第2話 2
(相澤ハルカ……。君はいったい何者なんだい……?)
目を細めたハイコは、描いた何かを慌てて消している様子の少女を見つめて思案した。手から赤いリボンがするりと抜けていったのにも気付かずに。
その赤は、“見つからないあの子”によく似た晴天の空に映えていた。
(もっと君のことが知りたいな)
顎に手を当て貴公子然として微笑んだハイコだったが、「あぁっ!」と、優雅さのかけらもない声を上げる。「待ってくれっ!」晴天にたゆたう赤いリボンに気付いたハイコは、柵から身を乗り出して手を延ばした──が、届くはずもなく。
この間ドイツで買った、1メートル3万円の高級リボンを取り戻す為、ハイコは屋上の扉へ走りかけたが──
「はぅわっ!」
突っ伏すように激しく転んだ。
◆
「やっぱりぃー。それハイコ先生のリボンだよぉ」
教室がある校舎へ向かう途中、ハルカが芝生で拾った、幅の狭く細長いベルベットの赤い紐を見て、西洋人形のように愛らしいモモが言った。
「……」
紐を人差し指と親指で──いわゆる“汚いもの持ち”をしたハルカは、一瞬、このまま土にでも埋めようか──と思ったがさすがに酷いと思い直し、仕方ないといった具合に、「じゃあ届けて来る」と言って歩き出す。
「モモも行く行く~」
「私も行くよ」
当たり前のようについて来るモモとユカリ。
この学園の高等部には帰りのホームルームはなく、その日最後の授業が終わったら各自部活に行くなり図書室で勉強するなり帰るなり──行動は自由だった。
「それ届け終わったらモモとユカりんの部屋でいろいろお話ししよう? あのね、フランスのお祖母様が美味しいチーズケーキを送ってくれたの。一緒に食べよう? 今日食べないと味が落ちちゃうよ?」
モモとユカリがこの学園の敷地内にある寮に住んでいて、さらに同室であることは先程美術の授業中に知った。ハルカは一度父親に寮に入ることを勧められたが、はっきり断った。一日中他人と一緒にいるなんて、想像するだけでげっそりと疲れたから。
「ごめん。今日は用事あるから」
素っ気なく断るハルカ。媚びを売るみたいに、大袈裟に断るのは苦手だった。そんな女の子らしいこと、捻くれ者のハルカにはできない。
用事があるのは本当だった。あの“しゃべる謎の小鳥”が心配だったから。早く帰りたかった。
「そっかぁ……。ざんね~ん」
ハルカはしょんぼりしたモモを見て、チクリと胸が痛んだ。悪いことをしてしまった。
「しょうがないって倉田。これから卒業するまで一緒なんだから、またチャンスはあるよ」
慰めるユカリ。
「うん。わかった。また誘うから、楽しみにしててね? すっごく美味しいの~。もう超濃厚でぇ。あー、ハルカたんにも早く食べさせたいよぅ。絶対一緒に食べようねっ?」
モモの声は明るく、期待を持たせるようだった。毎日が平和で楽しそうで。きっとそういう人の言うことに裏はない。
しかし、人の気持ちは変わり易いもの。明日は今思ったことと反対の気持ちになっているかもしれない。
今日限りで、モモはハルカと一緒にチーズケーキを食べたいという気持ちにならないかもしれない。もしかしたら、明日ハルカを無視するかもしれない。
だから、絶対なんて言葉を使ってこっちの気持ちを高ぶらせようとしないで欲しい。
あらゆることにいえることだが、舞い上がれば舞い上がる程、落ちたときの絶望感は計り知れないものだから……。
「ハルカッ!」
どこのどいつだ、許可なく自分を呼び捨てにしているのは──。
ハルカは声のする方向を見てうんざりした。……来た。
拾った紐を届けに今から会いに行こうとしていた人物なので、むしろ向こうから来たのは手間が省けたのだが──やっぱり会いたくなかった。ハルカはその人物を“強敵”と認識し、ブラックリストに載せたから。
「君が見つけて、くれたのかっ」
駆け寄って来た“強敵”──ハイコは途切れ途切れに言った。
髪を解いたハイコは、繊細で優雅な女の人みたいに綺麗だった。しかしもちろんハルカはそんなことを褒めるはずもなく、
「ん」
ハイコを見上げて、“汚いもの持ち”の手のまま紐を差し出した──というよりは突き付けた。こんなもの要らない──といった具合に。
「あっは! その持ち方ナイス! ハルカ!」
ユカリが、“よくやった”というような声を上げた。
「がーんっ! 私はバイキンなのかい? うわ~ん。ハルカ姫が冷たいー」ショックを受けた様子のハイコだったが、「でも手はこんなに温かい……。優麗なる愛の温もりに満ちているね……」と言ってハルカの手を紐ごと両手で掴み、頬擦りしてきた時には完全に和んだ表情になっていた。
「──やっ」
ぞくぞくっと寒気がしたので、小さく拒絶的な声を上げたハルカはハイコの両手から急いで自分の手を引っこ抜き、ずざざ──と素早く、それはもう小動物の如く芝生を後ずさった。……読めない。ハイコの行動はハルカの想定範囲を越えていた。
「ハイコ!」
ユカリが片足を踏み鳴らした。そして低い声でゆっくり言う。
「セクハラはやめなさい」
「うっ。ごめんなさい……」
認めた!? では今のは正真正銘のセクハラというやつだったのか──。またしてもハイコに“初めて”をあっさり持っていかれてしまった事実に、ハルカはショックを受けた。
「ヴァンパイアよ!」
美術の授業中の時のように、モモが脈絡のないことをいきなり言った。その時ハイコの肩が震え、表情が強張るのをハルカは見逃さなかった。
「なっ、なんだい? 倉田姫?」
「ヴァンパイアなのよハイコ先生は!」
ハイコの表情はまるで、テレビで放送禁止用語になっているような言葉の意味を子供にきかれた時の、狼狽する親そのものだった。
「えっ、えっと──」
ちらっとハイコがハルカを見た。その目に“よくも言ったな”的な怨念はまったく感じられなかった。ただ、“なぜ?”という落胆と軽蔑の色があった。
わたしは言ってない──。ハルカは早く弁明したくて堪らなかった。そんな失望の目で見られるのには耐えられなかった。胸が苦しい。心が痛い。
ハルカ。何よこれは?
母親が、ハルカが学年トップじゃなくなったことが記された順位表を見たあと、ハルカに向けたあの凍てつく氷の目と似ていたから……。
しかしハルカが何か言う前に、ハイコの誤解はモモの台詞によって解かれたようだった。
「それ以外に似合うコスプレなんてないのよ! モモの“脳内着せ替え”で王子様と執事系はいまいちだったし。やっぱヴァンパイアよ! ハイコ先生は!」
「あっ、あはは! コッ、コスプレかぁ~! いきなり言うものだからびっくりしてしまったよ~。もぅ~。倉田姫は慌てんぼうさんだなぁっ」
緩んだ表情になったハイコは、モモの額を人差し指で小突いた。お笑い芸人がバカップルのベタな物まねをする時みたいに。
「だってぇ。あっ! そだ、あのキャラいつもジャックランタン持ってるんだけど、やっぱモモとしては本物にこだわりたいのよぅ。だから重いかもしれないけど──」
一人ご機嫌そうに話すモモ、それからユカリとハイコに背を向けたハルカは、そっと消えるように芝生を歩き出した。
蒸し暑かった。しかし心の中は氷のように渇いていて、凍えるように寒かった。
ハイコの目があの時の母親の目に似ていて、それが今確かに自分に向けられていたことが、ハルカにとっては心の傷をえぐられるような出来事だった。
ざわざわと不安定に波立つ、ハルカ自身でも手に負えない心。こんな心は、いくら誰かが献身的な愛情を持って接してくれても、決して癒されない。誰にも癒やせない。
“どうしたの? 大丈夫?”って言われる前に、早く逃げなければ。
いつの間にかハルカは駆け出していた。スケッチブックが邪魔だった。臆病なのは分かっていた。フラッシュバックなんかに怯えているこんな自分を、どうにかしなければならないことも分かっていた。逃げてばかりいてはいけない、このままではいけない、カウンセリングも再開しなければならない──そんなことは嫌という程分かっていた。しかしそれ以上に、今は“人間という生き物”から離れたかった。
一人になりたい。
透明人間になりたい。
構われたくない。
怖い……。
結局、この世界にハルカがいてもいい場所なんてどこにもないのだ。
なんでハルカなんか産んだのかしら。
母親はよくそんなことを抑揚のない声で呟いていた。ハルカのいる目の前で。
生まれて来てはいけなかった自分に、居場所がないのは当然だとハルカは思った。
やっぱりそうなのだ。初めからそんなものはどこにも存在しなかったのだ。
どうりで、探しても見つからないはずだ……。
真っ暗だ。この世界は。
(何も見えないよ……。お母さん……)
その震える声は、闇色の壁に吸い込まれ、やがて消えていく。誰に届くでもなく。
黒髪ストレートの少女が遠ざかり、ハイコ達からは見えなくなった。
「ハルカどうしたのかな……?」
ユカリが心配そうに言う。
「きっとハイコ先生がセクハラしたからだよぉ。ほっぺたすりすりはキモかったんだよぉ。だから手を洗いに行ったんだと思うなぁモモは」
持論に納得した様子のモモは自信ありげに、「うん」と頷いた。
「……いや。違う」
低く、鋭い声。碧い目を細めたハイコは真顔で、少女が去って行った方をじっと見つめた。
「ハイコ先生?」
「……ハイコ?」
見慣れないハイコの表情に驚いたのか、モモとユカリがきょとんとした顔できいてきた。
「ちょっと行って来る」
呟いたハイコは、立ち去った少女が拾ってくれた3万円の高級リボンを握り締め、芝生を駆け出した。
◆
放課後、職員室で待ってる。今日は一緒に帰ろう。
朝のホームルームで耳打ちされたことを思い出したが、ハルカは自分は行くとは一言も言っていないことも同時に思い出した。
(……いいや。無視しよう)