不信
禎兆九年(1589年) 三月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
謝啓紹を高嶺顕、巴択信が不満げに睨んでいる。勝手に交渉しているとでも思っているのだろう。安心しろ、お前達とも話をしてやる。
「謝啓紹、その方は通訳としてここに居るのか?」
謝啓紹が顔を綻ばせた。
「通訳も致します」
なるほど、通訳もか。ただの通訳じゃないというわけだな。
「分かった。通訳もして貰おう。調所、この三人が俺を騙そうとしたら教えろ」
調所が”はっ”と畏まり謝啓紹の顔が微かに強張った。
「その方達は琉球王の使者では無いと聞いている。おかしな話だな。ここには何の用で来たのだ?」
謝啓紹が二人に話した。二人が顔に緊張を滲ませた。高嶺顕が話し始めた。
「日本が琉球を攻めるという風聞が流れていますが真かと訊ねております」
謝啓紹が訳すと調所が頷いた。
「ほう、そんな風聞が有るとは知らなかったな」
朽木の家臣達から笑い声が上がった。あのなあ、そこで笑ったら俺が嘘を吐いているってこいつらが思うだろう。案の定だ。謝啓紹が訳すと高嶺顕、巴択信の二人が顔を強張らせた。
「随分と心配しているようだが琉球には俺に攻められる理由でも有るのか?」
謝啓紹が訳すと二人の顔が益々強張った。揶揄されたと思ったのだろう。今度は若い巴択信が話し始めた。結構早口だ。焦っているのだと思った。
「琉球は人質を出すという約を破った。その事をお怒りだという事は分かっている。しかし琉球では王が崩御され人質に出される筈の王子が新たな王として即位した。琉球はそのせいで日本に十分な対応が出来なかったのだと申しております」
「琉球王が死んだ? 初耳だな。何時死んだのだ」
崩御という言葉を使わず敢えて死んだと言った。敬意なんぞ払わん。謝啓紹の顔が僅かに曇った。分かったらしいな。
謝啓紹、高嶺顕、巴択信が話し合っている。謝啓紹の言葉に二人が顔を顰めた。巴択信が話し出すと謝啓紹が首を横に振った。高嶺顕は息を吐いた。巴択信がまた何かを言った。「その者達は嘘を吐こうとしております」
新左衛門の言葉に朽木の重臣達の視線が厳しくなった。謝啓紹が何かを言うと高嶺顕、巴択信の顔が強張った。怯えるように俺を見ている。
「琉球王がずっと病で心細く思って人質を出さなかった事にしようと言っております」
「それは嘘です、父上。私が琉球から日本に戻る時、琉球王は元気でした」
四郎右衛門が三人を睨み何かを言った。琉球語だ。嘘吐きとでも言ったのだろう。或いは恥知らずか。三人が気まずそうにしている。
「新左衛門。俺の言葉を訳せ」
新左衛門が”はっ”と畏まった。
「謝啓紹、御苦労だった。もう通訳はしなくて良い。前琉球王は俺との約を破った。その事の詫びは無い。新たな琉球王も俺を無視だ。そしてその方らも俺を騙そうとしている。俺は琉球の何も信じられない」
新左衛門が訳すと高嶺顕が喋り出した。
「騙すつもりは無かった。ただ戦を避けたかっただけだと申しております」
また高嶺顕が喋り出した。
「明との交渉には琉球の力が必要な筈。琉球は日本に協力する。だから戦は止めて欲しいそうです」
結局そこなんだな。日本は明に相手にされていないという認識が琉球を強気にさせている。最初に明との交渉の仲介役を頼むなんて言わなければ良かったのかもしれない。いや、遅かれ早かれ自分達が必要とされているとなれば琉球は日本を侮っただろう。結果は同じだ。
「一度裏切った者が二度裏切らないという保証は無い。そして信じられない者を信じる事ほど愚かな事は無い。俺はこの乱世でそれを知った。俺がこの乱世を生き延びたのはそれを守ったからだ。俺には琉球が日本のために誠実に明と交渉するとは思えぬ。俺は琉球を信じる事を諦めた。琉球の協力は必要無い」
新左衛門が訳すと三人の顔に絶望が広がった。朽木の重臣達は冷めた表情で三人を見ている。馬鹿馬鹿しいと思っているのかもしれない。
「俺の問いに答えろ。その方らをここに寄越したのは誰だ? その方らは仲間では無い。信頼関係が有るようには見えぬ。此処に来たのは誰かの依頼の筈だ。琉球王ではあるまい。それは誰だ?」
三人が顔を見合わせている。高嶺顕が話すと残りの二人が力無く頷いた。そして高嶺顕が俺を見て話し出した。
「尚宏王子、琉球王の弟君だそうです」
新左衛門の言葉に朽木の重臣達から嘆声が幾つか聞こえた。
「尚宏王子は十二歳。戦を止めるためなら自分が人質になっても良いと考えておられます」
嘆声が更に大きくなった。
「今一度、ご検討願えませぬか。尚宏様は人質になると申されております。そうであれば琉球も日本を、貴方様を侮る事は有りますまい」
謝啓紹が日本語で言った。そして直ぐ二人に琉球語で話し掛けた。二人が硬い表情で頷いた。
「その方は尚宏王子と親しいようだな」
「はい、昔の事ですが御側に仕えた事がございます」
昔と言っても数年前だろう。医者と患者、それなりの繋がりが生まれたのだろうな。患者が医者を信頼するのは良く有る事だ。
「俺の事を尚宏王子に話したか?」
「はい」
日本には根切り、焼き討ちが大好きなとんでもない男が居ると話したのだろう。尚宏王子はそれを思い出した。そして悲惨な事になると判断したのだ。そして謝啓紹を呼び寄せ高嶺顕、巴択信と共に日本に行って戦を止めろと言ったのだろう。保証を求められれば自分が人質になると……。或いはこの男がそれを進言したのかもしれない。そのくらいの覚悟が無ければ戦は止められないと……。そして王子はそれを受け入れた……。だがなあ、順番が違う。俺を説得する前に琉球王を説得するべきだろう。
「新左衛門、俺の言葉を伝えよ」
「はっ」
「尚宏王子に伝えて欲しい。残念だと」
新左衛門が訳すと三人の顔が歪んだ。
「尚宏王子が琉球王であればこの事態は防げたかもしれない。だが尚宏王子は琉球王では無い。そして俺は琉球王を信じられぬ。琉球を滅ぼす。俺の考えは変わらぬ」
朽木の男達が頷いている。
「安心して欲しい。琉球王は殺さぬ。惨く扱う事も無い。それについては保証する。王家の人間も同様だ。心配は要らぬ。そして琉球の民も惨く扱う事は無い」
新左衛門が訳すのを三人は黙って聞いている。”平四郎”と声をかけると平四郎が”はっ”と畏まった。
「この男が琉球を統治する事になる」
三人が平四郎を見た。平四郎が”ふん”と鼻を鳴らして俺を見た。行きたくないとか言いそうだな。
「いずれお会い出来る事を楽しみにしていると伝えてくれ。以上だ。御苦労だったな。気を付けて琉球に帰ると良い」
新左衛門が訳し終えると三人が困惑したような表情を見せた。新左衛門が立ち上がって三人に声をかけた。三人が一礼して立ち上がった。そして新左衛門と共に部屋を出て行く。一つ息を吐いた。
多分、あの三人は無力感に打ち拉がれているのかもしれない。俺も余り後味は良くない。会わない方が良かったかな? いや、そうではない。会って良かったのだ。王の弟が危惧している。しかし密かに使者を出すぐらいしか打つ手が無い。つまり琉球国内では圧倒的に日本を侮る勢力が強いのだ。それに琉球王は頼りないが弟の方はそれなりの人物らしい。弟の方も日本に来させた方が良いな。琉球に置くのは危険だ。自分で騒ぎを起こすとは思えんが担がれる可能性は有る。
「丹波守」
声をかけると百地丹波守が”はっ”と畏まった。
「謝啓紹の事を調べてくれるか。二十年程前に堺に居たと言っていた。琉球王家に食い込むだけの腕が有るのだ。医師としてはそれなりのものだろう。知っている人間が居る筈だ」
「分かりました。直ちに調べまする」
自信ありげに答えてくれた。こういうのは嬉しい。
「父上、琉球はあの三人の話を聞いて急いで防備を固めるのでは有りませぬか?」
四郎右衛門が不安そうに訊ねてきた。明後日には出陣だ。九州の薩摩に軍勢を集結させ琉球へ攻め込む。攻め辛くなると思っているのかもしれない。
「それなら良いがな。此処に来た甲斐が有る」
四郎右衛門が訝しげな表情をした。他にも何人か訝しんでいる者が居るな。
「あの三人が琉球に戻って日本が攻めてくると騒げば十中八、いや九まで殺されるだろうな。余程に運が良くなければ生き残れまい」
おいおい、そんな固まるなよ。
「琉球の者達は自分達の方が立場が上なのだと思いたいのだ。日本は明との交渉を望んでいる。そのためには琉球が必要だ。自分達の方が立場が上なのだとな。そんなところに日本が攻めてくる、琉球を滅ぼすつもりだ等と言えば……」
「しかし彼らの後ろには琉球王の弟が居ます」
「だから殺し易いのだ。弟王子を惑わす奸賊としてな。あの三人を殺せば弟王子も口を噤むだろうよ」
俺が笑うと四郎右衛門が”そんな”と言って顔を強張らせた。
「日本に行って俺に会ったと言うのも危ない。何か俺と取引したのではないか、琉球の秘密を漏らす事で利を得ようとしたのでは無いかと疑うだろう。裏切り者として殺される事になる」
「……」
「小十郎、小十郎なら分かるだろう?」
声をかけると小十郎が”はっ”と畏まった。
「伊達家も同じ思いをしました」
苦い口調だ。皆が小十郎を見た。
「そうだな。伊達家は奥州攻めで家中が二つに割れた。奥州連合に加わる者と朽木に付く者だ。前者は伊達左京大夫が頭で、後者は伊達藤次郎が頭だった。優勢なのは奥州連合に加わろうとした者達だ。左京大夫は藤次郎を朽木へと落とした。どちらかが生き残れば伊達家は滅びずに済む。左京大夫にはそういう計算が有っただろう。だがそれ以上に伊達家に留まれば藤次郎の命が危ういと危惧したのだ」
二つの勢力が拮抗していれば家が割れる。嬉しくない事態だ。だが圧倒的に差があれば説得するよりも排除してしまえとなる可能性も少なからず有るのだ。今は民主主義の時代じゃ無い。乱世ってのは多種多様生が尊重される時代じゃないんだ……。意見を言うのも命がけだよ。
ふむ、連中の情報をこっちから流して琉球を内から混乱させるか。悪くないな。
禎兆九年(1589年) 三月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 謝啓紹
城門から出て城を振り返る。琉球の城とは違うと思った。高嶺顕、巴択信の二人も振り返って城を見た。
「厳しいお方だ」
高嶺顕がボソッと言った。
「直ぐに会ってくれたから幸先が良いと思ったのだが……」
巴択信の声にも力が無い。
「済まぬな、謝殿。謝殿を疑うつもりは無かったのだ。だが焦ってしまった。謝殿があのお方と何を話しているのか、謝殿が教えてくれるのを待てなかった」
高嶺顕が謝罪すると巴択信も”済まぬ”と謝った。
「そのせいで尚宏様の使いだと見抜かれてしまった。反省している」
鋭いお方だった。こちらの事を油断なく見ていた。琉球の違約に対する怒りなど何処にも無かった。多分、私達と会う事で琉球の状況を知ろうとしていたのだろう。勝つために貪欲に情報を得ようとしている。その事を言うと二人が頷いた。
「二十年前、あのお方は今よりずっと小さい存在でしたがあのお方を侮る者は居ませんでした。皆があのお方を畏れていたと思います。その訳が少しだけ分かったような気がします」
皆が争っていた。彼方此方で戦っていた。そんな中でも飛び抜けて戦が上手く容赦が無いのがあのお方だった。あの頃は朽木大膳大夫と名乗っていたな。もっと大きくなると思ったがまさか日本を統一するとは……。厄介な事になった。前を向いて歩き出す。二人も歩き出した。
「これからどうなる?」
高嶺顕が問い掛けてきた。分かっているだろうに……。
「このままなら琉球は滅ぶでしょう」
「しかし、この国は明との繋がりを必要としている筈だ。そのためには琉球か朝鮮の協力が要る。この国は朝鮮との関係は悪い。頼れるのは琉球だけだ。そうだろう?」
巴択信が幾分興奮気味にまくし立てた。琉球が必要、そう思いたいのだろう。
「あのお方は琉球は必要ないと言いました。落ち着いていましたね。あのお方の家臣達も落ち着いていました。琉球が約を破ってから半年ほど経っています。琉球をどう扱うか、十分に検討したのでしょう。そして出した結論が琉球を滅ぼすだった。新しい琉球の統治者も決めています。尚宏様を人質に出すという提案にもあのお方は関心を示しませんでした」
「尚宏様には関心を示したではないか」
「ええ、関心を示したのは尚宏様にです。人質にでは有りません」
私の言葉に巴択信が顔を歪めた。
「あのお方は琉球王を殺さないと言いました。惨く扱う事も無いと。何らかの形で琉球王を利用するつもりでしょう。ですが琉球王を信用出来ないとも見ています。尚宏様に関心を持つのはその辺りが関係しているのかもしれません」
尚宏様に朽木への協力を嫌がる琉球王を説得させる。そんな事を考えているのかもしれない。二人が頷いた。
「堺へ行きましょう」
二人が”堺”と声を上げた。
「堺には何人か知り合いの商人がいます。二十年前の事ですが未だ生きている人も居る筈です。その方に京の朝廷の有力者を紹介して貰いましょう」
「朝廷の?」
高嶺顕が問い掛けてきた。
「ええ、朝廷です。あのお方は朝廷を重視していると聞きました。そうですね?」
問い掛けると二人が頷いた。
「ああ、重視していた」
「高殿の言う通りだ。驚いた覚えがある」
「朝廷にあのお方を抑えて貰うのです。勿論、琉球がこれまでの無礼を詫び改めて日本に従属するのが前提になります。違約の非礼を詫びて銭を払う事も必要になるでしょうし人質も出さなければ……。領土の割譲も要求されるかもしれません」
高嶺顕が”そこまで”と掠れた声を出した。巴択信は絶句している。
「屈辱だと思います。ですが朝廷を動かすぐらいしか私達には手が有りません。朝廷も中途半端な条件では動かないでしょう。そうでは有りませんか?」
二人が渋々頷いた。
「上手くいくかどうかは分かりません。朝廷の有力者を紹介して貰えない可能性も有りますし紹介して貰っても有力者に断られるかもしれない。しかし戦になれば琉球は勝てません。滅ぶ事になります。諦める事は出来ません」
「そうだな」
「謝殿の言う通りだ」
二人の声に少しだけ力が戻ったと思った。
「急ぎましょう。余り余裕はありません。条件を詰めそれを琉球に持ち帰り琉球王を説得しなければならないんです」
あのお方が動く前に朝廷をこちらの味方に付けなければ……。
「確かにそうだが琉球王がその条件を受け入れるかどうか……」
「尚宏様のお力に頼るしか無い。琉球王を説得して貰わなければ」
二人の声が苦渋に満ちている。琉球王の周りには明を重視する重臣達が居る。琉球王はそれらに配慮しなければならない。前途は多難だ。




