第1話 2
あの男は“変”だった。男の戸田に薔薇を差し出すのもそうだが──雰囲気や物腰、そのすべてが常識はずれで掴み所のない人物だった。
今男は“鳥がしゃべる”と言った。よっぽどその鳥が好きで、よくある“溺愛者の勘違い幻聴”なのか──あるいは本当に……。
◆
(嘘……?)
ハルカは今詐欺に遭ったような気持ちになっていた。
今日から通う私立セント・エーデルワイスという学園は、ハルカが思っていたより規模が大きかったのだ。モノレールの窓から学園の敷地全体が見渡せたが、それはまるで“円状の一つの街”だった。
中央にそびえ立つ大聖堂を中心にして四つの広い並木道が放射状に延びており、その並木道の間にいくつも建物が建ち並んでいた。恐らく道を境に幼等部、初等部、中等部、高等部専用のエリアに分かれているのだろう。グラウンドなどがすべてのエリアにあったことから、それぞれのエリアは独立していることが伺えた。……大聖堂だけは共用だろうけれど。
モノレールの窓から眺めている時点で、ここが自分がこれから2年半も通う学園であることに薄々気付き、それなりに心構えはしていたハルカだったが、いざ高等部専用の校門らしき巨大な石造りのアーチ門の前に来ると、自分はなんて大規模で派手な学園に転校して来てしまったのだろう──と改めて思っていた。
ハルカは猛烈に後悔していた。学園の案内パンフレットを良く見もしないで捨てたことを。めんどくさいという理由から一度も下見に来なかったことを。
“離婚後の親権獲得者”である父親は、マンションから比較的近い学校をいくつか紹介してくれた。ハルカはその中でもさらに近いところを選びたかったがそうもいかなかった。
今年の2月、父親が熱烈に勧めた、日本で今最も偏差値が高いといわれている高校に落ちたからだ。だからハルカは有名な貿易会社の役員である父親の面目を保つ為、勧められた学校の中で一番偏差値の高いところを選んだ。父親もハルカがこの学園を選ぶことをきっとどこかで期待していたのかもしれない。選んだ後どこか機嫌が良さそうだったから。
そして。編入試験は楽にパスしたものの来て見てびっくりだった。
美術作品のような校門の奥に見えるのは、ヨーロッパの宮殿のような建物群。あれが校舎だなんてありえない。プールのような巨大な噴水や、パルテノン神殿からそのまま持って来たような石柱まで見える……。
マンションからモノレールで3駅、東京湾沿いにある開校間もない学校──。その程度の予備知識しかなかったハルカは今、校門まで約30メートルの木陰にある装飾たっぷりの高級そうなベンチで一人、悶々としていた。
(何この学校。どっきり? 何あの校門。ふざけてる? 帰りたい嗚呼帰りたい帰らせて)
相変わらず無表情だったが心の中はとんでもなくカオスで、無意識に俳句まで作っていた。
しかしすべてはハルカの物ぐさ振りが招いた悲劇だったのだ。
「……君? どうしたんだい?」
エーデルワイス学園の制服を着た少年が気遣わしげに腰を屈めて話し掛けて来た。男子の制服はダークグレーのスラックスに白のベスト、それから女子と同じ細長い帯状のリボンだった。色は紺色だったけれど。
「……」
ハルカが黙ったままでいると、少年は訝しげにきいてきた。
「見かけないけど──君1年生だよね? 入らないの?」
「……別に。人を待ってるだけ」
少年とは目を合わせようとせず、ただ前を見ながらぶっきらぼうに答えるハルカ。怒っている訳ではなく、人見知りだったし、捻くれていたから。あまのじゃくなのは昔からだった。
「なんだ彼氏かぁ。やっぱいるよな。こんなにかわいいんじゃ。貴重な女子は結局みんなもう誰かのものか……──」
嘆くように言った少年はぶつぶつ言いながら校門の方へ去っていく。
それにしてもあんなにかわいい子を見落としていたなんて──とか、一生の不覚──とかはどうでもよかったが、ハルカが耳を疑ったのは、“だいたい全女子生徒20人ってなんだよ──”だった。
(20人……。に、にじゅう……)
高等部は1年だけでも7クラスあるはずなのに、その女子人数は異常だ。にわかには信じられなかったハルカは放心した。
しかしさっきから眼前を横切る生徒達はみんな男子で、何となく気にはなっていたが。
「ごぉめんなさぁーいっ。呼んでおきながら待たせちゃってぇー!」
その時一人の若い女性が大袈裟に手を振りながらハルカの元へやって来た──と思ったら派手に転んだ。
「あはっ、あははっ!」
俯せに地面に張り付く女性は顔をあげて楽しそうに笑った。
ベンチのハルカと目が合った女性は、
「やだーっ! あたしったら恥ずかしー! 大丈夫よ? ぜーんぜん痛くないの。いつものことなのよぉ? うふふのふー」
大丈夫と馬鹿みたいに言う割にはスカートの膝からは血が流れているし、手には擦り傷が出来ていた。
係わり合いになりたくないタイプの人間だった。しかし昨日、教室まで案内するという内容の“まともなメール”をくれた副担任だし、係わらなければならない人だった。
ハルカが察するに、これでも“担任よりはまとも”なのだ。何故なら担任は毎日のように送って来るメールの内容が“おかしかった”から。まるでヨーロッパの悲劇舞台で役者が語る台詞そのものだったのだ。ハルカのことを“マドモアゼル”とか呼ぶし、ハルカの風邪の様子が気になって眠れない夜、急に激情に駆られてドナウ川から飛び降りたくなったから行って飛び降りて来たとか──。とにかく変──というか良い精神病院を紹介してあげたいくらいにおかしな担任だった。
その担任からの“迷惑メール”をハルカは無視し続けたが、昨日一言だけ返事を送った。“明日行きます”と。正直会いたくなかった。“心の波長”が合わないことは明白だったから。
「今日も暑くなるんだってね。見た? 天気予報。35度だって! 熱いのはこのあたしのハートだけで十分なのに。あっ! あのね、あたし今恋してるの。きゃっ! 言っちゃった! でもその人もてるから、あたしはもう傍にいれるだけで十分なの。ところで身体の方はもう大丈夫? 具合悪くなったらすぐ言ってね? 今年から保健室に女の先生が入ったから、遠慮なく行っちゃってオーケーだし! あたしなんかたまに素敵なティータイムを過ごしに行っちゃってるし──ってこれ内緒ね? それにしても女の子がうちのクラスに来てくれて先生嬉しいよぉ。ハイコ先生も喜んでたよ? 今教室でサプライズを用意してるから、迎えには来れなかったんだけど、あなたによろしくって言ってたよ」
体型容姿共に人並み。飛び切り背が高いわけでもなければ低くもない。栗色の髪は肩に軽く触れる程度で、着ている服はスカートにカットソーという、むしろこの派手な学園の教師にしては地味な雰囲気の人なのに、しゃべり出すと非常に個性的な人だった。そしてノンストップだった。
ハルカは副担任の声を隣でぼんやり聞きながら、学園の敷地内を進んでいた。立ち並ぶ宮殿のような校舎のずっと向こうにそびえ立つ、白く荘厳な剣山を見つけた。モノレールから見えた大聖堂だ。
「どうして学校に大聖堂があるの?」
「あぁ、あれっ?」
ハルカの独り言のような平板な声を副担任は聞き逃さなかったようで、敬語を使わず、相槌をまったく打たないハルカに気分を害した様子もなく、大聖堂を指差しながら明るい声で言った。
「すごいでしょっ。理事長がクリスチャンだから造っちゃったんだってっ。生徒の立ち入りはもちろん自由だよ。モノレールから見たらちょうど学園のド真ん中にあったでしょ? 幼等部から高等部までの、学園中の生徒が集まる唯一の場所にもなってるんだよ。日曜日は一般の人にも開放されてて、各部を隔てる大聖堂から延びた並木道を通って直接入れるようになってるんだよ?」
「へぇ……」
興味なさげに呟くハルカ。しかし本心では後で行ってみようと思っていた。クリスチャンではないが静かそうで落ち着いていそうな場所が好きだったから。
「この学園には普通の学校にはないおもしろい施設がたくさんあるんだよ。全部理事長の趣味なんだって。えーっ! こんなものまでーっ?──ってのもあるから、少しずつみつけて行ってみてね? 行き方が複雑なものもあるから、冒険みたいですっごく楽しいんだよ! とりあえず今日は校門から教室までの道を覚えてねっ?」
笑顔で顔を覗いて来るので、ハルカは仕方なくこくと頷いて“聞いている”という反応を示した。
本当に“全女子生徒20人”なのだろうか──。
きいてみようか迷ったが、きかないでもそのうち分かることなので結局やめてしまった。どちらにしろ、この学園でこれから過ごさなくてはならないのだから──。
校舎は外観も宮殿並だが中身も宮殿並だった。床は大理石で光っていたし、天井にはシャンデリアがぶら下がっていた。
そして廊下はまるで美術館だった。ところどころにソファーや、小さな木製のテーブルに置かれた壷があるし、壁には風景画や肖像画がかかっていた。“そのてのもの”は前の家にいくつかあったので、ハルカは何となく分かった。それらすべてが高級品だと。