陣定
禎兆九年(1589年) 四月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 荒川長道
大殿の御前を下がり朽木右兵衛尉様、組屋源四郎と共に御倉奉行の御用部屋に向かった。御用部屋では殖産奉行の宮川又兵衛殿、農方奉行の長沼新三郎殿、公事奉行の守山弥兵衛殿が待っていた。
「大殿は何と?」
座ると直ぐに弥兵衛殿が問い掛けてきた。
「新道野の峠で舟入を作り一部は陸路を使ってはどうかと提案すると即座に話にならぬと叱られました。検討の余地無しですな」
私が答えると皆が笑い出した。
「やはりそうでしたか。まあそうなると思っていましたが……」
新三郎殿が膝を叩きながら言う。
「大分楽になるのだが……」
「いや、又兵衛殿。大殿は物の流れについては妥協しませんからのう」
「確かに。兵糧方などというのは朽木家だけじゃ。最初は小荷駄のちょっと大きいものかと思ったがとんでもなかった……」
又兵衛殿、弥兵衛殿、右兵衛尉様がぼやくとまた笑い声が上がった。確かに兵糧方というのは朽木家だけだ。だがその兵糧方があったから朽木は天下を獲れた。それを疑う者は居ない。
「相国様は冬はどうにもならんと仰られました。峠は雪が積もる。そんな所で荷の積み替えを行って陸路での荷運びなど簡単に出来ると思うかと。途中まで船を使えば荷がドンドン運ばれてくる。荷が溜まる事になる。倉を建てて保管する事になるが混乱するだけだろうと」
源四郎の言葉に皆が頷いた。”まあ、そうだな”、”確かに”と又兵衛殿、弥兵衛殿が同意する。
「雪が降りますからな」
「嫌になるほど積もります」
新三郎殿と源四郎がうんざりしたように言うと皆が笑った。新三郎殿と源四郎も釣られたように笑う。
「大殿の仰るとおりです。やはり水路が要ります。陸路では雪が積もれば荷が止まりますが水路なら避けられる。そうではありませんか?」
私の問いに皆が頷いた。
「では人を入れるしか有りませんな」
新三郎殿が皆を見回した。
「そういう事になります。大殿は銭で片がつくならやるべきだと。銭で片が付かない。掘削では水路は作れぬというなら改めて考えようとの事です」
私が答えるとシンとした。
「平九郎殿、石山ですかな?」
「かもしれませぬ」
又兵衛殿と私の遣り取りに皆が顔を顰めた。石山への転居は誰も望んでいない。
「では掘るしかありませぬ」
源四郎の言葉に皆が頷いた。
「先ず水路を何処に通すかを確定しましょう。水路の幅もしっかりと決める。最低でも船が十艘ぐらいは並んで通れるようにしないと」
又兵衛殿の言葉に”十艘?”と驚きの声が上がった。確かに少し多いような気もするが……。
「いや、そのくらいは要るな。一旦水路が作られれば次から次へと船が来る。荷の重い船は遅くなるし軽い船は速くなる。船を抜く幅が要るという事だ。それに船の行き帰りを考えればそのくらいの幅が有っても良い」
右兵衛尉様が又兵衛殿を支持すると”なるほど”、”確かに”と頷く声が上がった。そうか、船が往復する事を考えれば妥当か。その分だけ大仕事になるな。
「先ずは新道野の峠を削らなければなりませぬな。水が問題なく流れる高さも確認しなければ……。まあ、それは掘りながら決めれば良いでしょう。そこが掘れなければ他を掘っても意味が有りませぬ。それに他は目途が付いております」
「組屋の言う通りだ。そういう形で始めよう。明後日の評定で話す」
右兵衛尉様の言葉に皆が頷いた。
「ところでどのくらい人を集めたら良かろうか」
「先ずは土を削る人間、削った土を運ぶ人間が要りますな。取り敢えず五百人ずつ入れましょう。状況を見て人を追加する。道具も要りますし喰わせる飯を作らせる女達も要る。どれほど銭がかかるやら。まあ銭で片が付く話しです。大殿も文句は言いますまい」
又兵衛殿と私の遣り取りに皆が笑い出した。”確かに”、”文句は言いますまい”と声が上がった。
「ところで掘り出した土は何処に? 放置しては邪魔になるが……」
新三郎殿が周りを見回しながら訊いた。
「先ずは沓掛が良かろう。あそこに舟入を作れば良い。舟入が出来れば倉庫や役所も要るだろう。簡単に洪水が起こるとは思わぬが多少土地は高くした方が良い。ああ、土を踏み固める人間も要るな」
右兵衛尉様が答えた。なるほど、土にも使い道が有るか……。
禎兆九年(1589年) 四月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
小夜が”どうぞ”と言ってお茶を出してくれた。
「ああ、有り難う」
礼を言って一口飲む。美味いと思った。小夜もお茶を飲んでいる。和むなあ。何気ない一時なのに和むんだよ。ホッとする。もう小夜と一緒になって三十年近い。という事は銀婚式を過ぎたのか。あれっていぶし銀のような美しさを出すって意味が有ったな。うーん、俺達はいぶし銀か……。うん、悪くないな。
「如何なされました?」
「ん?」
「なにやら楽しそうな」
小夜が訝しげに俺を見ている。
「ああ、連れ添ってもうすぐ三十年になると思ったのだ。お互い無事にこうして茶を飲んでいる。有り難い事だな」
小夜が”真に”と頷いた。天下を獲ったという事より乱世を生き抜いてこうして小夜と茶を楽しんでいるという事の方が凄いような気がする。俺って小市民だな。まあ小夜も小市民だから似合いの二人だけど。
「明後日、京に行く」
「まあ。また京へ行くのですか?」
小夜が問い掛けてきた。
「ああ、朝廷で陣定が行われる。その結果を確認せねばならぬからな」
「少し忙しすぎませぬか? 明日は評定ですし先月も先々月も京に行っておられました」
そんな心配そうな顔をするなよ。二月に熱を出したからな。皆俺に優しいんだ。本当は変な病気にかかっているんじゃないかって心配になるわ。
「ははははは。そう心配するな。京はそれほど遠くは無い。淡海乃海を使えば直ぐだ。それに陣定に俺が出る事は無い。結果を確認するだけだ。直ぐ戻ってくる」
敢えて軽い口調で言った。駄目だ、小夜は納得していない。”そんなことを言って、本当は大変なんでしょ”とか言いたそうな顔をしている。長く連れ添った女房殿が心配している。有り難い事だ。不仲な女房ならさっさと行けと言うだろう。
「暫く京に滞在されては如何ですか?」
「京に?」
問い返すと小夜が頷いた。
「大樹が近江に戻るまでですけど京に居た方が宜しくはありませんか? 色々と決めねばならない事が有るようですし……。京と近江を往復するのは大変でしょう。京には槇島城も有れば隠居所も出来上がりそうだと聞いています。その方が楽では有りませんか?」
困ったなあ。煩いと一喝出来れば楽なんだが小夜には言えんな。
「案ずるな、無茶はせぬ。ちょっと行って戻って来るだけだ」
「それなら良いのですけど……」
隠居所は琉球王の住居だとは言えんな。
「それにな、京には余り長居したくないのだ」
「まあ、何故でしょう?」
小夜が訝しげな表情を見せた。うん、可愛いぞ。
「来客が多いからな。却って落ち着かぬ」
小夜が済まなさそうな表情をした。
「気が付きませんでした」
「良いのだ。天下人だからな、来客が多いのは当たり前だ。この城に居ても仕事が追ってくる。それでもこの城ならそなたと茶を飲む時間が有る」
小夜が頬を染めた。”大殿は冗談ばかり”と言っている。冗談じゃ無い、本心だ。ストレスを感じさせない女房というのは有り難いものさ。
「いずれ淡海乃海と京を繋ぐ水路が出来る。そうなれば京との行き来はもっと楽になるだろう」
「そうなればと思います」
「ああ、なる」
その時は小夜も連れて京に行こう。堺にも行けるし塩津浜から敦賀にも行ける。きっと喜んでくれる。
禎兆九年(1589年) 四月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 勧修寺晴豊
「居るかな?」
声をかけて部屋に入ると妹の阿茶局が”兄上”と顔を綻ばせた。
「さあ、こちらへ」
「ああ、すまぬの」
勧められるままに阿茶の傍に座った。阿茶が女官に白湯を用意するように命じると女官が部屋から出て行った。
「白湯か」
笑いながら問うと阿茶も笑いながら”はい”と答えた。
「お茶では時間がかかりましょう」
「そうでおじゃるの」
二人で声を合わせて笑った。この妹と話しをするのは楽しい。自然と笑い声が出る。
「良い季節でおじゃるの」
「はい、すっかり暖かくなりました。月が変われば五月でございます。徐々に暑いと思う日が増えましょう」
「そうでおじゃるの。三月の頃は時折寒い風が吹いたがそれも無くなった」
「はい」
何気ない季節の話題で時を潰す。そうこうしている間に女官が白湯を持ってきた。私と妹の前に茶碗を置く。妹が暫く私と二人だけにするようにと人払いを命じた。
妹が話し掛けてきたのは互いに白湯を一口飲んだ後だった。
「無事に陣定は終わったのでございますか?」
「ああ、終わった」
「例の兄弟は?」
妹が不安そうな顔をしている。例の兄弟か……。
「庭田権中納言、正親町権中納言の事か?」
問い返すと阿茶が”はい”と頷いた。
「皆と同じだ。琉球王を受け入れるべきだと言った」
私が答えると妹が息を吐いた。
「本当に? 大分鼻息が荒いと聞きましたが?」
「うむ、前の陣定で相国宛ての琉球からの親書など受け取るべきでは無い。突き返して帝に出させるべきだ。出さぬと言うなら琉球を攻めるべきだと言っていたからな。琉球の違約にそれ見た事かと言っていたな。琉球の違約をもっとも喜んだのはあの二人でおじゃろう」
妹が頷いた。
「違約を知った後ですが琉球を攻めるべきだ、イスパニアを攻めるべきだと随分と強い口調で言っていると聞きました」
妹が眉を顰めた。妹は武張った男が苦手なのだろう。
「あの二人は琉球攻めの陣定がしたかったのだ」
「琉球攻めの?」
妹が目を瞠った。
「以前にチラっと聞いた事が有る。琉球攻めの陣定が待ち遠しいと言うのをな」
「……」
「分からぬか? あの二人は朝廷が陣定で琉球征伐を決めそれに従って相国が兵を出す。そういう形にしたかったのでおじゃろう。だから前の陣定でも親書を突き返せと言ったのだと麿は思う」
妹の顔が強張った。
「それは朝廷が政を執るという事でございますよ、兄上」
妹の声が小さい。
「そうだ、朝廷が政を執る事になる」
私も小声で答えた。
「大政は相国に委任しております」
「それを覆す事になるな」
朝廷に力は無い。あの二人はそれが我慢出来なくなったのだろう。相国は朝廷を尊崇している。ならば上手く使えるのでは無いかと思ったのだ。武家を使う事で朝廷は無力では無い、自分は無力では無いと思いたかったのかもしれぬ。その事を言うと妹が”馬鹿な”と呟いた。
「あの二人だけではおじゃらぬぞ」
「……」
「公家には力が無い。その事を不満に思う者も居る。自らの思うように天下を動かしたいと思う者がな」
「兄上には心当たりが有るのですね」
妹がジッと私を見た。頷く事で答えた。
「三位宰相じゃ」
妹が”まさか、弟が”と呟いた。
「嘘では無い。あれは陣定に不満を持っていた。茶番だと」
「茶番……」
「自分で決める事が出来ぬ。結果を押し付けられているだけだとな」
妹が溜息を吐いた。
「足利は弱かった。だから公家達も足利を使って天下を自在に動かそうとは思わなかった。いや、それ以前に公家達は日々の暮らしに追われていた。だが天下は落ち着き我等も日々の暮らしに追われる事は無くなった。これまで考えなかった事を考えるようになったのかもしれぬ」
妹の顔が強張っている。
「ですが、それは相国を怒らせる事になりますよ」
「相国は公家には緩いからの、あの二人や弟を付け上がらせたのかもしれぬ」
「相国がそれを許しましょうか?」
妹が怯えた表情を見せた。
「許すまい。あの者達がやろうとしているのは朝廷を足利にする事と一緒だ。足利は相国を抑え付け自分に従わせようとした。だが相国は足利を撥ね除け無視し自滅させた。朝廷もそうなる」
妹がますます怯えた表情を見せた。
「案ずるな。相国は朝廷に諮る事無く琉球を攻めた。勿論帝や院、太閤殿下、関白殿下には話した事でおじゃろう。了承も得たに違いない。だが公には朝廷は何の関係も無い。琉球攻めは政で朝廷には関わりは無いと行動で示したのだ。あの二人もそれが分かったのでおじゃろう。此度の陣定、妙に元気が無かったわ」
妹が安堵したように息を吐いた。
「弟は?」
「あれはあの二人に比べれば浅い。ただ不満が有る。それだけでおじゃろう。麿が窘めたらシュンとしておった」
「それなら大丈夫でございますね」
妹が笑顔を見せた。
「弟はな。だがあの二人は分からぬ。諦めれば良いがその確証は何処にもおじゃらぬ。油断は出来ぬ」
妹が頷いた。
「帝にお伝えしますか?」
「そうしてくれ。公の場で言える事では無い。折を見てそなたから帝にそっと耳打ちして欲しい」
「分かりました。相国には如何します?」
妹が硬い声で訊ねてきた。
「麿から左府に話す」
「左府に?」
妹が訝しげな声を出した。左府と相国は必ずしも円満とは言えない。その事を思ったのだろう。
「左府は陣定の統括者だ。報せておく必要がおじゃろう」
「なるほど、左様でございますね」
妹が頷いた。
「その後で麿と左府で関白殿下、太閤殿下に話した方が良いだろう。相国にはあの方々から話して貰う。皆、勧修寺は頼りになると思ってくれる筈だ」
「まあ」
妹がようやく明るい声を出した。正親町と庭田は当分大納言には昇進出来まい。それが何故かを察する事が出来ればあの二人も馬鹿な事を考えなくなる。
「いずれは左府も関白になる。この辺りで恩を売らねばの」
「はい」
二人で声を合わせて笑った。左府には宮中でこれと言った味方が居ない。弟の内府だけだ。心細い限りよ。ここらで頼りになる味方が欲しかろう。左府の父親には嫌な目に遭ったが前関白には感謝よ。付け込む隙が出来た。白湯を一口飲んだ。美味いと思った。




