休息
禎兆九年(1589年) 二月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「如何なされました? 人払いをして部屋に籠もっていると聞いたのですが」
小夜が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「うむ、妙に身体が怠いのだ。横になっている」
朝起きた時には問題なかったんだけどな。
「そう言えば朝餉も余り進みませんでしたね」
「そうだな」
朝食は何時も小夜と食べる。今日は赤出汁の味噌汁、煮物、鰺の干物、漬物、酢の物だった。飯は麦が三、米が七のミックスご飯だ。天下の覇者の食事にしては質素だな。でも良いんだ。俺も小夜も小領主の家に生まれたから不満には思わない。
「それで人払いをしたのですか?」
「そうだ」
「困ったお方。言って下されば……」
小夜が俺の額に手を当てた。もう一方の手を自分の額に当てている。
「熱がございますね」
「そうか。昨日庭で散策した。少し寒かったからな。風邪でも引いたかな?」
小夜が首を横に振った。
「お疲れなのです。奥州遠征から帰ってから新年の挨拶も有りましたし京に行ったり評定も有りました」
そうかなあ。何時もの事だぞ。
「年だな。四十を超えて身体が衰えたのかもしれぬ」
小夜が睨んだ。
「またそのような事を。今薬師を呼びます。それと床を敷きましょう。ゆっくり休んだ方が良いと思います。こんな所でごろ寝をしていては身体を悪くするだけです。治るものも治りませぬ」
小夜が立ち上がって”誰か”と声を上げた。
直ぐに近習と女中達が現れた。早過ぎないか? 訝しんでいると小夜が”ほほほほ”と笑った。
「皆、心配していたのです。大殿が人払いをして部屋に籠もっていると」
「そうか、済まぬな」
近習と女中達が恐縮する素振りを見せた。
「大殿は熱が有るようです。床を敷きなさい。大殿をゆっくり休ませるのです。私は薬師を呼んできます」
小夜が立ち去ると近習と女中達が俺を端に移動させ床を敷き始めた。そして俺を横たわらせた。掛け布団が暖かいわ。身体が蕩けそうな感じがする。やはり疲れたのかな? 三好修理大夫は四十を過ぎてから体調がおかしくなった。亡くなったのは四十三、四の筈だ。信長も糖尿病になったのは四十を過ぎてからだ。四十を過ぎると身体にガタが来るのだろう。小夜が薬師を連れてきた。四十代後半くらいだろうか? 総髪だが結構白髪のある小太りの男だ。この男の方が不健康な感じだな。
「御台所様から大殿が身体が怠く身動きが出来ないと聞きましたが?」
「いや、身動き出来なかったのではない。動きたくなかっただけだ」
動こうと思えば動けたさ。身動き出来ないなんて大袈裟だ。それじゃ重症だろう。
「熱も有り食欲も無かったと」
「まあ」
俺の額に手を当てる。
「なるほど、熱が有りますな」
いや、それは分かっているって。
「御脈を拝見します」
俺の腕を取って脈を測りだした。目を閉じてジッとしている。息を吐いて目を開けた。俺の腕を布団の中に入れる。脈は終わったらしい。そして”失礼致します”と言って俺の目を見た。目の下を下げ眼球を見ている。ジッと見ていたが頷くと手を離した。
「咳は出ますか?」
「いや」
「喉がいがらっぽいという事は? 鍔が飲み込み難いとか?」
「そのような事は無い」
「有りませぬか。では夜は良く休めますか?」
「うむ」
昨日は辰と休んだぞ。一昨日は篠だった。言った方が良いかな?
「寝汗をかくという事はございませぬか?」
「特にないな」
「最近疲れ易いという事は如何でしょう?」
「それも無い」
薬師が頷いた。
「脈に乱れは有りませぬ。目にも充血は有りませぬ。病では無く疲労からくる発熱でしょう。薬は必要有りませぬ。今日一日、ゆっくりとお休みになる事です」
「分かった」
「これからは仕事を少し抑える事をお勧めします」
「それは中々難しいな」
薬師が苦笑いを浮かべた。
「かもしれませぬがお身体を壊しては意味が有りませぬ。五日に一度くらいの割合で身体を休めた方が宜しいでしょう。何もせずにゆっくりする事も必要です」
「なるほど」
週休二日は無理だが週休一日くらいなら出来るかな? ”気を付けよう”と言うと薬師が頭を下げた。
「では私はこれで」
薬師が立ち去ると小夜が近習と女中達にも下がるように命じた。皆が居なくなると小夜が俺の枕元に座った。心配そうに俺を見ている。済まないと思った。
「無理はなりませぬよ。大事なお身体なのですから」
「分かっている」
「皆には私から今日は大事を取って休むと伝えます」
「ああ、頼む」
「隣の部屋に人を置きます。用が有る時は声をかけて下さい。宜しいですね」
「うむ、済まぬな」
小夜が”いいえ”と首を横に振ると立ち去った。
誰も居なくなると溜息が出た。今日はゆっくり休もう。退屈しそうだがそういう一日が有っても良いよな。
禎兆九年(1589年) 二月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木小夜
「御台所様、大殿の御加減は如何なのでしょう?」
桂殿が不安そうに訊ねてきた。
「少し熱が有るようです。薬師は疲れが出たのだろうと。大殿も思い当たる節が有ったのでしょう。今日一日はゆっくり休むとの事でした」
「そうですか」
桂殿が小さく息を吐いた。儚げな風情の桂殿が息を吐くと憂愁が漂うと思った。
「奥州遠征が一段落しても忙しい日々が続きましたからね。気付かぬ間に身体に疲れが溜まったのだと思います」
「……」
「明日になればまたお元気な姿を見せてくれると思いますよ」
「はい」
桂殿の顔に漸く明るさが戻った。”お邪魔をしました”と言って桂殿が下がった。
ホウッと息を吐いた。次から次へと側室達が押し寄せてくる。皆、大殿が寝込んだと知って不安になっているのだ。それだけ大殿に頼り切っているという事でも有る。実際、頼り甲斐が有るのも事実なのだけれど……。
「御台所様、宜しゅうございますか?」
廊下から声が聞こえた。御倉奉行の荒川平九郎殿の声だ。”どうぞ”と返事をすると平九郎殿が部屋に入ってきた。
「大殿の事ですか?」
こちらから訊ねると平九郎殿が”はい”と頷いた。
「熱が出たと聞いておりますが?」
「ええ、薬師の話では病ではなく疲れから熱が出たのだろうと。今日一日はゆっくり休むようにとの事でした」
「左様でございますか」
平九郎殿が安堵の表情を浮かべた。女達だけじゃない。男も不安に思っている。
「ただ、薬師は五日に一度くらいの割合で身体を休めるようにと言っておりました」
平九郎殿が頷いた。
「道理ですな。戦場で討ち死にした大名家の当主はそれほど多くは有りませぬ。三好修理大夫様、織田弾正忠様、龍造寺山城守殿、大友宗麟殿。いずれも病で命を落としました。関東管領様も病で兵を率いる事が出来なくなった。大殿も四十を超えました。これまでのように我武者羅に働くのは控えて頂かなければ……」
自分もそう思う。大殿は休む間もなく働いてきた。でもそれだから朽木家はここまで大きくなり天下の覇者になった。休んでいれば天下は未だ乱れていた筈だ。その事を言うと平九郎殿も頷いた。
「八千石の朽木家が天下を獲りつつあるのです。時折、これは夢ではないのかと思う事が有ります」
「皆がそう思っているでしょう」
平九郎殿が顔を綻ばせて頷いた。
「大殿には御自愛頂かねば。今、大殿を失う事は出来ませぬ。朽木家のためだけでは有りませぬぞ。天下のためにです」
「大樹では未だ頼りないですものね」
平九郎殿が気まずそうな表情になった。
「御台所様の前では言い辛いのですが正直に言えばそうです。国の内での戦なら心配は要りませぬ。今の御屋形様で十分に対応出来ましょう。足利の時代なら強い公方と称賛されたと思います」
「足利の時代ならですか」
平九郎殿が頷いた。そして”足利の時代ならです”と強調した。
「ですが今は時代が変わりました。国の外、琉球、朝鮮、明、イスパニア、ポルトガルの事を考えなければなりませぬ。そして銀の事、銭の事も考えなければ……。淡海乃海の水路の事もございます。朝廷の事も。天下の仕組みを整え新しい日本を作らなければならないのです。残念ですが御屋形様では十分に対応出来ますまい」
「そうですね。私から見ても難しいと思います」
以前に比べればずっと頼もしくなった。それだけ成長したのだろう。でもあの子に求められるものはもっと大きいのだ。溜息が出そうになって慌てて堪えた。
「我ら家臣がお支えしても難しいと思います。御屋形様の頭の中には新しい日本の姿はございますまい。いまそれを持っているのは大殿だけでございます」
「ええ、そうですね」
「これから先十年、十五年と御屋形様は大殿の側で政を学ぶ事になります。御屋形様が今の大殿のお年になる頃には大殿の後を継ぐだけの力量を備えられましょう」
「そうなって欲しいと思います」
そうなって欲しい。切実に思った。そうでなければ天下は混乱する事になるのだから……。
禎兆九年(1589年) 二月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
暇だ。一眠りして起きた。腹が減ったから粥を食べた。食べたら眠くなったからまた寝た。目が覚めたんだがもう眠れない。どうにも暇だ。この時代にはテレビも無いしラジオも無い。漫画も無いから娯楽に乏しいのだ。一人で時間を潰すにはつくづく不向きな時代だと思う。起きよう。身体を起こした。
「誰か!」
声を上げると直ぐに障子が開いて女が顔を見せた。
「如何なされましたか?」
「小夜を呼んでくれ」
女が”はい”と言って下がった。暫くすると小夜がやってきた。
「如何なされました?」
部屋に入るなり心配そうに言ってくれた。申し訳ないと思った。
「もう十分に寝た。これ以上は眠れぬ。起きる」
小夜が近付いてきて額に手を当てた。
「熱は下がったと思います。でも今少しゆっくりなされても……」
「無理だ。暇過ぎて却って疲れてしまう。眠る事も出来ぬしな。起きた方が良い」
「左様でございますか?」
不満そうだ。もう少し休んでいて欲しいのだろうな。
「案ずるな、仕事はせぬ。暖かければ庭に出るのだが……」
小夜が俺を睨んだ。
「未だ寒うございます。なりませぬ」
「そうだな」
小夜と一緒に散歩も悪くないと思うんだが……、残念だ。
「皆が心配しております。女達だけでは有りませぬよ。男達もです。新しい日本は大殿にしか創れない。そう言っております」
「……」
そうだな。俺以外の人間がこの国の舵を取れば混乱するだけだろう。
「大樹は未だ頼りになりませぬから」
寂しそうな表情だ。母親としてはやるせない思いも有るのかもしれない。
「そうではない。もし、今が源頼朝公、足利尊氏公の頃なら大樹でも天下を治める事が出来ただろう。あの二人は日本の国内の事だけを考えれば良かった。武の力だけで天下を治める事が出来たのだ。大樹にも出来た筈だ。だが今は違う。国の外の事も考えなければならぬ。外からの侵略を討ち払えるだけの力が要る」
小夜が”はい”と頷いた。
「南蛮船も要れば大砲もいる。鉄砲も必要だ。それらを揃えるには銭が要る。膨大な銭だ。天下を治める者は武力だけでは無い、財力でも頂点に立たねばならないのだ。そのためには国を豊かにする政の力が要る」
「淡海乃海を海と繋げようというのもそれでございますか?」
小夜が小首を傾げている。
「そうだな。天下人は武の力の他に財の力、政の力が要るのだ。それらを兼ね備えなければならぬ。大樹には武の力は有る。だが財の力、政の力は未だ足りぬ。これから十年かけてそれを備えさせる。そうなれば誰も大樹に不安を感じなくなる」
小夜がホウッと息を吐いた。
「平九郎殿も同じような事を言っておりました。今のままでも足利の時代なら強い公方と称賛されただろうと」
「そうだな」
「でもあの子に求められるのは新しい日本の支配者です。あの子にそれが務まるのでしょうか? とても不安です」
不安そうな顔を見ると本当に済まないと思った。小夜にとって天下人の妻になった事は幸せだったのだろうか……。考えるな、考えても仕方が無い事だ。俺も小夜ももう降りられないのだ。それは大樹も同じだ。
「大丈夫だ。良き天下人になろうとする心が有れば務まるだろう。あれは努力が出来る男だ。そして謙虚に周りの者の意見を聞く事も出来る。そういう男には周りが力を貸してくれる。そなたには歯痒く見えるかもしれぬがあれは少しずつ自分の力を大きくしていくだろう。十年後には見違えるようになるぞ」
小夜が曖昧な表情で頷いた。
俺と比べているんだろうな。不安なんだろう。こっちは歴史の知識が有るし人生経験も豊富なのだ。大樹を俺と比べちゃ駄目さ。でもこればかりは言えんしなあ。大樹は地味かもしれんがそれだけに堅実だ。世の中の統治者の半分以上は平凡だよ。後の大部分は盆暗で残りが名君と暴君だ。大樹は名君と呼ばれるようになるさ。




