あのさ。
淋しそうな桜の木に蕾がついた頃。伸びた前髪の隙間を冷たい風が吹き抜ける。
隣に立つ君の視線の先を追えば、まだ君が誰を想っているかを痛いほど知る。
いつか君に伝えられたらいい。
「あのさ、」
振り向いた君が泣きそうな顔をしていた。
僕は君に、好きだと言われた笑顔を向けた。
「そんな顔するくらいなら、行ってきなよ。ここで待っててあげるから。」
君の背中を見送るのはもう、これで最後になればいいと思った。
季節は7月に入って、暑い暑い日差しが蝉の声と相まって殊更に暑く感じる。
「あっちぃ、、」
クーラーのついていない古びたこの教室は、落書きだらけの椅子とはげた壁に貼ったカラフルな掲示物といくつかのクラス写真が妙に雰囲気を出していて、何人もの声が混ざりに混ざった笑い声で溢れていた。
「あっちぃよー」
背中で壁に寄りかかってノートで自分を仰ぎながら、暑さでぐだっているのはさらさらとした髪の長い女の子。この子の後ろが僕の席。1番窓側の1番後ろ。
「ハル!あっちぃ!!」
「はいはい、あっちぃあっちぃ。」
「あっちぃよ!どーしてあんたはこんな時も平気そうなのよ」
「暑いなぁとは思うよ。」
そう言って微笑むと 彼女はため息をついて
「もう〜、帰りたい。帰ってクーラーのガンガンに効いた部屋に行ってベッドにダイブしてそのまま眠りたい。」
彼女のそんな言葉に少しケタケタと笑いながら
「お風呂に入ってからにしなよ」
なんて冗談を言ってみると
「入るわよ!もしもの話!!」
勢いよく噛み付いてくるから またくつくつと笑いがこみ上げる。
「ハーールーーー。仰いで。」
そう言って彼女はおもむろにノートを渡して来ては、体を僕の正面に向けた。
「やだ。」
「なんでよ。」
「暑くなるから。」
彼女は大きく、多分わざと、ため息をついては
「私は毎日毎日あなたたちの練習を見守ってはせかせかとあなたたちのためになろうとしているのになぁー」
と、わざとらしく上目遣いをする。
彼女は、僕が部長を務める男子バレー部の現在唯一の女子マネージャーで、特別強いわけでもない僕らを 「あなたたちはすごい」と言い切ってはその小さな体で体育館を走り回って、僕たちの世話をがんばって焼いてくれる。
「そうなぁ。でももうちょっとしっかりしてくれると、、、」
「うるさい。私なりにがんばってるのよ」
彼女はそう言いながら 僕の頭にノートを振り下ろした。
「いてっ」
というのも彼女は、先輩マネージャーがいなくなって全般的に仕事を引き受けるようになってから判明したことだが、割と抜けているところがある。例えば1分間のタイマーをかけるとなったら間違えて10分のタイマーをかけてしまっていたり、2倍希釈のスポーツドリンクを20倍で希釈しては極薄で劇不味のドリンクを作り上げたりする。こんなのはかわいい方で、「はいはい、またやっちゃったのね」とみんなで笑い飛ばすのだが、試合の時間を間違えて把握していたりして全員を焦らせるなんてこともある。けれど決して状況が悪くなったことはないので僕たちの間では「奇跡の乙女」なんて呼んでは 周囲に誤解を与えている。
そう言った意味合いで 彼女は「がんばって」くれているのである。
「もー、叩くことないだろー。わかってるよ、がんばってるのは。」
「そんなにこにこしながら言わないでよ。」
「うそー? にこにこしてた?」
彼女は、うーんと何か考える素振りをして、そのとき傾げた首に合わせて 肩からするりと髪が流れていて、あぁ きれいだななんて思った。
「うーん、まあたしかにハルがにこにこしてるのはいつもというかもはやデフォルトというか、、」
「なにそれ、どういうこと」
彼女はそのあと、少し間を置いて、体をまた横向きに戻しながら
「優しいってこと。」
と、小さな声で呟いた。
「褒めてる?」
「褒めてるよ。」
なら、まあ、いいかな。
「ほらー、席つけ〜。さっさと連絡事項だけ言って解散だ解散ー!」
喧騒を一際大きく破る喧騒が教室の扉を割って入ってきた。
さよならと口々に別れの挨拶を呟いたところで、前にいる奇跡の乙女が振り向いては、
「行こう、部活。」
と、にかっと笑った。
「はいはい。」
そういって、頭をぽんぽんと叩くと「子供扱いするな」とかって怒るくせに、「でも頭なでられると安心する」とか言ってるから女心はよく分からない。
「よーし、部活だー!」
パタパタと上履きの音を立てながら前を走っていく姿は、同じように走って追いかけるには少し、子どもらしすぎた。
走って行く後ろ姿。時々振り返っては僕を急かすように手招きする。女子にしては少し背の高い、けれど僕からしたら背の小さい、あわてんぼうで笑顔の元気な奇跡の乙女。
それが、僕の好きな女の子。
彼女がまた、振り返っては僕の名前を呼ぶ。
「今行くよ。」
僕も少し、小走りになった。
時計の針を確認しては、
着替えを済ませて、ボールが床から跳ね返る音が響く体育館に行くと、すでに部員は何人か集まっていて いつも通りわちゃわちゃと盛り上がっているから 近くまで行ってそこに腰を下ろした。軽く、柔軟をする。
「ハル。」
呼ばれて振り返れば、
「お、奇跡の乙女。」
腰に手をあてて、仁王立ちをしていた。
「もー、本当にみんなしてその呼び方やめてよね。誤解が生じるの。一部では何か奇跡の生還でもしたみたいになってるのよ」
ふくれっ面をしているけれど、その話は割と面白くて好きだよ。
「ごめんごめん。それで、どうしたの?」
「用事はないのよ。ただちょっとまだ分かんないんだけど、言っておきたいことが、、」
そのときだった。
「かりん」
彼女がその声に振り返る。
「あ、先輩。」
そこには、彼女が、尊敬して憧れた、先輩がいた。
「ちょっといい? ハル、かりん借りるね。」
かりん。
それが、彼女の名前。
といっても、その名前を呼ぶ人はこの先輩くらいで他の部員はみんな「奇跡の乙女」からあやかっては「乙女」と呼んでいる。
「全然、どうぞ。」
「人をモノみたいに言わないでよ。」
相変わらずの噛みつきのよさに少し笑いが込み上げながら、
「乙女は誰のモノでもないよ。」
笑いながらいったその言葉に彼女が満足そうに笑ったのを確認して、僕は彼女と先輩から目をそらして再び柔軟を始めた。
先輩は1つ上の高校3年で、前回の大会で負けてしまった僕たちは3年生を見送ることになってしまった。時々こうして今日みたいに受験勉強の合間に遊びに来てはスッキリした顔をして帰って行くのだが、今日は多分、かりんに用事があっただけだろう。
「あの2人って付き合ってんの?」
突然、隣に座って来た仲のいい友達がそう聞いてくる。
「いや、付き合ってないよ。乙女からなんか聞いてるわけでもないんだけど。でも、まあ、時間の問題なんじゃないかな?」
「そうなんだー。なんかてっきり俺、乙女とハルが付き合ってるイメージだったわ。なんかお前ら席近いからか知らねぇけど やたら仲良いじゃん。」
そうやって、誰の目にも写っていたらいいとか思うのは少し女々しいっていうのかもしれない。
でも彼女はきっと、先輩が好きで、
先輩もきっと、彼女が好きだ。
「そうかな?でも別に大したことも話してないし、乙女の何を知ってるってこともないよ。たまたま席が近くなって同じ部活だし、よくしゃべるだけ。」
「まあそうなんだろうけどさー、そんなに否定しなくてもいいんじゃん?」
そうか、僕はもしかしたら、君から逃げてるのかもしれない。
彼はそう言いながら 僕の背中を押して来ては、「お前って体柔らかいよなー」なんて呟いた。
「乙女もお前といるときいつも楽しそうだしさー。まあ、ハルはいつもにこにこしてっからよくわかんねぇけどなっ。」
今、僕は、上手く笑えているだろうか。
「うーん、それはどうかなぁ。乙女は誰といても楽しそうだよ。」
「たしかに。でもお似合いよ、お前ら。」と笑いながら僕の背中を叩いた友達に、「痛いよ」と笑い返しては立ち上がって、その言葉を見ないように声を張り上げた。
「集合ーっ!」
その声に反応して、戻って来た2人の姿に違和感を感じながら 背中を叩いて来た彼とパスを始めた。
視界に入った時計の針が、少し動いたのを確認して、いつもは物足りなさを感じる練習時間も 今日だけは長かったと思いながら声を張り上げた。
「ラストーっ!」
張り上げた声にいくつかの声が返ってきて、
僕は乙女の方へ向かった。今日の練習はずっと、彼女が気がかりだった。
「ハル?まだラスト入ってなくない?」
「そうなんだけど、さっきいいの決められたからそのまま終わりたい気分。」
「なるほどね」
彼女はクスッと笑った。
「ねぇ、」
聞いてもいいかな。
「なにー?」
首をかしげた彼女がこっちをみる。
その目はとても、まっすぐだった。
「先輩、なんで今日パスの後すぐ帰ったの?」
彼女の口がぎゅっと結ばれたのがやけに目について、それで彼女は誤魔化すように、笑った。
「ハルは先輩のこと好きすぎだよ。」
そんな顔して言うくらいなら言わなきゃいいのに、それは君もおんなじじゃない?
「好きだよ、あの人のことは尊敬してるし、すごい憧れてる。」
憧れている訳を、君はどうして聞いてくれないんだろう。
そう思って君の顔を見ると、ちょうど目があって、逸らされた。
「乙女?なんかあった?」
「んーーーとね。」
下を向いて自分のTシャツの裾を引っ張っては、僕の顔を伺うように覗き込む。
これ以上聞かないで欲しいサインなのは分かってるよ。でもね、君が君らしくいられないなら、その理由を聞きたい。
君の、奇跡を起こさない、やけに静かな様子が、気になっていたんだ。
「ん?」
気持ちが焦って、続きを促した。
乙女、僕の勘違いだったかもしれないんだよね。君はきっと、もしかしたらきっと。
「うーん、普通に用事があったっていうのもあるし、、、それに、ハルにはあんまり言いたくない、、、かなぁ。」
その言葉と、目が潤んで行く彼女を見て、促した自分を後悔した。
君が、堪えるように呼吸を止めて、口をぎゅっと結んだ。
「ごめん、嫌なこと聞いたね。」
首を横に振る姿に、なんだか喉の奥が苦しくなって、鎖骨のあたりがぎゅっと音を立てたみたいだった。
奇跡を起こす君は、あまりにもきらきらしていて、僕の目には眩しくて、なぜ君は、僕のことを好きじゃないんだろうなんて 答えの分かりきっているようで分からないことばかりを考えていた。
でも君も、同じことを、僕ではないあの人に 思っていたんでしょ?
「乙女?」
横に並んだ君に一歩近づいて、触れようか迷った頭に右手を載せた。
ごめんね、君が安心してくれるような方法はこれしか知らないんだ。
体育館の床に、ポタっと涙が落ちた。
「...ハルのばか」
あまりにも小さかったその言葉は、
聞こえないふりをした。
泣いたほうがいいよ、堪える涙にしてはあまりにも綺麗すぎる。
だから、
「何でいつも優しいの。」
君がそんな皮肉を言っても、優しくするよ。
「それは、褒め言葉?」
「今は違う。」
それは、残念だな。
「ここで、泣きたくなかった。」
「うん。」
知ってるよ。だから、堪えようとしたんでしょ?
「、、ハルは、、気づいてた?」
ボールが床を打ち付ける音が響いて、ふっと前を見た。走り回る部員たちに片付けて、と合図を送る。
何が?なんて聞かないで、そのまま返す。
「、、うん。」
鼻を吸う君を見る。俯いていて 顔は見えなかった。
「ずっと?」
「うーん、それはどうかなぁ。でも何となく気づいてたよ。」
君が 先輩を好きだったこと。
でも、もう1つは僕の勘違いだった。それで僕はそこに勝手に逃げ場を作っていた。
「力になれなくてごめん」
「んーんー、ハルはそういうのしなくてよかったんだよ」
それでも、僕は君の力になりたかった。
君に目で追いかけられる先輩に何度だって憧れて、その目が僕に向けばと何度だって願った。
「先輩ねー、もう受験だから考えられないんだって。なんなら好きな人、他にいるんだって。」
鼻をすすりながら君はそんな悲しいことを言う。
「だったらさー、期待させないでほしかったなぁ。」
君の目が、また一段ときらきらしだすから、こぼれてしまいそうなそれをじっと眺めていた。
君の声が震える。震えてそして、小さな泣き声に変わった。
遠慮をして泣くその姿が、何かを堪えて泣くその姿が、小さな声で言った「好きだったの」という言葉が、あまりにも苦しくて、君を抱きしめたくなって、
せめて、行き場のない僕の右手が彼女の背中をさすった。
「ごめん、ハル。」
「なんで謝るの?」
彼女は肩で自分の涙を拭うと、少し間を置いて、
「こんな甘ったれ、困るじゃん。」
と笑ったふりをした。
そんなに無理して笑わなくていいよ。
「じゃあ、乙女はいつ甘えられるの?」
「....ハルは、優しいなぁ」
「何もしてあげれてないよ。」
そう言うと彼女は、「してるじゃん」と背中に回された僕の右手に触れた。
僕はなんとなく、右手を彼女の背中から離した。
しばらく、沈黙が続いて、君が呼吸を整える音だけが耳に届いていた。
時々見る彼女の横顔は、涙の跡がうっすらと残って、儚い という言葉が似合っていた。触れたら脆く、壊れてしまいそうな、彼女を 小さいと改めて思った。
「ハルは、振られたこととかあるの?」
「ないよ、告白したことないから。」
「じゃあ、誰かを振ったことはあるの?」
「あるよ、気持ちに応えられないと思ったから。」
「きっと、その子も今の私のおんなじだったと思うよ。」
今の君とおんなじならそれは。
「 じゃあ、僕は幸せ者だね。」
彼女はその言葉に、顔を上げてこちらを見た。
やっと、君と、目が合った。
「なんで?」
だから、君の目を見ながら言うよ。
「だって、こんなに想ってくれる人がいたってことでしょ?」
君が、まっすぐ見つめ返してきて僕の言葉を待つ。
「それはちょっと、嬉しいよね。」
だから僕はその目に、そう言って微笑んだ。
「きっと先輩も、同じじゃない?」
君にこんなに想われるなんて、ちょっと幸せ過ぎる気もするけど。
「だから、これでもう終わりって思わなくていいよ。気が済むまで好きでいなよ。」
君が忘れられなくて苦しくなったら、そのときは僕がなんとかしてあげるから。
知ってるよ。
「それくらい、好きだったんだもんな。」
君がまた少し、僕を見つめながら 目を潤ませていくから、
「そうはさせないからな。」
僕は彼女の両方のほっぺたをつまんだ。
そうしてこれでもかというほど その目をじっと見つめて、やっぱり君には笑っていて欲しいなとかわがままにも思って、にこっと笑いかけた。
「うー、ハル〜〜。」
彼女の目に涙が溢れていった。
君が、誰かのせいで儚い涙を流すなら。
その涙を流すのは、僕の前だけでいい。
「もう泣くなよ〜。甘えるな。」
それで、
その泣き顔を笑顔にするのが、僕の笑顔だったらいい。
「さっきは 甘えてもいいみたいなこと言ったじゃん〜」
君がそうやって 安心して僕に甘えられるなら、僕は君にこの気持ちを伝えられなくてもいいかなって思うよ。
「いつ甘えるのか聞いただけだよ。」
「それはずるいよ。ハル、もう離してよ痛いよ。」
僕はほっぺを解放して、君に笑顔を向けた。
君は、目尻をくしゃっとして笑っては、その反動で残っていた涙が一筋流れた。
「ねぇ、」
君が笑ったまま、その口を開いた。
「なに?」
君の言葉を待つ。
「今こんなこと言うの、ちょっとあれかもしれないけど、、」
君の目が迷う。
「ん?」
気にしないから、言ってみて。
「ほら、そういう顔。わたしね、ハルの笑顔すごく好きだよ。安心する。」
君はそう言って くしゃっと照れたように笑った。
「はいはい。」
君はずるい。
「ありがとありがと」
「素っ気ないなぁ。」
そんなことを言って、ふくれっ面をするなんて。
ずるいよ、君は。
「あのさ、」
かりん、
呼べないその名前の代わりに。
「なによ」
君の濡れた頬の一筋を、触れずに拭う代わりになるなら。
「呼んだだけ。」
何度だってこうして笑いかけるよ。
君が戻ってくる姿が見えて、腰をかけていた階段から立ち上がる。
数段降りて、君が僕に気づいたのを確認してからそこにもう一度、腰を下ろした。
「ありがとう。本当に待っててくれたんだ。」
君が階段を登ってくる。
「行っちゃった、先輩。」
今日は先輩の卒業式だった。
「うん。」
「でもなんかね、なんか、泣いちゃったんだけど、でもね、先輩が卒業するってことが寂しくて泣いたと思う。」
「うん。」
君は、僕の前に腰をおろした。
「もう一回 好きだって結局言えなかったけどね、」
「うん。」
「先輩が、あのとき嬉しかったって言ってくれたよ。」
下を向く君がどんな顔をしてるか、分からないのが不安だった。でも多分君は。
「うん。」
「ハルの言った通りだって思った。」
君の鼻がふふっと鳴って、君の細くて長い黒髪が、短く左右に揺れた。
あぁ、笑ってるんだね。
そしたらもう僕は、君の涙を拭うために笑ったりしないよ。
「かりん。」
驚いた顔をして、君が振り返る。
「好きだよ。」
今度は、君の笑顔のために笑いたいんだ。