深夜の客
「――もし、もし」
皺枯れた声と、こつこつ窓を叩く音がした。
私は、薄く瞼を開けて机の上の目覚まし時計を見る。針と文字盤は暗いところでも淡く緑色に光るものなので、それで今が真夜中の二時であることが知れた。
気のせいだろうと思ってまた目を瞑る。だけど声は止まない。「もし、もし」と一定間隔で窓を叩く音も同時に続く。
ここでようやく、私は完全に目を覚ました。ぞわりと背筋が寒くなったのだ。
こんな真夜中に、人の声。ここは二階なのに。
泥棒? いやいや、だとすれば窓を叩くようなことはしないはず。
じゃあ、なに?
「開けてくだされ、佐久間様。佐久間様、開けてくだされ」
とうとう名前を呼ばれた。でも夜中に二階の窓から訪ねて来るような知り合いはいない。
おそるおそる、ベッドから出て窓にそーっと近寄った。カーテンをほんの少し開けてみる。すると、
「っ!」
即座に、カーテンを閉めた。
一瞬だけど、外のサッシの部分に、手の平くらいの小さな人が立っているのが見えたのだ。
着物を着て、骸骨のようなお面をかぶっていた。小さな拳で、窓ガラスをこつこつ叩いていた。
「佐久間様? いらっしゃるのですな。いらっしゃるのならば開けてくだされ」
覗いたのであちらにも気づかれてしまった。
それにしてもなぜ、妖怪が私の名前を知っているんだろう。そして私になんの用だろう。怖い、けど、気になる。
「お頼みしたきことがあるのです。どうかここを開けてくだされ」
私に頼み事? ますます気になる。
どうしようかな・・・相手は妖怪、だけれど、わざわざ訪ねてくれたのに無視するのは、どうなんだろう。話だけでも聞くべきじゃないのかな。
――よし。
私は、勇気を振り絞ってカーテンを開けた。
「おお佐久間様っ」
サッシの上で、小さな人はぴょんと跳ねた。
「なんの、ご用ですか?」
窓越しにも聞こえるように、やや大きめに声を出す。
「まずはここを開けてくだされ。それからお話しいたします」
早く早くと小さな人は両手を振り上げ催促する。
幽霊などは壁をすり抜けられるイメージがあるけど、この妖怪は入って来れないのだろうか。
うーん・・・このくらい小さな妖怪なら普段でも時々見かけるし、そう悪いものには見えないし、アグリさんや木霊さんとも面と向かって普通に話ができたし・・・。
たぶん、大丈夫だ。
そう決めつけて、窓を開けた。
思えばこの時、私は少々浮かれていたんだろう。妖怪や、神に出会っても無事だったことで思い上がっていた。妖怪がどういうものかもすっかり忘れて。
指三本くらい窓が開いた瞬間、お面の表情が変わった。
「開けたなあ」
にやり、と。
危険を感じた時には、もうだめだった。
わずかに開いた隙間を押し広げて、無数の影が部屋に飛び込んで来た。
チチチチチチ、とけたたましく鳥の鳴く声がする。
雀、のような。でもわからない。視界が全部、黒に覆われて何も見えないのだ。
目も耳も利かない。すると足の裏の感覚も不意になくなった。
「やっ・・・!」
体が浮く。手足を闇に掴まれ、引っ張られる。あるいは押されてる。
たぶん、どこかへ連れて行かれてるのだと思う。何も見えず、鳥の鳴き声以外に何も聞こえない時間が、しばらく続く。
怖くて指一本も動かすことができずにいると、ある時に影の中から放り出された。
すぐに感じられたのは冷たさと、かび臭いような土の匂い。視界の端で、鳥の大群の影が飛び去って行った。
身を起こすと、月より明るい赤い炎が目に刺さる。
前後左右、すべてをうごめく闇に囲まれている。赤い光の中に、それが届かない暗がりに、たくさんの異形が集まっていた。
「おう! 連れて来たか!」
闇のどこからかひときわ高く、歓声が上がった。
たぶん、ここは山の中。一体どれだけの妖怪がいるのか、わからない。だけど息苦しいほどの気配を感じる。
歓声とともに輪がぐっと狭まって、八方から伸びてくる不思議な形の手が、私の髪の毛や手足を引っ張り匂いを嗅いだりしている。
痛くてもくすぐったくても、腰の抜けた私は動けず、されるがままだった。
「ううむ? 特別うまそうな匂いはせんのう。そこらにいる人の子と変わらんではないか」
皮が剥がれて、あばら骨の見えている老人が、私の髪の毛を引っ張っている。
「おう、それでいいのじゃ。見た目はごく普通の人の子であるという話じゃ。ほれ、前もそんな者がおったじゃろう」
「おったおった。そういえば近頃は見なくなったな」
「人の子はすぐ死ぬからの」
「のう娘。汝は佐久間と申すであろう? のう、答えよ。合うておるんか?」
目が三つもある妖怪の顔が、目前に迫る。何か生臭い匂いがする。
「おい、こやつ固まっておるぞ。お前の顔が怖いんじゃろうて」
横から頬を鋭い爪が突いてくる。そちらの方は頭に角を生やしていた。
「なにおう」
「ここにおるものみぃんな、いたいけな娘さんには怖かろうさ」
「嬉しいことじゃあないか。おそれられてこその我らじゃ。実に愉快」
「しかし怯えて何も言えんのじゃ困る。こやつが本当に佐久間かどうかわからんじゃないか」
「わしは間違うておらんぞ!」
窓辺で見た小さな妖怪が、何かの大きな妖怪の頭の上に乗って叫んでいた。
「ほうぼう探し回り、ようやっと見つけたんじゃ。娘の部屋には絵があったぞ。ほれ」
ひらりと、小さな妖怪が後方から投げたのは、普段から描き溜めていたスケッチだった。
妖怪たちはばら撒かれた紙を取り、それぞれ眺めた。「ほう」「ほう」とあちこちから声が上がる。
「なんと、うまいもんだのう」
「お、これはお狐様のお社か?」
「これらはその辺を走り回っとる木っ端妖怪どもじゃな」
「まるで生き写しじゃ」
「間違いない。この娘が噂の佐久間じゃ」
「佐久間か」
「佐久間と申すか、娘」
ずずい、とにじり寄る妖怪たち。
「いい加減、口をきかねば取りて喰うてしまうぞ」
「は・・・い・・・」
ようやく、声を絞り出せた。恐怖で詰まった喉はどうやら、より大きな恐怖で元通りになるものらしい。
「やはり」
にんまりと三つ目の妖怪が笑い、丸く膨れたお腹をなでた。
「よい絵師じゃ。匂いはさしてうまそうでないが、絵は大層うまい」
「おう、うまい」
「うまい」
「色がついておらんでも十分見られるわい」
「これなら大天狗様もお気に召されるじゃろう」
「小天狗どもより先に献ずれば、我らもお仕えさせていただけるやもしれぬ」
「おい、連れてゆく前に我も描いてもろうてよいか?」
一匹の妖怪が言い出した途端、周囲に広がった。
「それはよい」
「我も描いてほしいぞ」
「我もじゃ」
「のう」
「のう」
「のう、佐久間よ」
「っ、ひゃあ!?」
目玉の飛び出した骸骨が、いきなり視界の外から正面に現れて、私はひっくり返ってしまった。
「おい、これ以上怯えさせるなっ」
「そうだ、機嫌を損ねて描いてくれぬやもしれんぞっ」
「引っ込めっ」
「引っ込んでおれっ」
仲間によってたかって責め立てられた骸骨は、すまなそうに少し後ろに下がる。
「さあ佐久間殿。これで我らもあのような美しき絵にしてくださるか」
「・・・え・・・あ・・・その」
こうなった事情はわからないけど、とりあえず絵を求められているっていう状況はわかった。
でも。
私は胸の前を握り締め、おそるおそる申告した。
「あの、道具が、なくて」
「うむ?」
「え、鉛筆も、絵具も、か、紙もありませんので、今すぐには、描けません」
もちろん描いてほしいと言うなら喜んで描く、けど、さすがに画材がなければ無理だ。
妖怪たちもそれに気づいてくれて、「そうか」「そうだ」とざわめきだした。
「お前、紙や筆も取ってくればよかったものを」
「そんなもの、どこにあったかわからぬ」
「血で描いたらどうじゃ?」
誰かが物騒な提案をしたら、なぜか妖怪たちはそれを名案だとして手を打った。
「血文字ならぬ血の絵とは、またオツなものができそうじゃのう」
「しかし、誰の血を使うつもりじゃ? 佐久間殿を殺すわけにはゆかぬぞ」
「描いてもらう者が己の血を差し出せばよかろう」
「我は血がないぞ」
「そんなのは知らぬ」
結果、骨だけだったり体が器物だったり、はたまた自分の血を出したくないという妖怪たちが、他の妖怪を襲い始めた。
仮に血を提供してもらったとしても、紙も筆もない問題は残っているのだけど、誰も止めてくれるヒトはいなくて、喧嘩の輪がどんどん広がっていく。
頭上を影が飛び交い、横をすばやく何かがかすめていく。まずい。このままじゃ巻き込まれて死んでしまう。
でも、どうやって逃げていいのかわからない。
「――こっちじゃ!」
急に、暗がりから腕を強く引っ張られた。
半分地面を引きずられ、争いの輪から抜け出し、そのまま大きな木の後ろに隠される。
松明のかすかな光を受け、正面に見えた顔は予想外に、見覚えのある異形だった。
「ああ怯えんでよい。我は味方じゃ、安心せよ」
大きな赤い一つ目の妖怪。
入学式の翌日、桜の木でうたた寝をしていた、あの妖怪だ。
「うぬが、ユキだったのじゃな」
「え・・・?」
「いつの間にやら大きくなって、わからなんだよ」
その時、大きな口で笑った顔は、私が想像で描いたものと同じ。
「我は一つ目入道と呼ばれておる者。冬吉郎の友であった者さ」
おじいちゃんの、友達・・・?
いきなりのことで、驚き過ぎて、私は何も言えなかった。
「うぬと話したいことは山ほどあるが、今はゆっくり語らっておれん。ユキよ、よぉくお聞き」
柔らかい笑顔は一瞬のうちに消え、一つ目が鋭くなった。
「ここにいる者らは、うぬを大天狗に献上しようとしておる。早う逃げねば人の世に戻れなくなるぞ」
とても真剣な様子だ。
それを見て、私の頭の中にはおじいちゃんとのことなど色んな疑問が波のように襲い来ていたけれど、ここで真っ先に知らなければならないのは、この一つ目入道さんという妖怪に、何を警告されているのか、ということだと思った。
「・・・ど、どういう、ことですか?」
「近頃うぬの噂が立っておるのだ。詳しい話は後じゃ、早く逃げ――」
一つ目入道さんの言葉は、途中で消えた。
篝火よりもっと赤々とした、闇を裂く炎が、隕石のように降り落ちて来たのだ。
「奴らだ! 逃げろ!」
誰かの叫びを皮切りに、一斉に妖怪たちが散った。私は何が起こっているのかまるでわからなくて、その場で縮こまっているしかない。
再び目を開けることができたのは、しばらくして妖怪たちの悲鳴が聞こえなくなってから。
真っ暗闇の中、すとん、と何かが傍に落ちる音がした。
「・・・佐久間?」
驚いているのは、あちらも同じ。
右手に真っ赤な炎を灯し、袖がたっぷりと長い、教科書で見たことのある平安貴族の着ていたような、和装の男の子。
見間違えようのない緋色の髪を持つ少年。
天宮くんだった。