鬼は外
・・・騒がしい音がする。
誰かが怒鳴っているような声や、ばたばた走り回る音に目を覚まし、布団の下で身じろぎした。
まだ夜だ。辺りは暗く、閉じた障子の向こうの雪明かりが、かすかに見えるだけ――と思ったその時、影が走った。
障子を横切って、一瞬だったけど、見間違いでなければ、人の形をしたものに長い角が二本生えていた。
鬼・・・?
すぐにその妖怪のことが浮かんだ。
「動いちゃだめ」
静かな声に、姿を探せば襖に背を当てて立つ莉子さんがうっすら見えた。
「・・・何かあったんですか?」
「どこかの妖怪が忍び込んだみたい。ゆんちゃんは大人しくしててね」
「妖怪って、今、そこを通った?」
「うん。でも心配しないで。煉や椿ちゃんたちがすぐ退治してくれるよ」
莉子さんの言った通り、部屋で息をひそめていれば、やがて騒ぎは収まっていった。
完全に静かになって、それからまたしばらくすると煉くんが部屋にやって来た。
「佐久間、無事?」
照明を点けると、煉くんの格好は仕事衣装の狩衣ではなく、もっとラフな格好で、寝ていたところをいきなり起こされたという感じだった。
「むぅ、ゆんちゃんだけ? 莉子の心配は?」
「お前は大丈夫だろ」
「あ、と、私も大丈夫です」
「ん。とりあえず追い払ったから安心して」
「退治しなかったの?」
莉子さんの尋ねに煉くんが頷く。
「今、慧たちが深追いしてる」
「強かったの?」
「総出でかかってなんとか追い払えた」
「えっ、じゃあすごい大物だったんじゃん? 正体は? わからないの?」
「これから調べる。俺も出てくるから、お前は佐久間を守ってろ」
「はーい」
そうして煉くんはすぐに、また行ってしまう。
「あの、大丈夫なんですか?」
今の会話を聞く限り、けっこう大変そうな状況だ。
そもそも祓い屋のお家に妖怪が押しかけて来た時点で異常だ。
「煉たちのことだったら心配いらないよ。四兄弟そろったらどんな妖怪も敵わないもん。でも相手の狙いも正体もわかんないし、警戒しとくに越したことはないかなー。ゆんちゃんは気にしてもしょーがないから寝ちゃっていいよ」
言われると同時に照明を消され、私は布団に潜るしかなくなる。
莉子さんが隣の布団に戻る気配はなく、ずっと襖の前に座っているようだった。
皆さんが警戒しているなかで、一人ぬくぬく寝るなんて、かなり気が引ける。けど、まあ、他にどうしようもなかった。
あきらめて目を閉じて、再び開けたら外が明るくなっていた時は、私って自分で思ってたより神経図太いのかなあと反省した。
お父さんとお母さんのこと暢気とか言えない。
部屋に莉子さんはおらず、とりあえず着替えて布団を畳み、お呼びがかかるまで待つことにする。
勝手に動いたら怒られるかもしれないし。
ただ待っているのも暇なので、スケッチブックと鉛筆を鞄から出し、昨夜、一瞬だけ障子に映った影を描いてみた。
上半身しか映らなかったため、とりあえずそこだけ。髪は長く、ばらばらと先が乱れ、そして立派な角が二本、たぶん額の辺りから生えていた。
改めてシルエットを描いてみても、やっぱりこれは鬼だろうと思う。前にも鬼を見たことがあるから、きっと間違いない。
鬼が、天宮家に何をしに来たのだろう。まさかとは思うけど、私に用があったわけでは・・・ない、よね? 知らない妖怪にまで名前を知られてしまっている昨今、その辺りが心配。
絵を見て悩んでいたその時、どたどた大きな足音が聞こえ、がたん、と襖が一度揺れた。
誰か来たのかと思ったけれど襖は開けられず、外から「佐久間は関係ないっ!」と煉くんの怒鳴る声がした。他にも声は複数ある。
な、なんだろう。
襖越しではくぐもって、内容はよくわからないが、ちょこちょこ私の名前が聞こえてくる。
気になって、そっとこちらから開けてみた。
すぐ間近に緋色の頭があった。
煉くんは部屋の入口に背を向け、まるで庇うような体勢だったのだ。
「っ、佐久間、中にいてっ」
「いいや、出て来てもらいましょう」
慌てて私を押し戻そうとする煉くんを、遮るように言ったのは、莉子さんのお父さんだ。
後ろには椿さんたちの姿もある。
「昨夜の鬼はあなたが呼び込んだものですか」
あまりに唐突過ぎて、咄嗟に私は答えられず、かわりに煉くんが怒鳴った。
「佐久間は無関係だと言ってるだろう!」
「お前には聞いていない」
莉子さんのお父さんは厳しい表情で続ける。
「昨夜の鬼は西へと逃げ、山の中に入ったところで姿を見失いました。西山と言えば九尾狐の縄張り。あなたは狐と縁故が深いのでしたね?」
鬼がお狐様のいる西山で消えた?
お狐様が何か関係しているのだろうか。でも、少なくも私は西山で鬼を見たことがない。
「心当たりはありませんか」
「・・・すみません。ちょっと、わからないです」
「ねえ、少し冷静になってもいいんじゃない? 樹おじさま?」
と、椿さんが莉子さんのお父さん、樹さんの横に回って言った。
「あの鬼はおそらく外から来たものよ。彼女には関係ないんじゃないかしら」
「では縁もゆかりもない鬼が偶然、彼女が来た日の夜に祓い屋へ忍び込んだと?」
「それは・・・」
椿さんは言葉に詰まってしまう。
再び樹さんは私のほうへ問いかけた。
「どうでしょうか、佐久間さん。ここはぜひ、あなたにご助力願いたいのですが」
「・・・え?」
樹さんは目を細めた。その表情が、お姉さんの綾乃さんにとてもよく似ている。
「鬼の正体と目的を調べていただけませんか」
「・・・わ、私が、ですか」
「相手は妖気を隠す特殊な術を心得ているらしく、神の力をもってしても気配を探知することができません。事態は深刻なのです」
「彼女をわざわざ妖怪のもとへ出向かせると?」
懐疑的な翔さんにも、樹さんは頷いた。
「妖怪たちに慕われている彼女は連中への聞き込みに最適だろう。今は御巫のこともある――いかがでしょう、佐久間さん。あなたが心から我らの味方であるとおっしゃるならば、力を貸していただけませんか」
・・・要するに、鬼が消えた西山の、お狐様のところに行って、正体を確かめて来てほしいということなのかな。
私のほうは全然構わないのだけれど、問題は煉くんや椿さんたちがとても嫌そうにしていること。
たぶん、あまり得体の知れないものと私を関わらせたくなくて、あとは単純に私みたいなのには頼りたくないんじゃ、ないだろうか。
いわばプロが素人の手を借りるようなものだもの。頼りないし、信用もできないはずだ。
それは樹さんだって、同じ気持ちだと思うのだけど・・・。
「――私からもお願い致します」
凛とした声が響いた。
皆さんが振り返ると、寒椿の柄の入った黒い着物の女性、天宮家ご当主の綾乃さんが、静かに佇んでいた。
椿さんたちが道を開け、ただ煉くんだけが動かない。
綾乃さんは途中で止まり、頭を下げた。
「新年あけましておめでとうございます、ユキさん」
「は、はい、おめでとうございます」
こちらも慌てて頭を下げ返す。綾乃さんはきちんと新年の挨拶を済ませてから、本題に入った。
「状況は樹の申した通りです。もしお力を貸していただけるのならば、大変助かる次第です」
天宮家の当主からも直々に頼まれてしまっては、もう、断るに断れなかった。
「私なんかでお力になれるのでしたら、もちろん」
「ありがとうございます」
綾乃さんは樹さんと共に、きれいに微笑んだ。
「何はともあれ、まずはお食事を。ただいまお部屋へお持ち致します」
「え? あ、す、すみません」
それから皆さんは綾乃さんの目配せに従い、解散した。椿さんたちはまだ軽く眉をひそめているようであったけれど、特に何も言わなかった。
煉くんだけがその場に残り、
「・・・ごめん。やっぱ変なことになった」
静かになったところで、謝られてしまった。
「ううん、私は全然、構わないですよ。お狐様にお話を聞いてくればいいんだよね。お狐様のところなら安全だよ」
「でも昨日の鬼はこの土地の者じゃないんだ。ほら、佐久間のじいさんが昔襲われたのって、この土地の外から来た妖怪って話だったろ?」
「あ・・・」
そうだ。妖怪絵師として、妖怪たちから愛されていたおじいちゃんを突如として襲い、利き手を奪ったのは土地の外の妖怪だったと、当時現場にいた綾乃さんと、それからお狐様も証言している。
今回、天宮家に忍び込んだ鬼も外から来たもの。もし、忍び込んだ理由が私にあったのだとしたら、その鬼が昔、おじいちゃんを襲った相手である可能性は、ある。
「じゃ、じゃあ、なおのことよく調べないとだよね」
ぎゅっと胸の前で自分の手を握ると、煉くんは心配そうな顔をした。
「無理、してないか?」
「・・・た、多少は。――でも、怖くたって立ち止まっていられないから」
もしおじいちゃんを襲った妖怪だったら、また何かがわかるかもしれない。とにかく手がかりのあるほうへ、私は進まなければいけないんだ。
それに私は、一人じゃないから。
怖いけど、怖くない。




