人物評価
永禄十年(1567年) 十二月上旬 近江伊香郡塩津浜 ルイス・フロイス
『昨日、朽木大膳大夫基綱様に会いました。この近江の国王は、二十歳を越えたばかりですが中肉中背、これといった特徴の無い顔立ちで髭は殆ど有りません。声はよく通りますが、粗暴で荒々しい性格という評判とは全く反対で穏やかで思慮深い性格をしています。彼は日々領民の為に家臣達と共に熱心に執務に励んでいます』
『彼は幼少時に戦争で父親を失いました。その頃の彼は僅か三百人程の兵士を率いる小さな領主でしか有りませんでしたが彼は兵を整え武器を蓄え策を巡らして近隣の諸侯を討ち従えたのです。それには彼が所持する八門という謎めいた隠密組織の働きが大きかったようです。八門は近隣から酷く恐れられています。そしてそれは朽木大膳大夫への恐怖でもあるのです。今では彼は四カ国の国王であり五万人の兵を有する畿内では二番目に大きな勢力の支配者になっています』
『彼は優れた行政官、統治者で法を整え領内で不法や不正義が行われる事を決して許しません。正義を重んじ寛大で謙虚です。彼の治める領地は極めて繁栄しており領民達は安心して暮らしています。彼が所有する敦賀の湊はポルトガルの船だけでなく明からも沢山の船が来ます。彼は諸侯達の間で最も富める者なのです。そして戦略においては抜け目が無く戦場では勇敢で大胆、時に残虐で無慈悲でもあります。近隣の諸侯は彼の財力と武力、そして無慈悲さを非常に怖れています』
『彼は優れた理解力と明晰な判断力によって、神仏やすべての異教的占いを全く信じていません。宇宙の創造者や霊魂の不滅はなく、死後には何も存在しないと公言しております。しかし彼は宗教を無用の物とは思っていません。統治者として人の心を救い安らかにするために必要な物だと考えているのです。極めて冷徹で合理的な判断をしています』
『その為彼は宗教に携わる者が人の心を救わず権力者に取り入る事、悪徳に耽り財貨を貪る事、人の心を惑わし唆し領主に背かせ自らが権力を持つ事を悪魔の所業と言って激しく憎んでいます。実際そのような事を行った異教の者達が、彼らはこの国で最も権威ある異教でしたが彼によってその根拠地を焼かれ追い払われました。他にも彼に敵対した僧侶、その信徒達二万人が殺されています。しかし彼に対する批判は聞こえてきません。誰もが彼の毅然たる行動力の前に沈黙しています』
『彼は私にもこれらの異教徒達と同じ事をするなら自分はお前達にとって災厄になるだろうと警告しました。これは脅しでは有りません、我々は十分にその事に配慮しなければなりません。そして彼の警告に従う限り私達は彼の領地で布教が許されます。彼は私達にとって親切ではありませんが公平ではあります。いかなる意味でも他の異教に比べて不当に扱われる事は有りません。彼の領地で我々は極めて安全で異教徒達から迫害される事は無いのです。そのような事をした愚か者には彼が厳しい罰を与えるでしょう』
トーレス様に送る手紙はこれで良いか。何故か溜息が出た。朽木大膳大夫基綱、彼は何かが違う。この国の人間とも私達とも何かが違うような気がする。それが何なのか……。彼は私をずっと見ていた。私が彼を見ていたように彼も私を見ていた。一体何を考えていたのだろう……。
永禄十一年(1568年) 二月上旬 近江高島郡安井川村 清水山城 朽木稙綱
「倒れたと聞いたから驚いたぞ、御爺。正月に会った時は元気だったからな、如何いう事だと吃驚した」
「倒れたのではない、蹴躓いたのよ。それを皆が誤解して騒いだ。儂はこの通り何の問題も無い」
「布団に横になっていて言う言葉ではないな」
「念のために横になっておる。転んだ時にちと肩を打ったわ」
大膳大夫がフンと鼻を鳴らした。可愛い孫よ、儂が倒れたと聞いて飛んで来よった。
「まあ母上もそのような事を言っていたから嘘ではあるまい。だが無理はいかんぞ、もう年なのだからな」
「年寄り扱いするでないわ。その方こそ風邪には気を付けよ。若いからと言って油断はならんぞ」
「うむ」
歳は取りたくないものよ、何もない所で蹴躓くとは……。
「良い報せが有るぞ、御爺。小夜が身籠ったかもしれぬ」
「ほう、真か?」
「多分な」
「真なら目出度いのう」
「うむ」
これで曾孫が二人か、年内には生まれる。死ねんのう、竹若丸が生まれた時はこれで思い残す事は無いと思うた。六角が滅びた時も同じ事を考えた。だがまだまだ死ねぬ。未練よのう、歳を取る毎にもっと生きたいと願うとは……。
「能登に畠山を戻すそうじゃな」
「小煩いのが騒ぐからな。一度だけだ、二度目は無い。俺はただ働きが嫌いだ」
大膳大夫が不愉快そうに吐き捨てた。義秋様を小煩いか。妙なものよ、何故これで大膳大夫は足利の忠臣と言われるのか……。それにしても二度目は無い?
「畠山だが戻しても収まらぬか?」
「収まるまい。正月に挨拶に来るかと思ったが家臣を寄越して終わりよ。誰の力で戻るのか、分かっておらぬようだ。戻った後、誰を頼むかもな。ま、名門畠山の一族だ。朽木の様な成り上がりには頭を下げられぬらしい」
「……」
大膳大夫が片頬を歪めた。余程に不愉快らしい。
「その辺りの配慮が出来ぬようではこの乱世を生き抜く事等出来まい。六角左京大夫と同じよ。潰しても痛みなど感じぬな」
「……そうじゃの」
「年内は無理でも来年には能登は朽木領になろう」
「悪じゃのう、お前は。何を考えたか分かったぞ。畠山を能登を獲る道具として利用するか」
儂が笑うと大膳大夫も笑った。
「その通りよ、義秋様が良い道具をくれたわ。精々使わせてもらう」
「足利の忠臣を演じつつ領地を広げるとはのう。悪ではない、大悪じゃな、大膳大夫。頼もしいわ」
「綺麗事で乱世は生きられぬ。綺麗に見せる必要は有るがな」
また笑った。なるほど、それが足利の忠臣か。
「笑い事ではないぞ、御爺。この乱世、他人の力で国を取り戻せる程甘くは無い。利用される、使い潰されるかもしれぬ、そのぐらいの覚悟がなければ……」
「そうよな、名門の名だけでは生きていけぬ」
大膳大夫が頷いた。
「三河の徳川を見てみろ、酷い事になっている」
「一向一揆か?」
首を横に振った。
「それはもう起きている。今度は御家騒動が起きた」
「なんと」
思わず身体を起こそうとして大膳大夫に止められた。一向一揆で痛めつけられている所に御家騒動?
「徳川の正室は今川の親族から娶った。正室との間には娘と嫡男が生まれている。今川の勢力が東三河に進出した事で徳川家中に今川と結ぼうとする勢力が生まれた。好きで結ぼうとしたとは思えぬ。このままでは徳川は滅びてしまう。しかし織田を頼ろうにも織田は美濃攻めに夢中で頼りにならぬ。一向一揆を抑えるには今川から武田、武田から本願寺に仲裁を頼むのが早い。それで当主を殺して嫡男に跡を継がせる、そう考えたのだ」
「隠居ではないのか? 追放という手も有ろう」
大膳大夫が首を横に振った。
「今川治部大輔が納得するまい。先代の治部大輔が死んだどさくさに紛れて独立を図ったのだからな。怒りは相当に大きい」
「なるほど、そうじゃの。今川はその話を?」
「当然知っている。むしろ俺は今川から持ちかけたのではないかと疑っている。当主が幼ければ人質として駿府で保護し西三河を事実上今川領にする。そう考えたかもしれん」
「有りそうな事よ」
当代の治部大輔、名は氏真と言ったな。一向一揆で徳川を苦しめつつ調略で乗っ取ろうとしたか。なかなかに強かな男よ。
「残念だが計画は実行に移す前に発覚した。計画に加担した重臣達は死罪。正妻築山殿、嫡男、娘、いずれも殺された」
「……妻も子供も殺したか……」
思わず息を吐いた。真に無惨、そう思った。
「已むを得まい。今川の根を徳川に残す事は出来ぬ。徳川から今川は排除された」
哀れとは思うが同情は出来ぬ。乱世なのだ、弱者である限り徳川は踏み躙られ続けよう。弱者である事は罪でしかない。例え悪であろうと強くならねばならぬ。大膳大夫の顔にも同情の色は無かった。
「この一件、織田からの報せで徳川は知った。そして織田には俺が報せた」
「なんと! 八門か?」
大膳大夫が声を上げて笑った。
「少し違うな。情報を入手したのは駿府の商人、中島金衛門という男だ」
駿府の商人? 中島金衛門?
「待て、その名前は……」
「そう、高島越中だ」
「真か?」
「真だ。今では駿府で八門に協力しながら今川、武田、北条を相手に阿漕に稼いでいる。余程に楽しいらしい、色々と情報を流してくれる」
あの越中が? 気が付けば声を上げて笑っていた。大膳大夫も声を上げて笑う。二人で一頻り笑った。
「この御家騒動で徳川の力は低下した。このままでは今川と一向一揆に潰されてしまう。徳川は織田との関係を強めるつもりだ」
「如何なる?」
「織田からお市という娘が徳川に嫁ぐ。織田殿の妹らしい」
「では織田の属国じゃな」
今川の属国から独立したのも束の間、今度は織田の属国か……。独立を守るためには徳川には何かが足りなかったのだろう。哀れなものよ。いや哀れんでいる場合ではないの。朽木とて一つ間違えば徳川同様六角の属国になっていたやもしれぬ……。
「織田にとっては当てが外れたわ。今川を防ぐ楯にするつもりが役に立たぬどころか足を引っ張るのだからな。だが放置は出来ぬ、三河が今川の手に落ちれば今川の手は知多半島に伸びよう。あそこは米は取れぬが常滑焼の生産地だ。あれを失えば織田は大打撃を受ける。織田の財源を支えるのは常滑と津島だ」
「そうじゃの」
朽木で言えば敦賀、大津、草津のようなものか。
「今川治部大輔、予想外に手強い。桶狭間で転げ落ちるかと思ったが見事に立て直した。甲相駿三国同盟では駿河が頭一つ抜け出したようだ」
「……」
「織田は美濃の国人衆を殆ど味方に付けた。美濃攻略は間近だが油断は出来ん。今川が迫っているし伊勢長島の一向一揆もある。東海は荒れるぞ、織田の上洛は当分無理だな」
「では義秋様は?」
大膳大夫が目で笑った。
「暫くは我慢してもらう。俺一人では三好と戦うのは不安だ」
「義秋様が煩く騒ぐぞ」
「已むを得ん、耐えて貰わなければならん」
大膳大夫が肩を竦めた。
永禄十一年(1568年) 四月上旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 朽木基綱
「温井兵庫助景隆、三宅備後守長盛は所領の安堵、身の安全を条件にこちらに寝返ると返事をしました」
「良いだろう。温井、三宅は畠山親子の追放に関わっていない。問題は無い。重臣として畠山親子を補佐させよう」
俺が答えると重蔵が意味有り気な笑みを浮かべて頷いた。
温井、三宅が畠山親子の追放に関わっていないのはそれ以前に畠山修理大夫義綱によって能登を追放されていたからだ。二人は畠山親子の追放後、遊佐、長によって能登に復帰した。温井、三宅と畠山親子が上手く行く事は無い。なぜならこの二人にとって畠山親子は祖父の仇なのだ。三宅備後守長盛は温井兵庫助景隆の実弟で三宅家の養子となった。二人の祖父、温井総貞は畠山親子に暗殺されている。十分な火種になってくれるだろう。それにしても温井、三宅にとって遊佐、長は能登に復帰させてくれた恩人なんだけどな、簡単に裏切られたわ。人望が無いか、もう将来は無いと見限られたか。両方かもしれない。
「他には笠松但馬守、寺岡四郎左衛門尉と接触しております。感触は悪くありませぬ。ですがやはり畠山修理大夫の報復を危惧しております。畠山修理大夫を隠居として迎える事は出来ないのかと」
「それは今の体制を認めろという事か?」
「いえ、遊佐、長の処断は受け入れております」
思わず笑ってしまった。重蔵も笑っている。
「話にならんな。遊佐、長を処断すればその分だけ自分達の勢威が強くなる。そういう事だろう」
「はっ、その通りで」
「その後は俺の力で畠山親子を抑えつつ好き勝手にやるか、随分と俺も甘く見られたものよ」
「殿は未だ御若うございますゆえ」
駄目だ、笑いが止まらん。重蔵と二人で一頻り笑った。
自室で良かったわ、暦の間だったら小姓達が俺と重蔵を胡散臭そうに見ただろう。また悪巧みをしているって。
「畠山修理大夫の当主復帰は譲れぬ。笠松但馬守、寺岡四郎左衛門尉には所領の安堵、身の安全を保障すると伝えよ。後で温井、三宅の分も合わせて証文を書く」
「はっ」
他に二、三打ち合わせをして重蔵は下がった。畠山親子は怒るだろうな。俺が勝手に戦後体制も決めているんだから。しかし文句は言えない。畠山に調略を頼んだんだが成果無しだ。皆畠山親子の報復を恐れているし畠山親子を信じていない。これじゃ調略は出来ない。能登に居る時に重臣を暗殺したり反目させ合ったりした。その所為で皆が畠山親子を忌諱している。
皆が俺の保障を欲しがっている。要するに俺にこれ以降も能登に関与して欲しい、畠山の専横を許さないで欲しいという事だ。連中にしてみれば畠山を抑えるために俺を使うつもりだろう。だがね、これで俺が能登に関与する大義名分が出来たわけだ。という事で義秋、上杉には今後は俺が能登の面倒を見る、御了承願いたいと書状を送った。畠山じゃないぞ、能登だ。
上杉は直ぐに了承してくれた。
『能登の儀、大膳大夫殿に御一任致し申し候』
上杉は関東制覇に専念したいのが本心だ。北陸は越中を領し越後の安全が保たれれば十分と考えている。義秋も最初はぐずったが畠山だけでは能登が安定しないという事を理解すると渋々了承した。
『能登の儀、万事大膳大夫の存念次第』
つまり能登は俺の勢力範囲になったわけだ。畠山は不満だろうがこれが現実だ。俺の庇護を得られるという事で納得しなければならない。ま、無理だろうがな。
「殿、新次郎にござる。宜しゅうございましょうや」
新次郎? 坂本から出て来たのか?
「構わぬぞ」
声をかけると坂本城主、宮川新次郎頼忠がのそのそと入って来た。後ろには評定衆を務める田沢又兵衛張満が居る。何だ? 譜代の重臣二人が揃ってやって来るとは。穏やかではないぞ。
「如何した、二人とも」
出来るだけ和やかに声をかけたが二人とも表情が硬い。良くない兆候だな。
「今日は殿にお願いがございまして」
「銭の無心か、新次郎。必要な銭なら喜んで出すぞ。先日も銭の重さで倉の底が抜けてな、平九郎からもっと銭を使えとせっつかれているところだ」
明から銅銭を輸入したからな、銭が腐るほど有るのだ。朽木が銭を使わんと銭が世の中に回らん。でも皆朽木に来るから銭が朽木から出て行かないんだ。北陸平定と織田の美濃制圧、これで少しは変わる筈なんだが。
「いえ、銭ではございませぬ」
新次郎が首を横に振った。
「違うのか」
拙いな、銭で片付く問題じゃないとは。厄介事と決まった。
「御方様が御懐妊されましたので殿の御身の周りを世話する女性が必要ではないかと思いましてな」
身の回り? 言葉を飾るな。要するに側室だろうが。
「要らんぞ。俺は小夜に十分満足している」
「そうは行きませぬ。殿は側室など面倒だと思っておられるのでしょうが朽木の家を繁栄させるためにも殿の御子は必要にござる。朽木家は百五十万石を越え二百万石に達しようとしているのですぞ」
「……」
又兵衛が力説した。御尤もだ、反論出来ん。それにしても何で分かるんだ? 面倒だって。
「しかしなあ、小夜が如何思うか……。これだぞ」
俺が小夜の腹が膨らんでいる事を身振りで示したが二人とも微動だにしない。
「御安心を。御方様は快く御許し下されましたぞ」
「本当か、又兵衛」
露骨に疑うと又兵衛がしっかりと頷いた。
「本当にござる。殿が側室を持たぬと御自身が悋気深いと思われるのではないかと気にしておいででしたぞ」
そういうものなのかな。普通は嫌がるんじゃないの? 何か複雑、俺愛されてるのかな?
「しかしなあ、側室だろう? 相手が嫌がるんじゃないのか?」
正室ならともかく側室だよ。正室の位置付けは家族の一員だけど側室の位置付けは使用人だ。言ってみれば奥様とメイドの関係だ。普通なら嫌がるぞ。そう思ったんだけど新次郎と又兵衛が笑い出した。
「殿は朽木大膳大夫様にございますぞ、嫌がる娘など居りますまい」
「新次郎殿の言う通りにござる。実際向こうから殿の御傍にと言ってきましたぞ」
なるほどな、そうかもしれない。笑っている二人を見ながら思った。俺って根っ子は現代の小市民なんだな。どうもこういう自分に関わる事になると地が出る。だから不思議ちゃんなのか。
「分かった、二人に任せる。良きに計らえ」
「はっ、では話を進めさせて頂きまする」
新次郎が答え二人が頭を下げ出て行った。あ、名前聞くの忘れたな。何処の娘だ? 呼び戻すか? 面倒だな、興味持ってると思われるのも嫌だ。それより小夜の所に行くか。マタニティブルーなんて御免だ、気遣ってあげないと。それに竹若丸の顔も見ておこう、もう直ぐ出陣だからな。




