伊勢伊勢守貞孝
第七十五話、七十六話を同時更新しました。
永禄十五年(1572年) 八月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「伊勢守様は公方様に将軍職を返上させるには今少し時がかかるだろうと見ておられます。このままでは義昭様の苛立ちが募るばかり、一つ間違えると苛立った義昭様が交渉を壊しかねません。御気持ちを宥める必要があると考えておいでです」
「そうだな、何か手が有るか?」
俺が問うと上総介が与十郎と因幡守の二人を見た。二人が頷く。
「義昭様を従四位下に」
「なるほど」
義昭は従五位下左馬頭だったな。俺が従四位下大膳大夫だからその辺りも不満なのかもしれない。昇進させればこちらが義昭を軽視しているわけでは無いと思うだろう。征夷大将軍に就任する前に位階を上げておく。多少は落ち着くか。まあ一月から二月が限度だろうがやらないよりはましだな。
「銭がかかるな」
「はっ、それを御屋形様に用立てて頂きたいと」
多分伊勢守の真意はこっちだろう。世の中先立つものは銭か。どの時代でも変わらないな。
「良いだろう。伊勢守殿に昇進の手続きを取る様に言ってくれ。費用は朽木が持つ」
「はっ」
「多少水増ししても構わんぞ。お守も大変だろうからな、骨折り料だ、遠慮するなと伝えてくれ」
上総介が困った様な顔をすると下野守、重蔵、十兵衛が笑い出した。
「それと御屋形様にも新たな官位をと朝廷から伊勢守様に打診が有ったそうにございます」
またか、三好の反攻を防いでから時々話が来る。その度に断っている。
「朝廷はこの度の御屋形様の御働きに大分感謝しております。禁裏修理の件も有りますれば御屋形様の労に酬いたいと考えているようです」
「無用だと伊勢守殿に伝えてくれ。わざわざ義昭様を不愉快にさせる事は無いとな」
「はっ」
伊勢の三人は何も言わずに引き下がった。まあ俺が受けようとすれば止めただろう。伊勢守がこちらに報せてきたのは朝廷での動きを報せるため、それ以上ではない筈だ。官位を受けるのは平島公方家を降伏させ義昭の将軍宣下後だな。足利が一つに纏まり畿内から争いが消える。官位を受けても何処からも文句は出ない筈だ。文句を言う奴が居るとすればそいつは心の狭い嫉妬心の強い男だろう。
伊勢の三人が下がると下野守が話しかけてきた。
「御屋形様、義昭様の事ですが今のままでは将軍になられても朽木に対して不満を持つのでは有りませぬか?」
重蔵、十兵衛が頷く。
「間違いなくそうだろうな。政の実権が無い、朽木は大き過ぎる、十分過ぎる程の理由だ」
「それでは朽木は三好と同じ扱いを受けましょう」
十兵衛が眉を寄せている。厄介な事になった、そんな感じだ。
「已むを得ぬな、十兵衛。今京が安定しているのは摂津を朽木が押さえたから、そして幕府政所を伊勢を使って朽木が押さえたからだ。それ無しでは京は混乱し三好は何度でも四国から京に押し寄せるだろう」
「……それは分かりますが……」
「義昭様の御力ではそれを押し返せぬ。混乱するだけだ」
三人が頷く。もっとも渋々といった感じだ。足利と対立するという事に不安が有るのだろう。要するに不満は持たせても怒らせては拙いという事だ。
「下野守、承禎入道様は天下を望まれなかったのか?」
「……天下、でございますか?」
意表を突かれた、そんな表情だ。
「もし、六角家が東の美濃へ兵を進めず朽木が若狭、越前を得れば六角、朽木は約五万の軍を西に向けられた筈だ。畠山と力を合わせれば三好を打ち破る事が出来たかもしれぬ。それを考えなかったか?」
下野守が考え込んでいる。そんな下野守を重蔵と十兵衛が興味深げに見ていた。三好を打ち破れば六角の影響力は山城、河内、和泉に伸びた筈だ。天下という文字が頭に浮かんでもおかしくは無い。
「そこまでは御考えにならなかったのではないかと思いまする。それゆえ美濃に兵を送られたのでしょう」
「なるほど、そうかもしれぬな」
俺は史実を知っている。足利の天下は終わった。織田、豊臣、徳川の天下も終わった。不変の物など無いのだ。だが俺以外の人間にとっては足利の天下が終わるというのは信じられない事なのかもしれない。天下を目指すなどキチガイ沙汰か。小夜と雪乃が心配する筈だな、二人とも不安そうな顔をしていた。
「御屋形様は天下を望まれますので?」
重蔵が問い掛けてきた。忍びらしく表情が無い。普段は頼もしいんだけどな、今はちょっと不安になる。
「望む望まぬではない。天下を獲らざるを得ぬ立場になったのではないかと考えている」
「……獲らざるを得ぬ立場と言われますか」
「うむ。関白殿下に指摘されて気付いた。いや目を逸らしていたのかもしれぬ。無理矢理殿下に現実を見せられた、そんなところか」
三人が呆然としている。近衛前久が絡んでいる事に驚いた様だ。
「朽木は大きくなった。豊かでも有る。そなた達、能登の畠山、伊勢の北畠の事は覚えていよう。義昭様が口を出してこちらの邪魔をした」
三人が頷いた。
「これ以上朽木に大きくなられては困る、そういう事なのだが能登も伊勢も譲る事は出来なかった。朽木が支配した」
北陸、東海道から一向一揆を駆逐するには必要な事だった。それは朽木だけじゃない、上杉、織田、徳川も同意見だろう。
「朽木に匹敵する勢力と言えば毛利と上杉ぐらいのものだろう。三好は分裂し四国へ追いやられた事で勢力を縮小したからな。だが毛利も上杉も京からは遠い、朽木は直ぐ傍に居る。足利にとってもっとも危険な存在は朽木なのだ」
「……」
「京に関わらなければ、三好の様に足利を圧しなければ最低限の信頼関係は維持出来るかと思ったが残念だが義昭様は失敗した。三好の反攻を防ぐには朽木が摂津を獲り京を押さえるしかなかった。まあ朽木が大きくなるには摂津から播磨方面を目指すしかないのも事実だが……」
戦国である以上停滞は許されない。摂津から播磨への進出は譲れない。
「では義昭様と朽木家の衝突は必至だと御屋形様はお考えなのですな?」
「そうだ、重蔵。将軍宣下まではなんとか現状を維持出来るだろうがその後は朽木を討てと密書が彼方此方に回るだろう。義輝様が三好に対してやった事だ。それが朽木に対して行われる」
三人とも暗い顔だ。そんな顔するなよ、気が滅入るだろう。
「しかし天下を獲ると言われましてもどのように?」
十兵衛が困惑した様な声を出した。
「分からん、これまで武家で天下を獲ったのは二人しかおらん。頼朝公と尊氏公だ。頼朝公は関東の武士達が担ぎ上げた。尊氏公は建武の新政に幻滅した武士達が担ぎ上げた。要するに武士の支持が有ってお二方は天下を獲れたのだ。一人で天下を獲ったわけでは無い。となればだ、朽木が天下を獲ろうとすれば朽木は武士達の支持を得なければならん」
「武士の支持と言われますか?」
重蔵が困惑した様な表情を見せた。
「武士だけではないな、今では商人の力も強くなった、商人の支持もいる。極端な事を言えばこの日の本の民の支持が要るという事だ」
三人が大きく息を吐いた。下野守は首を横に振っている。俺も首を振りたい気分だ。俺に可能なのだろうか?
「具体的には何を?」
十兵衛が訊ねてきた。十兵衛も困惑している。
「先ず強さを示す必要が有る。もっと国を攻め獲らねばならんだろう。豊かさも必要だ。それと信用だな」
「信用……」
下野守が呟いた。眉を寄せている。この乱世で信用を得る、容易ではないよな。俺も眉を寄せたくなった。当然だな、天下など簡単に獲れるわけがない。暗い顔をして首を振り眉を寄せ溜息を吐きながら獲るのだろう。信長、秀吉、家康、みんなそうやって天下を得たのだ、そう思おう。
「俺が今やっている事もその信用を得るためだ。足利氏の内訌を収め畿内に静謐をもたらす。義昭様を征夷大将軍に就け天下の秩序を正す。朽木は天下の為に働いている、良くやっているという評価を得なければならん。そうなれば今朽木が伊勢を使って幕府を押さえているのも私利私欲からではないと周囲も見る筈だ」
「……しかしそれでは足利の為に働いているように見えますが?」
首を傾げながら十兵衛が訊ねてきた。主旨が違うんじゃない? そんな感じだ。
「先に言ったがいずれ義昭様は朽木を排除しようとする。周囲に朽木を討てと密書を出すだろう。その時密書を受け取った大名が如何思うか……」
「なるほど、義昭様に不信を抱きましょう」
「そうだ、下野守。大名が朽木に敵対しても構わん。大事なのは義昭様に、いや足利に対して不信を抱かせる事だ。天下の諸大名に足利では駄目なのだと思わせる、それが天下獲りの土台になる」
俺の言葉に三人が頷いた。
「そこから先はどうなるか分からん。何と言っても天下を獲った二人は死んでしまったからな。教えを請う事も出来ん」
三人が軽く笑い声を上げた。ようやく笑ってくれた。でも冗談を言ったわけじゃないんだけど……、ちょっと不本意だな。
「天下を獲り損ねた場合、どうなるのでしょうな?」
重蔵が呟いた。獲り損ねた場合か、良く分からん。織田家は崩壊した、石田三成は命を失った。でもどちらもこの世界では起きそうもない事だ。
「三好長慶様は如何だったのでしょう? 天下を望まれなかったのでしょうか?」
今度は十兵衛が呟いた。後の二人は考え込んでいる。三好長慶か、やはりそこに行くよな。現代ではあまり評価されていないが戦国の一大巨人だ。天下獲りを狙わなかったのか、皆が思う筈だ。
「十兵衛、俺が思うに長慶殿は一度は天下を望んだが諦めたのだと思う」
三人が訝しそうな表情をした。
「最初は幕府を潰そうとしたと思う。三好家は何代にも亘って酷い目に有って来たからな、細川や足利に対する恨み、幻滅は強かっただろう。幕府を潰し新たな幕府を作ろうと考えてもおかしくは無い」
三人が頷いた。
「だが三好家が勢力を強めるにつれて六角、畠山を始めとして諸大名の反発が酷くなった。三好家は武士達の支持を得る事が出来なかったのだ。それでは足利の幕府を潰しても三好の幕府を作る事は出来ない。長慶殿は諦めざるを得なくなったのだと思う、悔しかっただろうな」
「……」
「三好幕府の創設を諦めた長慶殿は次善の策として足利幕府の乗っ取りを考えたと俺は思っている」
「足利幕府の乗っ取り、でございますか?」
驚いたように十兵衛が声を上げた。
「そうだ、十兵衛。だから義輝様を朽木に追い払って長期間放置した。将軍が居なくても幕府は何の問題も無い、周囲にそれを見せ付けたのだ。そして逃げた義輝様を殺さなかった。殺せば新たな将軍を京に迎え擁立しなければならんからな」
義輝が居ない間に三好長慶は幕府を掌握した。大事なのはそれだった。
「しかし、御屋形様が和睦を成就なされました」
重蔵か、懐かしそうな表情をしている。あの時は大分働いて貰ったな。
「あの時にはもう幕府は長慶殿の支配下に有った。義輝様が戻っても何も出来ぬ。そして他にも義輝様を戻す理由が有った」
三人が訝しげな表情をしている。
「三好家の家格を上げる事だ。長慶殿は相伴衆になり細川の臣から足利の直臣になった。他にも三好家から足利の直臣になった人間が居る。狙いはそれだろう。そのためには義輝様が必要だったのだ」
「長慶様は管領になろうとされたのでしょうか? そのために相伴衆になられた……」
十兵衛が考え込みながら問い掛けてきた。
「いや、俺は違うと思う。管領では細川、斯波、畠山に並ぶ事になる。長慶殿はもっと上を目指したと思う」
「それは?」
「鎌倉幕府の執権だ」
三人がなるほどという様に頷いた。
「源氏の将軍は三代で途絶えた。北条氏は執権となり宮将軍を担いで実権を握った。それと同じ事だ、足利将軍を飾りとし三好家の一門で幕府要職を独占する。それが狙いだったと思う」
残念だが長男の義興が死に長慶は気力を失った。それが無ければ三好一門による幕府の乗っ取りは上手く行ったかもしれない。天下人に必要な条件、それには寿命も有るだろうな。天下獲りの事業は長期プロジェクトだ。短命ではならん。俺も気を付けなければ……。
永禄十五年(1572年) 九月下旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 細川藤孝
「では左馬頭様が従四位下に叙されると?」
兄、三淵大和守が問うと政所執事、伊勢伊勢守殿がゆっくりと頷いた。
「如何にも、来月の半ば過ぎ、遅くとも末にはそうなる筈。真に目出度い事にござる。左馬頭様、お慶び申し上げまする」
上段の間に居られる義昭様に向けて伊勢守殿が恭しく平伏すると皆で“おめでとうございまする”と唱和した。義昭様が“うむ”と頷かれた。表情は決して悪くない。
「将軍宣下に向けて良い弾みになり申した。政所執事殿、左馬頭様の将軍宣下、何時頃になりましょう?」
一色宮内少輔昭辰殿が問うと伊勢守殿が宮内少輔殿に視線を向け笑みを浮かべた。
「さて、大膳大夫様の交渉次第と御伝えした筈ですが」
「無駄ではござりませぬか。将軍職の返上など有る筈も無し、今直ぐ将軍職の解任と左馬頭様への将軍宣下を願い出た方が宜しゅうござろう」
宮内少輔殿の言葉に何人かが頷いた。義昭様も頷いている。
「大膳大夫様からは年内は猶予を頂きたいと申し出が有り左馬頭様もそれを諒承なされた。宮内少輔殿もそれは御存じであろう」
「しかし」
言い募る宮内少輔殿に対し伊勢守殿がすっと正対した。
「御不満ならば直接大膳大夫様に申されては如何かな、宮内少輔殿。某は止めは致さぬ」
宮内少輔殿が顔を真っ赤に染めて口籠った。
それを見て上野中務少輔殿が“伊勢守殿”と声をかけた。
「御手前を責めているわけでは無い、気を悪くしないで欲しい。だが将軍職の返上など本当に可能なのかという思いが我らにはある」
伊勢守殿が身体を上段の義昭様に正対させた。
「本日、左馬頭様の御前に参上しましたのは御昇進の儀の他に御願い事が有っての事でございます」
多くの者が訝しげな表情をしている。無視された中務少輔殿が唇を噛んだ。
「公方様ですが、将軍職の返上には難色を示されているとか」
伊勢守殿の言葉に皆がざわめいたが伊勢守殿はそれを全く無視した。
「しかし御父君義維様、御舎弟義任様は大膳大夫様からの報せでは将軍職の返上に反対では無いと聞いておりまする」
ざわめきが止まった。皆顔を見合わせている。
「お願いと申しまするのは四国に居りまする三好豊前守、安宅摂津守の一党に対して御宥恕を賜りたく存じまする」
「何を言う! あの者共は兄を弑した逆賊どもであろう!」
「左馬頭様の申される通り!」
「伊勢守殿、御控えなされよ!」
義昭様が御怒りになられると何人かが声を出して伊勢守殿を責めた。伊勢守殿が軽く頭を下げた。
「公方様が将軍職の返上に難色を示されているのはその者達が理由だとか」
「……」
「自分を盛り立て将軍職へ就けてくれた者達を切り捨てる事は忍びないと申されているそうにござる」
皆が顔を見合わせた。
「伊勢守殿、それは御寛恕が有れば公方様は将軍職を返上すると理解しても宜しいか?」
私が尋ねても伊勢守殿は身動ぎもせず無言だ。答える必要を認めぬか……。
重苦しい気が部屋に満ちた。皆顔を見合わせ時折義昭様へ視線を向ける。義昭様は無表情に伊勢守殿を見ている。無表情なのは伊勢守殿も同様だ。
「伊勢守、答えぬか」
義昭様が低い声で命ずると伊勢守殿が軽く頭を下げた。
「公方様が将軍職を返上されれば既に義維様、義任様が返上に賛意を示している以上、平島公方家は左馬頭様を将軍職を継ぐべき御方と認めたという事になりましょう」
彼方此方から呻き声が聞こえた。
「昨今公方様から将軍職を取り上げ不満を言うようなら討てば良いとの声が左馬頭様周辺に有ると聞きまする。討つという事は左馬頭様を認めぬ者を討つという事、左馬頭様を認めさせその上で将軍職に就く事に比べれば数段劣りましょう。何卒御賢察願いまする」
伊勢守殿が深々と頭を下げた。