紫陽花の葉が雨粒をはじくとき
壁は全部白いけれど部屋を灰色に染めるほどに暗い梅雨の曇天や、そのほの暗い空間を包む曖昧で囁くような癖のあるふんわりとした歌声としっとりとしたピアノの音色、木目が剥がれかけた洋服箪笥の扉の裏に大切そうに貼られていた妖艶な振袖美女の写真、その女性の正体が記されている偶然見つけてしまった宅急便の伝票の筆跡。
ふと思い出された懐かしく愛くるしい大切な記憶の欠片。
欠片だと思っていたものは、パズルのピースのように次々に視界にはめ込まれて、やがて現実となる。
柔らかく目を開けて視界に飛び込んできた現実は、そう、卒業したと思ったら出来ていなかった思い出の延長線であった。
結局わたしは、処女であることからも、この男の奴隷であることからも、卒業出来ずに宇宙空間の塵みたいにふわふわ舞っているだけだった。
地に足をつけることも出来ず、現実逃避しようにも身動きさえ取れず、ただただ、歪みに身を任せて従順であることしか出来なかったのだ。
わたしは、抱かれた。それが真実だ。
いつものように、あの時から変わらずに、また引っ掛けられてこの日も終わったのだ。
左を向けば、いつものように伸び伸びと鼾をかいて寝ているこの男に抱かれてから約2時間が経過していた。
揃って男の部屋を出て、階段を2フロア分駆け下りてみると、夕闇でも解るほどのどす暗い曇り空から激しい雨粒が吐き出されていた。普段、小雨程度では傘を差さないわたしでも折り畳み傘を鞄から探り出すほどのゲリラ豪雨に、横にいる男は棒立ちとなっていた。
最寄り駅ではないとはいえ、家から15分ほど離れたJRの駅までわたしを送っていくだけなので傘を持たなかったらしい。
わたしの傘を差し出し、男に持つよう頼んでみると、小さい頃に夢中で観ていた森に住まう巨大妖精が出てくるアニメ映画のキャラクターみたいな笑顔で礼を言った。こういう、お茶目なところを見せられると弱い。
都合のいい女でも構わない。どんな形でもいいから、ずっとそばに置いといて欲しい。
以前もかけた願いを、再び心の中で繰り返した。
人のほとんど通らない細い路地へ入るとより際立つ。滝のような轟音の雨の音と、砂利を引っ掻くような靴の渇いた足音、黄緑色の安っぽい折り畳み傘が乱雑に雨粒をはじく音、傘の隙間から覗く薄紫がかった曇天の色。
なんか、紫陽花だね。
思わず口をついて出た感想は、隣で傘を差してくれている男には聞こえなかったらしい。やがて、ココアに漬けられて溶けかけのマシュマロみたいな柔らかい声で、瞳で唇で、そして抱擁で、再び男は曖昧な迷宮にわたしを誘うのだった。
2度目の初夏は始まったばかりで、会う度、思い出す度に底から湧き立つこの激しい感情の正体は、もはや恋なのかどうかすらわからなくなっていた。そうして改めて自覚する。
この男が心の底から異性を求めることなんてきっとない、と。