遺言
人の生とは思ったよりも頑丈で、そして思ったよりも脆い。
そんな相反する2つの事象が単純に、そして複雑に絡み合ったものなのかもしれない。
それは家族の絆も同様であろう。
何かがあれば助け合い、また何かがあれば裏切り合う。
それこそ人それぞれだと言われてしまえば返す言葉もない。
結局は全てが自らのためのエゴに他ならないのだろう。
それは一昨日のことだった──
裸一貫同様の状態から小さな会社を起業し、その田舎では知らぬものはいない企業にまで成長させた敏腕社長──枡田 八助が天寿をまっとうした。
享年82。
大往生を遂げた人生の最期に残した言葉はたった一言。
「ようやくこれで妻の元へと逝ける」
普段とは違い、とても優しい顔をして死に水を取った執事に言い残した。
その場に家族は誰1人として駆けつけることはなかった。
それほどに呆気ない幕切れだった。
彼はこれまでに2度、癌で床に臥していた。
胃と肝臓の癌。
その両方で医師から余命を宣告されるも生き長らえた鉄人だった。
そんな彼が4日前に風で倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまったというのだから、やはり人生とは分からないものである。
しかしそれはそれでよかったのかもしれない。
八助は偏屈な人間だと専らの評判で、1度目の癌で倒れた時でさえも5人の子どもは誰1人として駆けつけることはなかった。
その時はあの頑丈だけが取り柄の親父がこれしきで死ぬはずはないと笑い話で済んだ。
しかし本当に死んでしまっては冗談では済まない。
10数年前妻には先に旅立たれ、子どもは危篤であっても帰ってくることがない。
妻の元へ逝けると微笑んだ彼の気持ちも分かるものであった。
そして今日。
彼を送る式は慎ましやかに、そして恙無く執り行われた。
結局三男の茂樹だけは式に姿を現すことがなかったが、他の4人に見送られて安らかに眠ることができた。
──そのはずであった。
「集まってくれ。大事な話がある」
職場の部下や、取引先の重役など参列者が帰路につき、親族だけが残ったところで長男の光が兄弟3人を呼び寄せる。
そこにはもう遺族代表として涙を流していた彼の姿はなかった。
「はぁ……やっとこの話ができるのね」
「まったくだ。このためだけに帰ってきたようなものだからな」
長女の由香里と次男の聡志がやってくる。
その瞳にはやはり悲しみの色はない。
むしろあるのは欲。
彼らの目的は八助の残した遺産に他ならない。
「それで悠斗はどうした?」
「悠斗様ならこちらにいますよ」
そう言って現れたのは八助に支えていた老執事。
その後ろから四男の悠斗も現れる。
「役者も揃った事だし早速親父の遺産についての話をしたいんだが」
「──それでしたら私めが旦那様から遺言を預かっております。僭越ながら読ませて頂きますね」
執事は懐から遺言状を取り出す。
そしてそれを読み上げた。
「遺言は簡単に済まそうと思う。遺産はここにいる人間の中で10分間話し合い、一番否定的な意見の少なかった人が総取りすることとする。たとえ私の血を継いだ子どもであろうと、葬式にすら参列しない親不孝者には相続の資格すらない。遺産に関しては今は桜田に全ての管理を任せている。決定したら彼に聞いて欲しい──」
そこまで読んだところで老執事の桜田が言葉に詰まる。
その目には涙。
その後に書かれてあった桜田への感謝の言葉が主な原因だろう。
「それなら話し合うことなく決定だな。長男である俺が相続するのが一番相応しい。異論はないだろ?」
桜田を気にすることもなく光は話を進める。
長男である事を理由にした横暴な理論はもちろん納得されるわけもない。
「そんなのは理不尽よ! 父さんに一番尽くしてきたのは私でしょ! それなら私が遺産を相続すべきだわ!」
由香里は顔面を歪ませて光の言葉を否定する。
確かに5人の中では唯一この田舎に残っていたのが由香里だった。
「そういう姉さんは親父が倒れた時、病院にすら行かなかったらしいじゃないか。それで尽くしてきただなんて聞いて呆れるよ」
もちろん聡志も黙ってはいない。
由香里の揚げ足を取り、邪魔者は排除しようという魂胆だった。
「聡志も経営している会社の業績が傾いていて大変なことになっているだろ。親父を裏切るようにして独立したあげくそのざまでよく相続ができるなんて思ってるな」
「そういう兄さんだって前の奥さんに払っている養育費や慰謝料で火の車じゃないか!」
火に油。
売り言葉に買い言葉。
家族の絆など元からなかったのか、エサに群がるハイエナのように目を光らせた子どもたちから罵詈雑言が飛び交う。
そんな血で血を洗う抗争に参加せず傍観しているのは悠斗ただ1人。
八助の遺言では否定的な意見の少なかった者が総取りできるのだからとても賢明な判断とは思えるが、こういうときにいつも八つ当たりをされるのは末っ子の避けられない宿命だったようだ。
「──黙ってやり過ごそうとしているけど、一番相続の権利がないのはお前だからな!」
「そうね」
「ああ」
ライバルを1人でも蹴落とすために上の3人は結託する。
「分かっているよ。僕は元から遺産を相続するつもりはない。だから兄さんたちで気が済むまで罵りあったらいいじゃないか」
悠斗は吐き捨てるようにそうこぼす。
昔であればそれこそ生意気だと殴られていたところだが、金に目の眩んだ彼らには戦線から退いた悠斗に構っている暇はなかった。
「桜田さん。悠斗は自分から相続のつもりがないと言ったんだから除外していいんだよな」
「はい。本人の意思を尊重すべきなので悠斗様の相続権は破棄されたということで構わないでしょう」
老執事は冷静にそう答える。
それにほっとしたのか槍玉にあげられず済んだ悠斗は安堵の息を漏らした。
「それじゃあ対象者が俺ら3人になったところで話を戻すが、やっぱり遺産を相続するべきは俺だろ」
「いや、私よ!」
「違う、俺だ!」
3人はそれぞれを睨み合う。
そして聞くに耐えない罵詈雑言の応酬が始まり、挙げ句の果てには立ち上がり、掴み合いの喧嘩になりかけていた。
「申し訳ありませんが、もう少し冷静になられてはいかがでしょうか。お三方とも旦那様の事を好いておられなかった事は重々承知していますが、それでもこの有り様では旦那様が不憫過ぎます」
冷静な桜田の言葉に3人は我に返り座り直す。
その先は罪悪感が勝ったのか誰1人として言葉を発することがなかった。
「──それでは10分が経ちましたので、遺言通り話し合いを終了とします。──私も、そして旦那様もこのような結果になることを望んでいませんでしたが、仕方がないことですね」
そういうと桜田は懐からもう1枚別の書類を取り出した。
そしてその内容を口にする。
「君たちがここまで愚かな人間に育ってしまったのはすごく残念なことだ。しかしそれも私の躾が悪かったということなのだろう。──それで話し合いの結果決まった相続者だが、私は執事の桜田に遺産の全権を譲渡することにした。お互いを罵り合ってまで私の遺産を欲しがるような君たちには鐚一文相続をさせるつもりはない。──とのことです」
「何だよそれ!」
逆上した光が桜田の胸ぐらを掴む。
それに続くように「そうよ」、「納得がいかない」と由香里と聡志も抗議の声を上げた。
「──いい加減にしなよ。父さんはこうなることまで予想していたんだ。僕は桜田さんの読んだ遺言を聞いた時点でこうなることが分かっていたよ。──父さんは僕たちに遺産を相続させるつもりはないってね」
そんな3人を尻目に悠斗は冷静に言葉を並べていく。
その目には悲しみの色。
かつて彼がしたことに対しての懺悔。
それを謝罪できなかったことに対しての後悔。
様々な父親に対しての思いが渦巻いていた。
「はぁ……結局親父には敵わなかったってわけかよ」
光は胸ぐらを掴んでいた手を緩める。
その身体にはもう力がない。
思い返せば楽しかった思い出もあった。
しかしそれを忘れるように父親を越えられない自分自身に苛立ちを覚えていた。
「妻と子どもが待っている。話も終わったし僕はもう帰るよ。──桜田さん後の事はお願いします」
「はい。確かに承りました」
桜田に頭を下げて悠斗は部屋を──そして家を後にする。
結局血で血を洗う抗争は全てを見透かした父親に軍配が上がった。




