ぬらり、くらり
「――ん、これユキちゃんの携帯? 鳴ってるよ」
「え?」
一息ついてすぐ、バッグの外側のポケットに入れておいた携帯を、翔さんがわざわざ手渡してくれた。
しかし画面に表示されている相手の番号は知らないもの。
それにちょっと躊躇していると、煉くんがコップに口を付けながら覗き込む。
「出ないの?」
「ええと、知らない番号で」
「間違い電話とか?」
「あ、そうかも。だったら出たほうがいいよね」
何度もかけ直させたりしたら大変だ。
ぱっと話を終えるつもりで、その場で通話ボタンを押す。
『遅え』
非常に不機嫌な声が、相手方の第一声だった。
「え? あの」
『今すぐうちに来い。あぁ絵描きの道具も一応持って来い』
・・・ええと、このとっても聞き覚えのある感じは、まさか。
「拓実さん、ですか?」
『聞くな馬鹿。決まってんだろ』
やっぱりそうだった。
古御堂拓実さん。
一個上の先輩で、とても強くてちょっぴり怖い祓い屋さんだ。私と天宮家との関係に疑いを持ち、尾行されたり尋問されたり、妖怪の巣に放り込まれたり色々あったけれど、結局は助けてくれたり、落ち込んでいる時に励ましてくれたりと、昨年は大変お世話になった。
でも、拓実さんとは連絡先を教え合うほど仲良くなれてはいなかったはずだ。
「ど、どうして私の番号をご存知なんですか?」
『うるせえ。とっと来ねえとぶっ殺すぞ』
新年明けても変わらず怖い。
自宅にいたならきっとすぐさま私は出て行ってたと思う。
『天宮には連絡すんじゃねえぞ』
と、言われましても・・・
「おい古御堂。佐久間になんの用だ」
煉くんが身を乗り出し、電話口に言ったら、向こうでわずかばかりの沈黙が流れた。
『・・・お前、天宮といんのかよ』
「は、はい。実は、家に妖怪が押しかけて来まして。今、天宮家に避難させていただいてる状態なんです」
『馬鹿が、敵かもわかんねえ家にのこのこ行きやがって・・・まあいい。じゃあな』
「え? あの」
ぶつ、と通話は切れ、それきりだった。
「なんだって?」
「さあ・・・今すぐ来いとだけで。一応、絵を描く道具も持って来いって」
「また佐久間に仕事を手伝わせる気だったんだろ」
確かに、私は一度、鬼をおびき寄せるために使われたことがあった。
でも、そこで拓実さんの邪魔をしたせいで、もうお前みたいな馬鹿は使わない的なことを言われたんだけどな。
じゃあ、他になんの用だったんだと訊かれれば、さっぱりわからない。
「案外、デートの誘いだったりして」
と、これは酔っぱらった翔さんが言ったことだ。
「あ、あり得ないです」
「そう?」
「拓実さんにはすごく嫌われてるんです。馬鹿とか殺すとかよく言われますし、会うたびに苛つかせてしまって・・・」
自分で言っていたらほんとに嫌われているのが再確認でき、軽く落ち込んできた。全部、私が悪いわけだけど。
「素直に愛情表現するタイプじゃなさそうだものねー。ユキちゃんはモテモテで困っちゃうわね?」
つ、椿さん、私の話、聞いてくれてないのかな?
「全然っ、モテたことなんかないですっ。拓実さんには本気で嫌われてますっ」
「ま、うちとしてはそう思ってくれてたほうが都合がいいかしら。ねえ、煉?」
なんでかこの流れで話を振られた煉くんは、黙ってコップを仰いでいた。
モテモテじゃなくていいから、たった一人にだけ、振り向いてもらえたらいいのになあ。
急に話題の中心となってしまい、やや気まずく、気分直しに私もジュースを飲もうとコップを探したら、自分のものが見つからない。確か近くに置いていたはずだけど・・・と視線で辿った先に、丸まった背中が見えた。
「・・・あ」
私のコップに一升瓶からお酒をついでいる、赤ら顔のなまずのようなおじいさんと、背中合わせに座っていたことに今、気づいた。
「・・・ぬらりひょん、さん?」
私がその名前を言ったことで、煉くんたちも気がつく。
祓い屋のお家に堂々と入り、現在まさしく祓い屋の皆さんに囲まれているぬらりひょんさんは、しかしマイペースにちびちびお酒に口をつけていた。
「佐久間、こっちに」
煉くんに手を引かれて、とりあえず距離を取る。
「お前、佐久間に用なのか?」
煉くんは箸やコップを置いた椿さんたちを目で制し、ぬらりひょんさんの傍にしゃがんだ。
ぬらりひょんさんは、人のお家に勝手に上がって寛ぎ、そして帰るだけの害のない妖怪。
でも、今日一日で二度も、しかも二度目は祓い屋のお家で出くわしたのは、たぶん、偶然じゃない。
「なぁに、ちと、佐久間の様子をの」
私に妖怪が用があるとすれば、大抵絵を描いてほしいということなのだけれど、ぬらりひょんさんの口ぶりはちょっと違う感じだった。
「私が、どうかしましたか?」
「そち、といおうか・・・ふうむ、まだ、早かったかのう。ううむ、じゃが、冬吉郎の時は、そろそろ・・・」
「おじいちゃんをご存知なんですか?」
「知っている、のか、どうか・・・」
「はっきりしろ」
のらくらといまいち要領を得ないぬらりひょんさんに、煉くんが少し尖った口調で促す。
「まあ、あれじゃな。ほれ、時間がの」
「なんだよ」
「うむ、だからの、早くしたほうがよいぞ、佐久間。そちが動かんと、わしらもの、なんじゃ、ちと困るやら、困らんやら」
「え、ええっと・・・?」
時間があれだから、早くしたほうがいい? 何かの時間がないということ? 私が動かないと困るって、一体なんだろう。
私だけでなく、この場の誰もが眉をひそめて顔を見合わせる。
そして、もう少しちゃんとした話を聞こうとぬらりひょんさんを見やったら、
「あ、あれ?」
コップと一升瓶しか、その場に残っていなかった。
前と同じ、窓も襖もどこにも隙間はないのに、意識を離した隙にいつの間にやら消えている。
「・・・ま、相手がぬらりひょんじゃあ、仕方ないわね」
妖怪に侵入されたというのに、逃げられても椿さんたちは全然動じず、また箸やコップを手に取る。
い、いいのかな?
と思っている心が顔に出たのか、たまたま目が合った翔さんに、にこりと微笑まれた。
「あのね、さっきの問答でもわかったかと思うけど、ぬらりひょんっていうのは捉えようのない存在なんだ。結界を張ろうがすり抜け、術をかけるのも難しい。そのかわり特に何もしてこないから放っておくのが一番なんだよ」
「そう、なんですか」
存在を捉えることができない、というのはなんだか、とても妖怪らしい妖怪のような気がする。
ちょっと右手がむずむずしてきた私は、荷物からスケッチブックを引っ張り出し、覚えているぬらりひょんさんの姿を写してみた。
煉くんと、途中でなぜか慧さんにも覗かれながら、ほろ酔いな妖怪の姿を描き上げる。
「・・・君はぬらりひょんすら捉えられるのか」
絵ができると、不意に慧さんがつぶやいた。そちらを見やれば、前髪の下に垣間見える黒い瞳と目が合う。
「えっと・・・?」
「俺たちにはここまではっきり見えなかったよ」
と、煉くんが絵を指して言う。
「見えないというか、存在が意識に留まらない、って言うほうが正確かな」
「どういうこと?」
「そこに在ることはわかる。でも目を離した瞬間にどんな姿だったか思い出せなくなるんだ。並の感覚であの妖怪は捉えられない。・・・佐久間が不思議な力を持ったのは、そういう感覚が鋭かったせいなのか――もしくは、何かにその感覚まで与えられたのか」
煉くんは絵を見つめて考え込んでいる。
霊力という生まれ持った力がなければ、見ることのできない妖怪を、力もなしに見させるように、私を変えた存在とは一体なんなのだろう。
そうして私に捉えられた存在は、何を伝えたかったのだろうか。
穴が開くくらい絵を見つめていても、紙の中のぬらりひょんさんが動き出して、答えを教えてくれることはなかった。




