第1話 3
ハルカのクラスは1年G組。4階だった。エレベーターを使ったので来るのは簡単だった。
ハルカ以外のクラスメイトが全員教室に入るのを待つとかで、ハルカはいったん別の部屋で待機させられた。故に見事廊下には誰もいなかった。そしてしんとしていた。
「じゃあちょっとここで待っててね?」
教室の前で立ち止まった副担任が、木製の両開き扉の片方を開けて中へ入って行く。
(やだな……)
ハルカは教室側の壁に寄り掛かってため息をついた。目立つことが大嫌いなハルカにとって、これからしなければならないことは憂鬱極まりなかった。出来れば自己紹介などせず、“いつの間にかいた”的な転校生になりたかった。むしろ透明人間になりたかった。構わないで欲しい。
そりゃ孤立はしたくないが(それも結局目立つので)、大勢で騒ぐのは好きじゃない。同性の友人が一人いれば十分だと、ハルカは思っていた。
「ハルカちゃんっ。おーいでっ?」
副担任が顔だけ出してハルカを手招きした。何だかこの上なく楽しそうな顔をしている。
(……やだな)
壁からゆっくり背を離したハルカの心は、副担任のそれとかなりの温度差があった。そんなことに気付いた様子のない副担任は、「うふふー。照れてるのかなぁ? 大丈夫だからおいで?」と言ってハルカの腕を掴む。
何が“大丈夫”なのか疑問に思ったが、ハルカは引っ張られるがまま不本意ながらも教室に入った。
たくさんの瞳が自分に集中するのが分かる。ハルカは瞬時に心に分厚い壁を作って表情を消し、“人形”に徹した。それはまさに、いつの頃からか収得した、誰も知らないハルカの得意技だった。
心や身体に苦痛を感じたり、嫌なことや逃げたいことがある時に発動する──自己防衛機能のようなものだった。
「ようこそマドモアゼル。誇り高き私立セント・エーデルワイス学園へ! エーデルワイスとは、ドイツ語で“高貴な、白い”、という意味──。エーデルワイスは用意出来ませんでしたが、本日はこちらを代わりにご用意させて頂きました……」
薔薇。白い薔薇。
ハルカの視界は白薔薇の花束で埋まった。その向こうで誰かがしゃべくっている。自信に満ち溢れていそうな甘い艶のある声だった。
「そしてようこそ、我が1年G組へ! G組の“G”はグルーヴィの“G”なのさっ。だからここはどこよりもフレンドリーでホットなクラス。君はラッキーなシンデレラガールだねっ。おめでとう!」
薔薇が降りた。視界が開けた。目の前には誰もいなかったが、“下”にいた。片足を折ってひざまずいている男が一人。
毛先だけ僅かにうねるプラチナブロンドの髪を、低い位置で15センチ程ポニーテールにした若そうな男だった。髪を束ねているのはハルカの制服のリボンのように細長く赤いものだった。丁寧に蝶々結びにしていた……。そして彫りの深い顔と碧い瞳から察するに、外国人かもしれなかった。
着ているものは白いインナーに長袖シャツ、下は黒い細身のジーンズという、特に目立った飾りもなくほぼ普通の格好だったが、シャツの色が酷く目立っていた。濃い桃色だった……。
「私は生まれた瞬間からずっと君を待っていたんだ」
(うわぁ。絶対嘘だ……)
「君という子猫に逢えるのを」
(……は?)
「まるで木の上でジュリエットを待つロミオのように……」
(普通に怖いよ)
「必ず来てくれると思っていたよ」
(学校なんだから当たり前)
「私に逢いに……」
(断じて違う)
「ハルカ嬢……」
(勝手に“嬢”とかつけないで。てゆーか呼び捨て?)
一方的に話す男に心中で一通り突っ込みをしたハルカはいたって冷静だった。しかし一方で心の壁の奥底では、こんなのが担任だなんて最悪だ──と絶望に浸っていた。
「おや? どうしたんだい? 緊張しちゃってるのかな?」
ハルカを覗いてにこりと微笑んだ男はとても整った顔立ちをしていた。睫毛は長く、鼻は高い。左耳にフープ型の銀色ピアスをしている。海外の映画俳優のような雰囲気があり、人を寄せ付け易く、華やかでどこか子供っぽい気配もあれば、人を寄せ付け難そうな、一匹狼的な孤独で悲しい空気もある、不思議な男だった。
歳は20代後半──もしくは前半と、あいまいなオーラのある人物だった。そしてどこか日系の面影があった。ハーフかもしれない。
ハルカが本当に人形のように動かないでいると、男はすっとハルカの右手に手を伸ばし──
「ひっ」
ハルカは突然された初めてのことに息を飲むような小さな悲鳴を上げ、ついうっかり“人形フェイス”を崩してしまった。左手に持っていたバッグをすとんと落とす。そして思わず後ずさる。
いっ、今、この人キスをした!
ハルカは右手の甲を制服のスカートに押し付けて擦った。潔癖症という訳ではなかったが、ただ生暖かい感触が気色悪かったので。
「あーあー」
残念そうでどこかいじわるそうな声は、ハルカの左側にいる生徒達のものだった。
「全然ダメじゃん。ハイコちゃんのばーか」
「何やってんだよ。貴重な女子を怖がらせるなよなぁ」
「俺達まで嫌われたらハイコちゃんのせいだからね? これ決まりー」
生徒達は男を馬鹿にしているものの、それは愛のある──いわゆる“好きな子いじめ”のような言い方だった。
ハルカの足元で雷に打たれたように口と目を開けていた男が立ち上がった。
(……!)
その身長の高さに目を丸くしたハルカはさらに後ずさる。痩せていて、筋肉もなさそうで、とても体格が良いとは言えなかったが、すらっとしていて姿勢は良かった。
「ハイコ先生っ! あたしはきましたよ! 萌えちゃいましたっ!」
必死に何かの報告をする副担任。
「あたしっ、もうっ……!」
ハルカはぎょっとした。副担任が鼻を手で覆った瞬間、手の隙間から赤い液体が出てきたのだ。そしてよろりと壁に寄り掛かる副担任。
「今日はC班ですよー」
慌てた様子もなく誰かが淡々と言った。するとすぐに数人の男子生徒が立ち上がり、慣れたような手つきで当たり前のように副担任に肩をかし、教室を出て行った。
(な、なんなの……?)
呆気にとられていると、ハルカが落としたバッグを拾って埃を払った男が、それを両手でハルカに差し出しながら、
「もっ、申し訳ないことをしてしまった! そんなに嫌がられるとは思ってなかったのだっ! あわわわわ──どうしようっ! どうすればっ! あああああああのあのあのっ!──」
初めの自信に満ち溢れたような穏やかな口調とは一変、まるで別人のように急にあわあわとパニックになった様子の男は、「ごめんなさいっ!」と言ってハルカの前に土下座した。
ハルカはまたさらに後ずさった。
混乱していたのはハルカも同じだった。こんな男にまたもや初めてを持っていかれた。……土下座をされるなんて恐らく人生で最初で最後だろうけれど、だからこそその相手がこんな男だったのが余計情けなくて悔しい──と思ってしまっている自分が、こんな小さなことにこだわっている自分自身が、なんだかよく分からなくて頭の中がぐちゃぐちゃだった。
ライオンの檻に落としてしまった物を拾うように、ハルカは身をかがめてそーっとバッグに手を伸ばし、汚いものでも触るように人差し指と親指でバッグの端をつまみ、一気に引き寄せて急いで胸に抱いた。
左側の生徒達は静かに、ハルカの様子を興味深げに見ていた。
ハルカはこの男が次にどんな行動を取るか予測不能だったので、警戒レベルをマックスにしてゆっくり男に近付いた。そしてバッグに縋るように、胸に抱えてぎゅっと持ちながらしゃがみ込んで、
「わたしの席はどこですか」
冷静な声で尋ねる。“人形フェイス”は無事に戻って来た。
そういえば、ハルカの“人形フェイス”を崩したのも、油断していたとはいえこの男が初めてだった……。それに気付いたハルカはまたしても混乱する。
男は一気に顔を上げて──何か言いかけたが、その言葉を飲み込むように喉を鳴らした。碧い目は“ある一点”を見つめている。
(……?)
訝しがったハルカが、どうしたの──と尋ねようとしたら。
「……しろ」
男は頬を赤く染めて呟いた。
「……え?」
首を傾げるハルカ。“……しろ”。自分は何か命令をされたのか──と思っていたその時。
「相澤さんっ!」
それは紛れも無く女子の声だった。この学園に来て初めて女子生徒の声を聞いたハルカは少し嬉しくなって振り向く。やっぱりちゃんといたんだ。女子は。
その女子生徒は落ちていた白薔薇の花束を拾い、男とハルカの間に割り込ませた。そして大きな声で、「見られてるよ!」と言い放ち、その後小声でハルカに耳打ちしてきた。
「パンツ!」
「……えっ」
一気に血の気が引いたハルカは急いでスカートの裾を握り、膝を閉じて床にぺたんと座った。羞恥に頬はほんのりと色付いた。
「ちょっとハイコッ! 何が白よ!」
“白”という言葉にハルカの頬はまた少し色付いた。見られていた事実を教えてくれたのには感謝したいが、“大声でクラス中に教えてる”みたいになっている事実には感謝なんて出来なかった。
「この偽王子っ! 本物の王子は絶対ガン見したりない!」
半身を起こした男が肩をびくっと震わせた。
「何が紳士なの? 本物の紳士はきょどらないしもっと上品な謝り方をするっ!」
またもびくっとする男。
「ヘタレ!」
また。
「見てて痛い」
またもや。
「なんちゃって外国人!」
またまた。