蠢く
茨木さんが去った後、夜も更けた頃にようやく天宮家へ戻った私は、正直へとへとだったけれど、今回ばかりはすぐに休むわけにいかなかった。
お屋敷で待っていた綾乃さんや、椿さん慧さん翔さんにも、茨木さんの目的をちゃんと説明するのはもちろん、煉くんにもまだ話していないことがあったから。
「――で、佐久間は誰に血塗りの手紙のありかを聞いたんだ?」
とりあえずと通された部屋にいるのは、煉くんご家族だけ。樹さんや、莉子さんの姿はなかった。
煉くんに問われて、でも私はどう説明したらいいものか悩む。
「ええと・・・簡単に言うと人に聞いたんですが」
「誰?」
「・・・知らない人」
「は?」
と、まあ、予想通りな反応が返ってきた。
年末に公園で出会ったところから説明して、なるべく細かいところまでと思って見た目の特徴を伝えてはみたけれど、すべて聞いてもやはり皆さん首を傾げている。
「名前もわからないんじゃなあ」
翔さんが腕組みしつつ、考えるように虚空に視線をさまよわせるが、思い当たる人はない模様。
「佐久間、絵に描ける?」
「あ、うん、たぶん」
煉くんの提案を受けて記憶を呼び起こし、スケッチブックに描いてみる。
毛先が首にかかる、さらりとした髪だったっけ。
表情は柔和だったけれど瞳は若干鋭く、かなり整った顔立ちをしていた。中性的な、均衡のとれた美しさというものだろうか。なんだか誰かにも似ているような。
「――できました。こんな感じだったと思います」
バストアップで描いたものを、皆さんに見せる。
そうしたら、全員の表情が一瞬にして強張った。
「・・・マジで?」
煉くんが呆然とつぶやく。
「もしかして、知ってる人、ですか?」
ご兄弟は顔を見合せ、煉くんが代表して教えてくれた。
「俺らの親父」
「・・・え?」
改めて、自分の絵を見る。
よーく、よーく絵と煉くんたちの顔を見比べると、似てる、気がする。
特に翔さんに似ている。
「何やってんだよ・・・」
「やっと帰って来たと思ったら、どういうつもりかしら」
「本気で行き倒れてたのかね、あの人」
「・・・」
煉くんは頭を抱えて、椿さんは指を唇に当てて悩み、翔さんは首を傾げ、慧さんは無言で固まっている。
「あの、一体どういう事情が?」
「親父はもう五年くらい家出してるんだ」
さらっと言われたことに、思考が一瞬、停止する。
「俺が、十一の時か。夜中いきなり起こされたと思ったら、自分に宿ってた神をこっそり俺に移してそれきり、消えたんだ」
「・・・ど、どうして」
「わからない。もともと自由人っつーか、何考えてんのかよくわかんねえ人だったから」
煉くんはかなり呆れているような感じ。
何度も天宮家に出入りしていても、お父さんにまったく遭遇しなかったのは、そういうことだったんだ。
あの人が私の名前に変に反応したり、送り犬さんと平然と歩いていたのにも納得がいく。
どうやって騒ぎのことを知って、血塗りの恋文のありかを見つけ出したのかは不思議だけれど。
でもなんか、そういうのも煉くんたちのお父さんだと思うと納得してしまえそう。
なんにせよ、相手が全く知らない人だったというよりは安心できるし、無事に生きていらっしゃることも確かめられてよかった。
「ユキちゃんはあの馬鹿親父の居場所を知らない?」
「は、はい。あちらのことは何もかも、聞きそびれてしまって」
「まあ素直に帰って来ないようじゃ、はぐらかされるか嘘言われるだけだったか」
「ったく、何をしてんだか」
皆さんがお父さんについてあれこれと言い合っている最中、ふと、私は気になって綾乃さんを窺った。
五年も失踪していたご主人の消息がわかったにもかかわらず、彼女は変わらずただ静かに、目を伏せていた。
❆
雪が、ちらちら舞っている。
空を雲に覆われた暗い日だったが、そのほうが、かえって白の美しさが際立っていい。
だが不思議にも思う。
濁った灰色の雲から、なぜこんなきれいな白を降らせられるのだろうと。子供じみた疑問ではあるが、すっかり大人になった今でも、男は時々考える。
「ねえ、どうしてだろうね?」
「・・・何がですか」
問いかけた相手はひどく疲れた様相だった。
スニーカーにジーンズという、なかなかに冬を舐めた格好で、人を探し町中を駆けずり回ったせいである。
結局、青年の探し人は長い階段の先にある、山中の神社でたむろっていた。
「なんで待ち合わせ場所にいてくれないんですか。うっかり天宮の家に行っちゃって、殺されかけましたよ」
「まさかぁ。いくら我が家でも、今の時代にそこまで性急なことはしないさ。まずは座敷牢で拷問するくらいだろう」
「じゅうぶん時代錯誤ですよ。こっちは完全にボランティアで調べてあげてるっていうのに」
「いいや、これは御巫の義務だ」
男は青年の言葉尻にかぶせた。
「天宮にさんざん無理をしいておいて、自分たちだけ勝手に没落、後始末もつけずにおさらばなんて、あんまりじゃないか」
「知りませんよ、先祖のやったことなんか」
「ああ君はそうだろうね。いつまでも残るのは恨みばかりさ」
「だからそれを晴らすために、協力してあげてるんでしょうが。はいこれ、京の旧家で掘り出してきました」
鞄から取り出した古紙の束を男へ手渡す。
「中はほとんど読めませんがね」
「修復のできる知り合いがいる。ありがとう。君の仕事はここまでだ」
男はひどくあっさりしている。
これまで彼のために苦労させられた青年は、文句を言いかけ、だが途中で無駄だと気づき、やめた。
かわりに別のことを口にする。
「そういえば、天宮家で女の子に会いましたよ」
「ん?」
男は古書から目を離した。
「天宮の人間じゃないって言ってましたけど、もしかしてあの子が、あなたの家出の理由ですか?」
青年はぼんやりとした目で、男を見上げていた。
「わざわざこの町を集合場所にしたのも、あの子に会うためですか?」
「そんなつもりじゃなかったが」
ふふ、と男は堪え切れなかったように声を漏らす。
「嬉しかったなあ。それに懐かしかった。早く彼女の絵を見たいよ。きっと冬吉郎さんにも負けないくらい、上手になっているんだろうね」
男は帽子を取った。上を向くと、その顔に柔らかい結晶が舞い降りる。くすぐったくて、心地良い。
「――もうすぐ、もうすぐだ。急がなくては」
独り言ち、足早に次の目的地へと向かった。
❆
夜。
闇の百鬼たちにとって最も力の増す時間帯。
男たちが密談していた山とは反対の、南の山林に転がった岩に、指を添えて呪を紡ぐ者があった。
呪は長く絶えず、ある時、岩の形に変化をもたらす。
風雨に削られ小さくなる以外に、決してどのような変化も伴わぬはずの固体が、呪の抑揚に合わせて波打ち、揺れ、やがて全体に茶色い毛が生え始める。
そして次の瞬間、岩は狩衣と烏帽子姿の猿になった。
「あたた・・・」
約束を破り封印された妖怪、猿神は、丸まっていたところからさっそく背筋を伸ばし、岩でいる間に動けなかった分の凝りをほぐす。
「まったく、ひどい目に遭うた」
不満を漏らす猿神に、呪を唱えていた者が声をかける。
猿神は「ああ、わかっとる」とうるさそうに答えた。
「佐久間を生かしてはおかぬ。今やそれはわが望みとなった」
獰猛な笑みを浮かべる化け物は、憎悪と狂気をその身に募らせる。
人には見えぬ闇の中で、多くの妖しい魑魅魍魎が、時が来たるのを今か今かと待ちわびていた。
6章終了。
次で最終章となります。




