第2話1
倉田モモはオタクだった。“そっち系”の知識に疎いハルカにもそれは明白だった。
「でねでね、10月から始まるアニメは腐女子のことをよく理解してるのが多くてね、さっき言ったアニメ制作会社のはとくにいい感じでね、主人公がなんと──」
美術の写生授業中というのにもかかわらず一人絶好調そうに話すモモは、顔は日本人で瞳も黒いが、白いレースのリボンでツインテールにした髪の色はミルクティーだった。そして毛先はくるくるで、まるで“お姫様”だった。
黒髪ストレートで“和人形”なハルカと並ぶと、モモは西洋人形そのものだった。二人は対象的だった。
ハルカの妖しくてミステリアスな上に表情の変わらない面白みの無い人形らしさとはまったく違い、モモは安心して近寄れる、返す反応がだいたい予想できる既知的な愛らしさに溢れた人形だった。もちろん表情はころころ変わるし、モモの場合“人形”というのは反応の無い空虚な意味で用いるのではなく、外見的プラス要素のみの例えだが。
それらを含めて、ハルカとモモは正反対だった。
自己に無いものを求めるのは人間の本能のようなものだが、ハルカはモモに憧憬や羨望の念を抱いてはいなかった。むしろ隣にモモがいるお蔭で自分の存在が薄くなるので、“透明人間になりたい”と思っていたハルカにとっては有り難い存在だった。ただでさえクラスには“男子30人に対して女子が3人”という、女子のハルカはただいるだけでものすごく目立っている状態だったから。……転校生というのがさらに拍車をかけていた。
ハルカは結局“全女子生徒20人”の真相を解明してはいないが、自分のクラスに自分を入れて女子が3人しかいないという事実から、なんとなくそれが真実だということを一人静かに悟っていた。
「──しかもその限定版フィギュアはね、なんと普段着バージョンの着せ替えパーツがついて来るんだってぇ! これは即買い~なのよ。だってあのうさちゃんバッグが拝めるのよぅ? 買ったらハルカたんにも見せてあげるねっ」
別に見たくないと、冷めた心で思ったハルカは愛想笑いも相槌も打つことなく、ただもくもくと数メートル先の、炎天下のアスファルトに突然放り出されてのたうちまわるミミズのような、混沌とした形の謎の黒いオブジェをスケッチブックに描いていた。
午後3時。本当に今日は35度まで気温が上がっているようで、ここは日陰とはいえそのうちハルカ自身が干からびたミミズのようになってしまいそうなので、ハルカは早く描き終えて涼しい教室に帰りたかった。
「くーらーた」
短めの赤髪にシャープな顔立ちの、ハルカが“あねご”と銘打ったこのクラスのもう一人の女子生徒──岡本ユカリが窘めるように言った。
「その辺にしときなさい。まったくもう。オタクをやめろとは言わないけど、無理矢理連れ込もうとするのはダーメ」
「……ふぁーい」
片頬を膨らませるモモ。幼い子供のように。
ハルカは自由行動の合図が鳴る前から絶え間無く一緒に描こうと話し掛けて来る、男子達の前からさりげなく姿を消し、この木陰に隠れるようにして一人で“混沌ミミズ”を描いていた。しかしすぐに見つかってしまい囲まれたが、今ハルカを挟むように座っているモモとユカリが、“授業中は話し掛けるの禁止法”なるものを制定し、事なきを得た。
モモとユカリはハルカのことを気に入ったようだった。ハルカは──まだ分からなかった。二人が世話を妬き優しくしてくれるのは最初だけかもしれない。もしかしたらこの二人は、ハルカが無口で無愛想であまのじゃくでつまらない子だと悟ったら、あっさり構わなくなるかもしれない。
しかしハルカはそれならそれでいいと思っていた。好みは人それぞれだ。
孤独は怖いが、“もう”無理矢理遊び友達を作ろうなどと虚しいことは考えない。やることがなくて家に帰るのが早過ぎても、もう“あの人”はいないのだから。何もされないのだから。ハルカは自由になったのだから……。
「ヴァンパイア?」
右側のモモが急に脈絡のないことを言った。朝のホームルームからその単語に敏感になっていたハルカは目を丸くした。
「どうしてヴァンパイアなのぅ?」
不思議そうな声のモモがハルカの腕にくっつき、スケッチブックを覗きながら言う。見ると、ハルカのスケッチブックには小さな文字で“ヴァンパイア”と書かれていた。
息を呑んだハルカは急いで、「なんでもない」と言って文字を消した。
無意識に書いてしまっていた。ハルカは自分自身にびっくりした。
「うーん。ヴァンパイアかぁ……」
モモが顎に手を当てて何やら熟考し始めた。そして。
「きた。きたわついに。それよっ! ヴァンパイアだったのよ! ハイコ先生に一番似合うコスプレ衣装は!」
「…………え?」
しばらく間を空けたハルカが引き攣りながらぼそっと言うと、
「秋はビッグなコスプレイベントがあるのよ~。それにハイコ先生も出て貰おうと思ってぇ。だって先生って性格はともかく“見た目は最高”じゃない? “見た目”はっ。ハーフなのに日本人要素全然ないし。黙らせとけば絶対会場の視線は全部モモ達が貰ったも同然よ!」
手を組み腰をくねくねさせて夢見るように話すモモに小さく呟くハルカ。
「ハーフなんだ……あの人」
「そう。父親が日本人で母親がドイツ人なんだって」
左側のユカリが答えてくれた。
「へぇ……」
聞こえないくらい小さい声。
(ドイツ……?)
ハルカは“あの変な担任”に貰ったメールの内容を思い出していた。確かハルカの風邪が心配でドナウ川に飛び込んだとかそういう──。
(本当だったりして……)
まさかぁ──と、ハルカは冗談混じりに思った。
「ありがとーハルカたん! モモ創作意欲が湧いて来たっ。ハイコ先生を、去年アニメ化されて全国の腐女子の話題を総なめにしたあの漫画のあの吸血鬼キャラに変身させるわっ」
「ずっと気になってたんだけど」
ハルカは二人を見ながら、こっそりいつきこうか迷っていたことを思い切ってきいた。
「“ハイコ”ってなに? あの先生のあだ名なの?」
「何って、先生の本当の名前だよ~? あだ名じゃないよぅ」
目を丸くしたモモ。
「あのヘタレ──」
歯ぎしりをするユカリ。
「ハルカにまだ名前名乗ってなかったのか……。何が紳士だ……──あっ」
何かに気付いた様子のユカリがハルカを見る。
「ハイコが名乗ってないってことはトモミ──副担任も名乗ってない?」
こくりとハルカ。ため息のユカリは、「あのボケボケコンビは……」とぼやく。そして、
「じゃあ私から教えとく。副担の名前は今井トモミね。馬鹿だけど悪い奴ではないから、一つよろしく。ちなみにみんな“トモミ”とか“トモちゃん”とか呼んでるよ」
「モモは“トモちゃん先生”って呼んでるよぉ。“いろいろ気が合う”んだぁ。でね、“ハイコ”っていうのはね、ドイツでは男の人の名前らしいけど、日本では女の子みたいだから、男子には“ハイコちゃん”って呼ばれてるんだよ? かわいいでしょ? ちなみにハイコ先生のフルネームは、朝倉・コウタロウ・ハイコ・ヴェインリッヒっていうんだよ? な~んかすごいよね~」
「コウタロウ……」
ぼんやり呟いたハルカは、あの99%外人顔の担任を思い出し、そのあまりの似合わなさに吹き出しそうになってしまった。そしてすぐに冷静に取り繕って思う。なんて強敵が現れたのだろうと。あの担任は傍にいないにもかかわらず、今ハルカの心を動かした。……恐るべし。
◆
何故“あの少女”から“見つからないあの子”の匂いがしたのだろう。
ハイコは屋上の柵に腕を乗せ、肩をすくめ背中を丸めながらその碧い瞳でじっと黒髪の少女を見つめ、一人考えていた。
自分以外に体を触れられるのを“あの子”が許すなんて。……ありえない。
ハイコは頭の後ろに片手を延ばして細長く赤いリボンを引き、軽く首を振って、肩に触れる程緩やかに伸びたプラチナブロンドの髪を解いた。量の少ない髪は、気怠い残暑の午後に吹く弱々しい風に軽く舞った。
今少女は木陰に座り、スケッチブックを広げてそこに何か描いている最中だった。“この学園では貴重な女子生徒”の間に少女はいた。
“あの子”が触れられるのを許したくらいだ。きっと“あの子”は少女にいろんなことをしゃべったに違いない。“ハイコの正体”のことも。故にハイコは少女に早めに注意しておいた。朝のホームルームで。少女だけに聞こえる声で。
──誰にも言わないで?
若者の噂伝達スピードは恐ろしく速い。“真実”だからこそ、ハイコは余計噂が広まるのを避けたかった。真相を確かめようとする若者の情熱は、この場合ハイコにとってあまり良いものとはいえないから。
しかし、あの少女ならもしかしたらハイコの正体を知っても、そっと胸の内にしまっておいてくれるのではないか──とも思っていた。
少女には不思議な魅力があった。ハイコは今朝少女が教室に入って来た瞬間からそれを感じ取っていた。“そこにいるのにいない”ような──“本当”を隠してるような──妖しくてミステリアスな魅力を。
少女の、ビロードのような艶やかな黒髪と、内面の意志の強さを表しているかのような黒い大きな瞳、それから落ち着いた物静かな雰囲気が、さらにそれを演出していた。