厄介な力
「実を申しますと、私どももはっきりと何が起きたのかは把握しかねております」
綾乃さんは、先にそのように断りを入れた。
「ただ、どうやら煉に宿っていた火の神を貴女が引き離したということは、事実のようです。お描きになった絵を見せていただけますか?」
言われて、スケッチブックの例のページを開き、皆さんに見えるよう膝の上に立てる。椿さんや翔さんも、左右から身を乗り出して絵を覗いていた。
「煉の姿絵を描いている時に、これが現れたとのことでしたね?」
「はい・・・よく、わからないのですが、あの時はどうしてもこのヒトを描かなくてはいけない気がして、夢中になって描いてしまいました」
「そして描き終えると貴女は気を失い、絵に神が移っていたと」
「これが、神様なんですか?」
「はい」
改めて自分の絵を見てみる。
昨日はこの絵が動いたから、何かが宿っているんだと確信できた。でも、それがまさか神様だったとは、予想外過ぎる。
今、絵の中の神様は微動だにしていないものの、変わらず強い眼差しで、こちらを見つめ返している。
「どうして、こんなことが?」
「わかりません。本来、神はいかなる術を用いようとも器から離れ得ぬものにございます。どうやら、貴女には特別な力があるようです」
「特別な力・・・?」
「あくまで推測に過ぎませんが。おそらく、貴女は非常に鋭い感性と常人の域を越えた技芸をお持ちなのだと思われます。――地上に在る時、神は器を必要とします。その最適な器が天宮なのですが、これだけ精巧な絵であれば、天宮の体よりもふさわしい器となったのやもしれません。ゆえに神が引き離された」
「・・・ええと?」
「簡単に言うと、煉の体よりもユキちゃんの描いた絵のほうが神様にとって居心地がいいから引っ越したってこと」
椿さんがよりわかりやすく、まとめてくれた。
「そこでユキさん、貴女に大切なお願いがございます」
綾乃さんのほうへ目を戻すと、眼差しがほんの少し、さっきよりも険しくなっていた。
「先に申しました通り、天宮は千年に渡りこの地の封印を守り、人里を荒らす妖物を退治して参った一族にございます。もし、天宮から神がいなくなってしまえば封印は解かれ、おそろしい妖怪が蘇り多くの人が命を落とすでしょう。ですから、我らは神を手放すわけには参りません。よって今後一切、貴女には神の絵を描かないでいただきたいのです」
凛とした声で、綾乃さんは告げる。
「重ねて、貴女が神を引き離せることを何人にもおっしゃらないでいただきたいのです。もし、このことが例えば妖怪など、悪しき者に伝われば、貴女自身も天宮も、危機に陥ることとなりましょう」
「え・・・?」
「長年妖怪退治を行っている家ですから、天宮に恨みつらみの積もった妖たちに、神の力を失わせる術があると知られたならば、奴らは貴女に無理やりにでも絵を描かせて神を奪い、我ら一族郎党を皆殺しにしようとするでしょう」
「っ!」
そんな物騒な言葉を、こんな静かな場所で聞くことになるとは思わなかった。
改めて天宮家の事情と今回私がしでかしたことを頭の中で照らし合わせてみると、事の重大さがわかってくる。
天宮家の皆さんから神様がいなくなってしまったら、おそろしい妖怪の封印が解けてしまう。それだけでもどうなってしまうかわからないのに、神様の力を失った天宮家は妖怪たちの格好の標的になるというのだ。
つまり私の絵が天宮家の皆さんや、この町に住む人々の命まで危険にさらしてしまうということ。
さーっと、血の気が引いていくのを感じた。
「わ、わた、私、とんでもないことをっ」
屋上で天宮くんが怒っていたのも無理はない。なかば強制的にお家に連れて来られたことも納得できる。
はっきりと、私はとんでもないことをしでかしたんだ。
「私のせいで神様がっ、封印がっ、わ、あ、ど、どどうすればっ!?」
「どうぞ落ちついてください」
「で、でも天宮くんの神様がっ」
「絵を、お渡しください」
言われるがまま、スケッチブックごと神様の絵を差し出した。
綾乃さんは絵をスケッチブックから切り離して、天宮くんに渡す。すると彼は迷いなく、絵を真っ二つに裂いた。
「あっ・・・」
半分、また半分と裂かれていき、細かくなった紙が宙にまかれた。
舞い落ちる紙片の一つ一つから、淡く赤い靄のような光がにじみ出て、天宮くんの口元に吸い寄せられていく。
みるみる天宮くんの髪に赤みが差し、紙片がすべて畳の上に落ちきる頃には、根元まですっかり緋色に染まってしまった。
「これにて、元通りです」
呆気に取られているところに、綾乃さんの静かな声が届いた。
「どうぞご心配なく。何もご存知なかった貴女に非はございません。持って生まれたすばらしい才を誇りこそすれ、なんら罪悪を感じる必要はないのです」
ただ、と言葉は続く。
「今後一切、神の絵をお描きにならぬこと、この秘密を誰にも漏らさぬことの二点を、どうかお約束ください」
もちろん私に異存などあるはずもない。
「はい、約束します。もう二度と神様の絵は描きません。このことは絶対に誰にも言いません」
「ありがとうございます」
すると安堵したように綾乃さんが微笑んだ。あんまりきれいで、つい見惚れてしまう。
「では最後に一つだけ。ご家族の中で、他に貴女のような力を持つ方はいらっしゃいますか?」
「い、いいえっ。うちで妖怪が見えるのは私だけなので、たぶん、大丈夫かと」
「妖怪が見える方は他にまったくいらっしゃらないのですか? ご親戚のうちにも?」
「あ、えっと、祖父が見える人でした」
「おじいさま、ですか。お名前は?」
「佐久間冬吉郎といいます。でも五年前に他界しています」
「そうでしたか。申し訳ございません、お身内にも貴女のような力を持つ方がいらっしゃるのならば、同じようにお話ししておかねばなりませぬゆえ、失礼ながら確認させていただきました」
綾乃さんの心配は、でも必要ないことだ。
おじいちゃんの妖怪を見る力は、その子供であるお父さんには遺伝しなかったみたいで、お父さんは絵を描くこともなく、普通のサラリーマンをやっている。
おじいちゃんにも、お父さんにも他に兄弟はいないから、本当に見えるのは私だけなのだ。
「――お話は以上にございます。本日はご足労いただき、まことにありがとうございました」
「こ、こちらこそ、ありがとうございました」
綾乃さんが畳に手をついたのに合わせ、私も慌てて頭を下げた。
「じき暗くなって参りますゆえ、帰りは煉に送らせましょう」
「あ・・・す、すみません」
申し訳ないと思ったが、道がわからないのでお願いするしかなかった。
綾乃さんの目配せに従って天宮くんが立ち上がる。私もスケッチブックをしまって、綾乃さんや椿さんや翔さんにもう一度頭を下げてから、天宮家を後にした。
「家、どの辺?」
狐神社のある西山の方面だと答えると、天宮くんはここへ来た時のように先導してくれた。
緋色に戻った後頭部を眺めて、私はまだ夢見心地でいる。
昨日今日と、立て続けに不思議な光景を見て、あげくはこの町のとんでもない秘密まで聞かされて、本当に盛りだくさんで頭が飽和してしまっている。
「今日は、どうも」
ぼーっとしていたところ、気づいたら前を歩いていた天宮くんとの距離が近くなっていて、きれいな顔がこちらを向いていた。
「突然、呼び出して悪かった。学校で脅したことも謝る。ごめん」
さらには急に謝られたものだから、焦ってしまった。
「あ、謝らなくていいですっ。私がご迷惑をおかけしたわけですからっ」
「いやでも、なんも知らなかったのに問い詰めて悪かった。泣くほど怖がらせちまったし」
天宮くんはとても気まずそうにしている。
どうやら泣きながらの土下座は彼に罪悪感を植え付ける結果になってしまったらしい。全然気にしなくていいのに。
「佐久間からしたら、俺が人間かどうかも怪しかったんだろうに」
「え?」
「よく不思議そうに見てたろ」
「あ・・・」
どうやら、というかやっぱり、気づかれていたみたい。
「すみません。つい、目がいってしまって、ほんとにすみません」
「これだけ派手な色してたら無理ないよ。別に騒ぎもしてないからいいかと思って、ほっといた俺が悪かった。ごめん。怖かったよな」
「いえ怖かったとかではなくっ、ただ、きれいだなーと思って・・・」
「は?」
正直に言うと、天宮くんは怪訝そうな顔になった。私のほうはしどろもどろで先を続ける。
「人じゃないかもと思って見ていたわけではないんです。緋色の髪が、火が燃えているみたいに鮮やかで、とても・・・とてもきれいだったから、ついずっと見てしまったんです。すみませんあの、不快でしたよね。本当にすみません」
どんな理由でも嫌なものは嫌なはず。私だってずっと誰かに見られていたらいたたまれない。
すると天宮くんは視線を宙にさまよわせ、しばらくしてから、
「・・・あのさ、俺にまで敬語じゃなくていいよ」
全然別のことを言われた。
「同級生だしさ」
それはそうだけど。なんとなく敬語になってしまっていた。気になるのかな。
「同じクラスのやつに敬語使われるとか変だろ」
「そ、そう・・・?」
「うん」
じゃあ・・・普通に話そう、かな?
と言っても特に話題があるわけでもなく、それからまたお互いに沈黙。
なんだろう、気まずい。よく考えたら男の子と二人きりで話すのって初めてなんだよね。もしかして私、変なことを言ってしまったかな。こ、こういう時はどうしたらいいんだろう。
「絵も、ごめんな」
悩んでいたら、天宮くんが前を向いたまま、ぽつりと言った。
「せっかくきれいに描いたやつ、破いちまって」
「う、ううんっ。そんな、大丈夫、だよ?」
また思わぬことを謝られ、慌ててしまう。
「神様が戻らないことのほうが大変だもの。よかったです、戻って。よけいなことしてごめんなさい」
「いや、大事にはならなかったから別にいいよ。当主は深刻そうに言ってたけど、実際そんなに心配することないから」
「・・・当主?」
「母親のこと」
当主なんて、仰々しいというか、よそよそしい呼び名だ。
お母さん、って普通に呼ばないのかな。千年の歴史ある由緒正しいお家柄ならではということなんだろうか。
でも、当主というと女性より男性のほうがどうしても先に思い浮かぶ。お父さんが当主ではないとすると、入り婿とか?
少し気になったけど、よそ様のお家のことを根掘り葉掘り尋ねることはできない。
「普通にしてたら佐久間の力は誰もわかんないよ」
天宮くんは、たぶん私を安心させようとして、言ってくれてるんだろう。屋上では怖かったけど、こうして事情もわかった後では、彼の態度が柔らかいものに変わっていた。
「まあ、もしなんかあったら相談して」
「あ、ありがとう」
優しい言葉に、どちらかといえば戸惑ってしまう。神様を奪うなんてとんでもないことをしでかしてしまったのに、気を使ってもらって逆に悪い。
どうしてもいたたまれず、途中、道がわかったところで、ここまでで大丈夫ですと言ってみたものの、天宮くんは「当主命令だから」と頑なに譲らず、結局、家の前まで送ってもらってしまった。
別れ際は恐縮し、何度も何度も頭を下げる。
天宮くんはやや弱り顔で「いや、別に・・・」と言いかけて、ふと空を見上げた。
つられて見上げると、夕焼けに染まる赤い空がある。天宮くんは何かを探すようにきょろきょろして、
「・・・カラス、か」
夕日の中を飛ぶ、数羽の黒い鳥を見てつぶやいた。
「どうしたの?」
「・・・なんでもない。じゃあ、俺は帰るから」
「あ、うん。どうもありがとうございました」
彼の背を見送って、それから私も家の中に入った。
部屋のベッドに腰掛けて一息つくと、体の力が一気に抜けた。なんだか肩や背中の変なところの筋が痛い。今までずっと緊張してたから。
今日は妖怪に会うよりも、とても大変な一日だった。
まさか実は千年も昔から妖怪退治をしている人々が同じ町にいたなんて。こんなこと、おじいちゃんは知っていただろうか。
高校生になってから私の周りはすごいことばかり起きている。知らない間に妖怪と話してしまうし、話しかけられるし、ついに神様とまでご対面して。しかも自分に不思議な力があることまで発覚した。
怖い、ような気もするけれど、それより何より驚きが大きくて、そして少し、ほんの少しだけ、わくわくするような心地がある。
ずっと交ざりたかった輪に入れた嬉しさみたいものを感じてる。
さすがに、もう大層なことは何も起きないと思うけれど。
明日の私は一体どうなるのだろうと、変な期待に胸が膨らんでいた。




