第2話 3
早く帰りたい。帰って……ピアノを弾こう。たくさんたくさん弾こう。そして夜は天体観測をしよう──。
そうやってハルカはいつも、傷付いて情緒が不安定になった自分の心を、たった一人で慰めてきた。決して誰にも頼らない。……頼る人などいつもいなかったが。
しかし今日は“あの小鳥”がいる。
ハルカは“あの小鳥”が目覚めていたらいいな──と思っていた。もしかしたら頭がおかしくなって聞こえている幻聴なのかもしれないが、気が紛れるかもしれない──。“人間以外の生き物”と会話をするなんて。
教室の後ろには個人用のロッカーがあった。よくある鉄製のものではなく、ヨーロッパのアンティーク家具のようなものだったが。
美術室にスケッチブックを置いた後、ハルカは教室に戻り、ロッカーにしまって置いた学園指定の黒いナイロンバッグを取りに来た。教室にいる男子達がハルカをちらちら見ながらしている、「おいっ、“白”だよ“白”。おまえ話し掛けろよっ」「なんでだよっ。おまえ行けよ」「やだよ。かわいい子って緊張すんじゃん」「じゃあじゃんけんで──」というこそこそした会話が煩わしかったが、ハルカは無理矢理気にしないようにしてバッグを持ち、早々に教室を出ようした。
開けっ放しの後ろの扉を通って廊下に出た瞬間だった。
「……っ。ハルカ……」
まるで危篤状態の母親に会いに来た息子のような顔だった。……なんて痛ましげなのだろう。さっき他人の手を勝手に取って馬鹿みたいな顔で頬擦りしてきた男は、本当にこの男なのだろうか──とハルカが疑問に思うくらいだった。
ハルカは、自分が勝手に逃げ出したから今この男がこんな顔をしているのか──と思ったら、急に申し訳ない気持ちになった。ただ母親の目に似ていただけで、この男には何の罪もないのだから。
「俺っ──じゃなくて私は、君に何か失礼なことをしてしまったのだろうか……?」
なぜ一人称を変えたのかは謎だったが、男が真剣なのは分かった。
しかしハルカは“人形フェイス”のまま黙って男の横を通り過ぎる。
「手のことではないのだろう?──」
男がハルカの後ろからついて来た。
「君が気分を害したのは」
ハルカはどんどん廊下を進んで行く。
「でも私が原因なのは確かだ」
尚も続ける男。
「教えて欲しい」
エレベーターを待つハルカ。
「ハルカは今何を考えているんだい?」
到着したエレベーターは無人だった。ハルカはすっと乗り込む。急いで扉を閉めようとすぐにボタンを押したら──
「君のっ、ことを知りたいんだっ」
歯を食いしばって、両手で両開き扉を押し開けながら男が入って来た。ハルカは若干ぎょっとしたものの、“人形フェイス”を崩さない。大人は大人でも、“男の人”と二人きりになるのはまだ耐えられた。
申し訳ない気持ちはあった。自分なんかに構って時間を無駄にしているこの男に。改善が見込めないハルカなんかを構うより、他の──もっと素直で少し構ってあげれば心を簡単に開くような、“解り易い”生徒に時間を割く方が、ずっと有意義だと思った。
「君は今、心に壁を作っているね」
しんとしたエレベーター内で男の甘い声はよく響いた。男の表情は穏やかだった。
「しかもかなり頑丈な」
屈んだ男がハルカと同じ目線になる。
「壊すのに時間が掛かりそうだ」
ハルカは目を逸らす。そしてやっと一言。
「大丈夫だよ」
「んっ?」
きょとんとしていたが、男はハルカが口をきいたことに心底喜んでいるようだった。
「親に言い付けて、先生をどうにかしようなんて考えてないから。だから安心して? わたしは“無視して大丈夫な生徒”なんだよ?」
淡々と言うハルカに、男は心外したように碧い目を見開き、身体を起こして、よろよろと後ろの壁に背中と両手の平をくっつけた。
「……どうやら君は私を、生徒に媚を売るチキン教師か何かと勘違いしているようだ……。嗚呼……悲しいなぁ。でもっ──」
突然にっと微笑って壁から背中を離し、立ち直った様子の男は、
「そんなことを言う君がますます気になるっ。君みたいな子は初めてだ。あの“人間嫌いなエリザベス”が認めた唯一の人間──。私は君にすごく興味があるのだよ。だから──お家まで送って差し上げましょう」
「えっ……!?」
突然男が前から抱き着いて来た。ハルカの頬は男の胸に押し付けられる。
「……やめて触らないで」
ちょっと怒ったように言い、引きはがそうと抵抗していると、目を閉じた男は囁き声で、
「“エリザベスがいないから”時間が掛かるんだ。でも後4秒……3……2……1……」
目を開けた男はふざけた口調で、
「1名様、ご案なぁ~い」
……ありえないことが起こった。
ハルカは今、私立セント・エーデルワイス学園を“上”から見ていた。
確かにハルカはさっきまで高等部校舎のエレベーター内にいたはずなのに。今ハルカを抱き抱えている男──ハイコと一緒に。
「なに、これ……」
呆然と呟く。
「う~ん。名付けて、“ドキッ! 教師と生徒、禁断の空中ランデブー?”──みたいなっ?」
「……」
無表情で手を伸ばし、ハルカは風にたゆたうハイコのプラチナブロンドをひと掴みビンッと──といっても非常に軽く、引っ張った。何ふざけたこと言ってんだ──というように。
ハイコはハルカの膝の裏と脇の下を支えているので逃げられない。
「あいたたたーっ!」
わざとらしく痛がったハイコの髪をぱっと放したハルカは、そろそろ“我慢の限界”だったので、非常に不本意ながらもハイコの白い首筋に抱き着くように強く縋り付いた。ぎこちなく。
「んっ? んんっ!?」
狼狽するハイコの声を聞きながら、ハルカはきつく腕を巻き付けた。肩は小刻みに震えていた。
(いっ、いや……)
心の中も震えていた。しかし“高い所は苦手だから降ろして”──なんて、恥ずかしいし情けないし知られたくないから言えなかった。
「……もしかして──ハルカはこう──」
ハルカの秘密に気付いてしまったようなハイコに、「黙って」と素早く遮ったハルカはむすっとして、
「……分かったんなら言わないでいい」
一つ息を吐いたハイコが、子供を無償の愛情で見守る親のような慈しみの微笑を湛え、「了解」と言ってきた。そして小さく甘く囁いた。
「そんなことも知らないで連れて来てしまった愚かな私を、どうかお許し下さい……」
ハイコが自分をわざと高い所へ連れて来た訳ではないことをちゃんと分かって、すぐに許すつもりでいたのだが、あまのじゃくなハルカは、「絶対許さない」と真逆のことを言ってしまう。
「えーっ!? わ、私はどうすれば許してもらえるんだい? ハ、ハルカ様ぁ~」
あわてふためき始めた様子のハイコにハルカはクールに言う。
「無理。うるさい。話し掛けないで触らないで早く降ろして」
こだわっていないことをこだわっているように、こだわっていることをこだわっていないように──。
本心を知られたくないと常日頃から思っているハルカは、重要なところで捻くれてしまう。
こんな自分にハイコはきっとすぐに愛想をつかす──とハルカは思った。興味があるとか言うのも今だけ。
そう、今だけ。ハイコも、長い人生の中で出会うただの通行人にすぎない。何の感銘も残さずに通り過ぎて行くだけ。
「……と、ところでハルカ──」
言いにくそうにそっぽを向いているハイコの頬と耳はシェルピンクだった。
「……みっ、みみみ」
「耳?」
きょとんと瞬きをするハルカ。
「まっ、まる見えでございますよ? ハルカお嬢様」
「……!」
視線を落としたハルカは自分のあられもない姿にぎょっとして、
「……」
恐ろしい程ゆっくりと、風でめくれ上がったプリーツスカートを直したハルカは、その手の指でハイコの額を弾いた。
パチッと、目が覚めるような良い音がした。
「あいたっ!」
またもやわざとらしい言い方。
……最悪だ。偶然とはいえ2回も見られた。それでも高所が怖いから、ハイコに縋り付くしか出来ないこの不本意な状態が、どうにももどかしかった(地上だったらとっくに逃げている)。
じんと疼く中指の爪を弄りながら、ハルカはちらりとハイコの額を見上げた。ほんのり赤くなっていた。早くもやり過ぎたことを後悔したハルカは、ハイコの痛そうな額をそっと手の平で押さえ、顔を見られないように首筋に縋り付いて、
(ごめんなさい……)
口には出さない。しかしハルカは、“自分が一番嫌いな理不尽な暴力”を、今自分自身がハイコにしてしまった気がしたので、心底反省して本気で謝った。
ハイコは何も言わなかったが、それはハルカにとっては有り難い、立派なリアクションの一つだった。
「ハイコ先生ってマジシャンだったんだ。今の“脱出イリュージョン”っていうんでしょ? テレビで見たことある」
さして興味のないハルカだったが、さすがに一瞬でエレベーター内から学園上空に移動させられては、何か一言くらいは言っておこうと思った。
「へっ?」
ハルカの指示でマンションの屋上までハルカを運んでくれたハイコは、頓狂な声を上げた。
「違っ──! って……えぇっ!?」
急に慌てたようになったハイコだったが、すぐに何かに驚いたような顔になった。
「じゃ」
端的に別れを告げたハルカがマンション内部へ繋がる扉に向かおうとした時だった。
「ちょぉーっと待ったぁーっ!!」
ハルカの華奢な肩をがしーっと掴み、ぐいーっと自分の方に向かせるハイコ。
意味不明なその少し乱暴な行為がハルカの癇に障った。ハルカは不機嫌な声で、
「……何?」
「もしかしなくともハルカは私がヴァンパイアだということに気付いていない!?」