバスタオルを私の肩にかけてくれ、苦笑を漏らす。
どうやら拓実さんが逃げながら、お兄さんに電話してくれたらしい。連絡を受けてほどなくして私たちが到着したそうだ。
龍之介さんとお会いするのは去年の文化祭以来。
拓実さんと同様、私が天宮家に関する秘密を抱えていると察しつつも、天宮家の長女である椿さんのこと大好きでできれば対立したくないと思っているために、秘密など知りたくないとはっきり言われた。
初対面こそ人質に取られたり色々と特殊な出会いだったけれど、弟さん想いの優しい方なのは知っている。
龍之介さんも、拓実さんも信用できる。大丈夫。
「あ、の、わた、私たち」
「急がなくていいよ。事情説明は彼が戻ってきてからで構わないさ。さあ、こちらへ」
肩を押され奥へ促される。
煉くんは大丈夫だろうか。それに洸さんは、慧さんは、無事だろうか。合流場所を指定されたと煉くんは言っていたけど、まさか古御堂家に集合なの?
そのことを古御堂家の方はご存知なの?
――なんて考えていたら、まさしくこの家のご主人が目の前からやってきた。
拓実さんと同じくらい大きな体で、龍之介さんに似た彫りの深い顔立ちに髭を生やしている、眼光鋭い古御堂家の当主。正宗さんが怒りの形相で向かってくる。
失礼ながら、私はさっき空き教室で鬼を見た時と同じくらいの恐怖を感じ、腰を抜かしそうになった。
「何を勝手なまねをしているっ!」
廊下に声がぎんぎん響く。窓が風のせいでなく揺れる。
「おっと。少しお声を抑えてください父上。血圧が上がりますよ」
「減らず口を叩くな! お前ら兄弟はいちいち親に逆らわねば気が済まんのか!?」
「ええ普段の我々へのお怒りはごもっともです。ですがそれはまた別の機会にぜひ。彼女が怯えています」
正宗さんと目が合い、私は咄嗟に頭を下げた。ちょっと泣きそう。
「ご、ごめんなさいっ、わた、し、あのっ」
あの、あの、と繰り返すばかりで言葉がうまくでてこない。怖いし寒いし突然押しかけて申し訳ないしで、頭がぐちゃぐちゃだ。
すると、正宗さんは何かをぐっと堪えるみたいに口を引き結んだ。
やがて長い、溜め息を吐く。
「・・・表の妖怪は君を追っているのか?」
急いで頷いた。
それからろくに喋れない私のかわりに、龍之介さんが要点をまとめて説明してくれる。
「学校で襲われ、天宮の末っ子くんとともに我が家に逃げてきたんですよ。彼は今、外で後始末をつけてくれていますがね。どうやら天宮家には逃げ込めない事情をがあるようです。僕らもまだ詳しいことを聞いていませんが、それより先に彼女を温かいところへ連れて行かなければ。凍死してしまいますよ」
「・・・」
間もなく、正宗さんの力み上がっていた肩は下がり、ほんの少しだけ目は鋭くなくなった。
「今、湯を立てる。話はその後だ」
「え? あ、そ、そこまで、は」
お風呂まで用意していただくなんて、さすがに遠慮しようとしたら、すかさずぎろりと睨まれる。
「今度こそ洗いざらい聞かせてもらうぞ」
断固とした口調で言い放ち、廊下を戻っていく。
かつて、おじいちゃんが妖怪たちに襲われた時、古御堂家に助けを求めた。
それとほとんど同じシチュエーションを再現してしまった今、もう見逃す気はないんだろう。
正宗さんはおじいちゃんの三十年来の友達だ。いっぱい迷惑をかけられていたはずなのに、おじいちゃんをいつでも助けてくれて、私が天宮家と関わることをとても心配してくれていた。
ずっと昔から正宗さんは味方だった。今さら疑いようがない。
――ただそれはいいとして、さっきの話ぶりからすると本当に何も事情をご存知ではなさそう。
これから洸さんたちがくるかもしれないのだけど。
そのことは言わなくていいのか悩んでいるうちに、正宗さんの背中は廊下を曲がり見えなくなってしまった。




