新緑のなかで
禎兆九年(1589年) 四月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「そろそろ桜も終わりだな。新緑が見事だ」
「はい、陽を浴びて眩しいほどの緑で」
周囲の風景が桜色から緑色に変わっても心地良さは変わらない。風が気持ち良い。寒くも無く暑くも無く四月、五月というのは本当に良い季節だ。小兵衛と二人で庭を散策している。戦国の虐殺王とその影を司る男が春の陽を浴びてのほほんと散歩しているのだ。平和だなあ。
しかしだ、何時までものほほんとはしていられない。
「それで、俺に報せたい事とは?」
小兵衛に問い掛けた。庭に出たのは散歩のためじゃない。小兵衛と二人だけで話すためだ。
「琉球の使者が朝鮮に」
足を止めた。小兵衛も足を止めた。一気に緑が色褪せたな。
「……日本が攻めてきたと?」
小兵衛が”はい”と頷いた。歩き出す。小兵衛も歩き出した。
「朝鮮に使者が来たという事は明にも使者が行っただろうな」
「多分福建省に行っておりましょう。いずれ明の皇帝にも報せが入ると思います」
「遅いな」
「は?」
小兵衛が訝しげな声を出した。咎められたと思ったのか。笑ってしまった。
「琉球の動きだ。本来ならもっと早くて良いのだが……」
小兵衛も笑った。安心したらしい。
「三月に琉球から使者が来たと聞いておりますが?」
「三人来たのだが謹慎中だ。帰国して日本が戦の準備をしている。琉球を滅ぼすつもりだと周囲に訴えたのだが琉球王の周囲に居る重臣達はそれを否定した。余りに煩く騒ぐのでな、殺され掛かったらしい。驚いた王が謹慎させた」
「……」
「その三人は琉球王の弟が派遣したものだ。弟も謹慎している。勝手な事をして皆を混乱させたというのが理由だ」
小兵衛が顔に薄い笑みを浮かべた。
「では戦支度などは」
「ああ、何もしていなかったようだ」
「それではまともな戦など出来ませぬな。御味方が優勢だと聞いておりましたが……」
小兵衛が軽蔑したように言った。そう、圧倒的に有利だよ。明の皇帝が知る頃には琉球は滅んでいるさ。
「四月の初めに奄美大島を占領した。抵抗する者は居なかったようだ。その先の徳之島、沖永良部島も味方が押し寄せると僅かな抵抗で降伏したと報告が有った。今頃は琉球の本島に上陸して南進している筈だ。何処まで抵抗出来るか……、見物だな」
琉球は南北に細長い島だ。首都の首里城は南部に有るが島そのものが大きな島では無い。漸減作戦は無理だ。それにこちらの作戦は北部に部隊を上陸させた後、水軍は南部に向かい海上から攻撃する事になっている。琉球側は北部に兵力を集中したくても出来ないだろう。少数では簡単に撃破されるだけだ。戦が長引く事は無い。
「直に琉球が日本に滅ぼされたと明に報せが行く。明の動きを見落とすな」
「はい」
「朝鮮に動きは有るか?」
小兵衛が首を横に振った。そして笑った。
「朝鮮は明の使者を持て成すので忙しいようです」
俺も笑った。青い空に笑い声が消えていく。気分が良いわ。
「使者に日本が琉球に攻め込んだと言ったのだろう?」
いかんなあ、小兵衛の顔は崩れっぱなしだ。
「言ったようですが使者は関心を持たなかったようで……」
「関心が有るのは銀だけか」
「はい」
俺と小兵衛の二人で笑った。明の使者が朝鮮に到着した。要求したのは銀だ。しかしなあ、本当に銀を要求するとは……。明の銀不足は相当に深刻だな。史実では日本の銀、イスパニアの銀が明に流れ込んでいるだがこの世界ではイスパニアの銀だけが明に流れ込んでいる。その影響が出ている。
「朝鮮は当初、日本が琉球に攻め込んだと聞いて喜んだそうです。使者の関心を銀から日本に逸らせると思ったのでしょう」
「残念だったな」
明の使者は朝廷の重臣じゃない、皇帝の召使いの宦官だ。琉球、日本なんて関心が無いだろう。召使いにとって大事なのは主人の望みを叶える事だ。そして明の万暦帝は遊ぶための銀を朝鮮から持ってこいと彼らに命じている。
「使者が男ならば女を使って懐柔するのでしょうが……」
「宦官ではその手は使えぬな」
また二人で笑った。他国へ出す使者に宦官を使う。良い手かもしれない。何処の国も使者を懐柔しようとする筈だ。宦官なら女の色香に迷う事は無い。尤も宦官は色欲が無いから食欲、権力欲が強い傾向が有ると聞いた事も有る。
「朝鮮王は僅かな銀を差し出したそうですが使者は足りぬと立腹しているようです」
「それで、朝鮮王は何と?」
「毎日宴を開いて使者を懐柔しようとしております。しかし使者は銀を出せと強硬なようで……」
女が駄目なら酒で懐柔しようというのだろう。しかしなあ、使者は銀を求めた。つまり皇帝の歓心を買おうとしている。
使者は食欲よりも権力欲が強いらしい。或いは皇帝の銀を求める要求が相当に強いのか……。失敗は許されない、失敗すれば厳罰が下ると考えているなら使者を動かしているのは権力欲よりも恐怖だな。だとすると朝鮮に対する要求は弱まる事は無いだろう。懐柔など無意味だ。
「朝鮮王が如何対応するか、見物だな」
これ以上は銀が無いと突っぱねるのか。それとも出すのか……。
銀は有るのだ。だが一度出せば二度、三度と要求されるだろう。朝鮮は明にこの先ずっと銀を搾り取られる事になる。万暦帝が死んでもそれは変わらない筈だ。新しい皇帝になって止めたら皇帝は面目を潰されたと怒るだろう。余計に銀を要求されかねない。朝鮮側もそれは分かっているだろう。朝鮮側は最初から銀は無いと断りたい筈だ。だが断れるのか?
銀が無いと言ってそれが通用するのか? とても通用するとは思えない。無いと言ったらそれこそ勝手に探し始めるだろう。銀が見つかればもう言い訳は出来なくなる。それにだ、日本が琉球に攻め込んだ事も考えなければならない。琉球の次に攻められるのが朝鮮だと危惧すれば明を怒らせる事は出来ない。むしろ媚びを売って機嫌を取らなければならないのが朝鮮の立場だ。そう考えると銀が無いとは言い辛い。
「朝鮮の軍備はどうだ?」
小兵衛が苦笑した。
「とても……」
「駄目か?」
小兵衛が笑いながら頷いた。
「兵の質が悪く頼りになりませぬ」
だろうな、文禄・慶長の役でも頼りにならなかった。儒教国家はどうしても文を重んじて武を軽視しがちだ。それが影響しているのだろう。おまけに上の方は明に服属していれば安心だと思っている。まあこれまでは日本は内戦状態だったから問題がなかったのは確かだ。厄介なのは倭寇ぐらいだっただろう。
しかしなあ、これからは違う。日本の内戦が終わりつつ有る。それを思えば軍備に力をいれるべきなんだが……。難しいな、日本は倭国時代には半島に出兵したが日本になってからは対外戦争をしていない。半島から見れば極めて大人しい国だろう。甘く見ても仕方が無い。
「木綿の値が暴落しております。そのせいで報酬として綿布を貰っても満足に暮らせぬようで……。大分不満が溜まっております」
「……」
「喰えなくなった兵達、いやこれは兵だけの問題ではないのですが盗みや人攫いの犯罪に手を染める者も少なく有りませぬ。民の中には娘を売る者も居るようです」
木綿の値が暴落か。物の値が高くなって買えないという事だ。インフレだな。
「日本から密輸される木綿のせいか?」
「はい」
犯罪に走るという事は相当なインフレらしいな。史実よりもずっと酷い。日本の綿布が朝鮮を内から腐らせている。偽金作って経済を滅茶苦茶にしているのと同じだ。経済テロ、金融テロだな。この時代にこんな事やった奴って俺の他に居るのかな? 間違いなく後世では俺って外道と評価されるだろう。分かっていて放置しているんだから。自慢して良いよな?
「逃げ出して賊になる者もおります」
山賊か、海賊か。
「小兵衛、海に出たら倭寇か?」
「そういう事になるかと」
小兵衛が笑っている。俺も笑った。笑い声が暗いよ。自分の外道振りが酷くて嫌になるわ。止めようとは思わないけどな。
この状況を改善しようとするなら先ず考えられるのは日本からの綿布を排除する事だが難しいだろうな。インフレになればなるほど銭である綿布を欲しがる者は増える筈だ。政府が禁止しても効果は無いだろう。となればだ、綿布を銭として使うのを止めるという発想が出る筈だ。代わりに使うのは何だろう? 米は変動が大き過ぎるだろう。朝鮮が綿布を銭にしたのはそれが理由の筈だ。米は貨幣としては使えない。やはり銅銭、銀という事になる筈だ。しかし現状では銀は使えない。銅銭が限界だろうな。
「朝鮮王は対策を打ったのか?」
小兵衛が首を横に振った。無視か。明の使者に如何対応するかで精一杯なのだろう。国民が苦しんでいるなんて興味無いのだ。良いねえ。無責任な朝鮮王と外道な俺。朝鮮の国内は益々荒れる。朝鮮王に対して、明に対して国民の反感が増す。内憂外患ってのがぴったりだな。内はインフレと治安、外は明と俺。どれも面倒だ。頑張れよ。
朝鮮に使者を送ろう。琉球を攻め滅ぼすと伝える。理由は琉球が日本に服属するという約を破ったから。朝鮮は明に伝えるだろう。明は如何する? 動けるかな? 何も動かなければ朝鮮は失望するだろうな。
禎兆九年(1589年) 四月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
目の前に三人の男が居る。御倉奉行の荒川平九郎、商人の組屋源四郎、そして兵糧方の朽木右兵衛尉。この三人は三月の末になると敦賀~塩津浜の間で水路を引けるかの実地調査をしてきた。勿論、何人もの部下や黒鍬者を使ってだ。今日は俺に中間報告なんだが三人とも渋い表情をしている。平九郎が紙を広げた。大まかな地図が有る。敦賀、道口、疋田、深坂峠、新道野、沓掛、塩津浜が記載されている。それに川も記載されている。
「敦賀に運ばれた荷は元々は深坂峠を越え塩津浜へと運ばれておりました」
平九郎がずいっと指を敦賀から深坂峠、塩津浜へと動かした。むかし、敦賀攻めに使った道だ。結構険しかったな。
「しかしこの深坂峠が中々の難所にて十年程前の事でございますが東に新道野の峠から沓掛、塩津浜へと通じる道が作られ現状ではこの道が主流になっております」
平九郎が平行して走っている街道を指し示す。そんな道を作ったのか。なるほど。深坂峠よりも新道野の峠の方が楽なのだろう。
「結構楽なのだろうな」
「それはもう……。兵糧方の方々がこの道を開いて下されましたので随分と楽になりました」
源四郎の嬉しそうな言葉に右兵衛尉の叔父が顔を綻ばせた。街道の整備を命じたがこんな事をやってたんだ。ちょっと吃驚だな。それにしても人間って欲が深いよ。楽になっても更に楽にと考えるんだから。
「この道は沓掛から大浦にも繋がっております。こちらは大浦川が有りますので敦賀から沓掛までの水路が確保されれば問題は有りませぬ」
今度は源四郎が沓掛から大浦へと指を走らせた。なるほど、沓掛から塩津浜よりもこっちはかなり楽だな。
「となると水路は新道野の道に沿って作った方が良いのだな?」
俺の言葉に三人が頷いた。
「敦賀から疋田までは疋田川を使えば宜しいかと思います。勿論、川はもっと幅を広げる必要は有りましょう。しかし難しいとは思いませぬ」
右兵衛尉の叔父の言葉に平九郎、源四郎が頷いた。まあそうだな。川を使うのならそれほど苦労はしないだろう。
「となると敦賀から塩津浜は全体の三分の一は目途がついているという事か」
俺の言葉に三人が頷いた。
「問題は残りの三分の二だな。水路は引けるのか?」
ここ最近は敦賀に行ってないから全然分からんのだが……。うん、厳しいらしいな。三人が顔を顰めている。
「沓掛から塩津浜は引けましょう。そこは問題無いと考えております」
源四郎が答えた。だろうな、俺もその答えは予想していた。
「問題は新道野の峠か。深坂程では無くても相当に険しいのではないか?」
「確かに厳しゅうございます。疋田から新道野、沓掛。ここを如何するか……」
右兵衛尉の叔父が顔を顰めた。平九郎が溜息を吐く。お前なあ、俺も溜息を吐きたくなるだろう。
「そうだな、そこを何とかすれば水路は出来たも同然だ」
いざとなれば荷は沓掛から大浦に流しても良いのだ。沓掛から塩津浜は後回しにしても良い。一本水路が出来れば弾みが付く。
「新道野の峠でございますが舟入を作り一部は陸路を使ってはどうかという案も出ました」
「話にならんぞ、平九郎」
平九郎が顔を顰めた。後の二人も顔を顰めている。舟入というのは船が停泊するために作られた入り江だ。荷の積み卸しと船の方向転換に使われる。
「確かに以前に比べれば楽だろう。だがな、冬はどうする。峠は雪が積もるぞ。そんな所で荷の積み替えを行って陸路で荷運びなど簡単に出来ると思うか? 途中まで船を使えば荷がドンドン運ばれてくるのだ。荷が溜まる事になる。倉を建てて保管する事になるが混乱するだけだろう」
平九郎が”その通りで”と頷いた。分かってるんなら出すな。いや、わざわざ出すという事は調査の段階で結構支持する声が強かったのかもしれん。
「舟入を作るのは認める。沓掛に作れば良い。塩津浜と大浦で水路が分かれる所だ。そこに作れば便利だろう」
三人が頷いた。こいつらも作るのなら沓掛と考えていたらしいな。
「だが陸路で荷運びは駄目だ」
「となると後は掘削で水路を通すしかありません。銭が掛かりますぞ」
平九郎がニタリと笑った。
「最初【はな】から分かっていた事だ。人を入れて掘るしか無い。場所によっては火薬を使って吹き飛ばせばよい」
「はっ」
「銭で片が付くならやるべきだ。そう決めた筈だぞ」
三人が”はっ”と畏まった。嬉しそうにしている。こいつら、まさか俺の覚悟を再確認したんじゃ無いだろうな。
「だが銭で片が付かない。掘削では水路は作れぬというなら改めて考えよう。そしてやらぬ方が良いと言うなら中止だ。分かったな」
三人がまた畏まった。その時は石山へ引っ越しだな。




