裏を読む
禎兆七年(1588年) 十一月下旬 山城国葛野・愛宕郡 仙洞御所 近衛前久
「先程、伊勢兵庫頭が臣の邸を訪ねて参りました」
院が”ほう”と声を上げた。顔が綻んでいる。
「相国の事かな?」
「はい。出羽の笹野という村で奥州勢八万と決戦になったそうにございます」
「うむ、勝ったのか?」
院が身を乗り出してきた。相国が負けるとは微塵も思わないらしい。その事が可笑しかった。まあこれまで勝ち続きだ。院の気持ちが分からぬでも無い。
「はい、勝ちましてございます。奥州勢の主力である伊達勢を討ち破り大将の伊達左京大夫を討ち取ったとの事でおじゃります」
「なんと!」
院が身体を仰け反らせた。
「兵を進め伊達の本拠地である米沢城を押さえたと文が届きました」
「ではこれで奥州平定も成ったか」
「いえ、殆どの者が戦わずに逃げたそうにおじゃります。未だ道半ばと言ったところかと」
院が声を上げて笑った。
「ははははは、逃げたか」
「はい」
「強いのう。逃げるとは相国には敵わぬと見て逃げたのであろう。道半ばとは言うが脅せば逃げた者達は降伏するのではないか?」
「かもしれませぬが油断は出来ませぬ」
窘めると院が頷いた。
「そうじゃの、百里を行く者は九十を半ばとすという言葉もある。ここまで来たからこそ油断は出来ぬか。しかしそうなると相国はこのまま奥州に留まるのか?」
院が僅かに眉を顰めた。いつまでも京を留守にされては困る。そんな思いがあるのだと思った。
「いえ、この先は大樹に任せるそうにおじゃります。相国はこちらに直に戻って参りましょう」
「うむ」
院が満足そうに頷いた。
「奥州平定は息子に任せるか、征夷大将軍だからの。適任よ」
「真に」
「来年には片付こうの。天下統一か」
「はい」
難しくはあるまい。伊達が敗れ最上が寝返った。道半ばではあるが奥州が一つに纏まる事は無いだろうと相国からの文には記してあった。これから先は掃討戦になると相国は見ている。
「新年の節会も一際賑やかになりそうじゃの」
「皆が喜びましょう」
天下統一が直ぐ其処まで迫っている。皆が燥ぐだろう。
「良い事よ。この後は琉球か?」
「はい、呂宋のイスパニアの事もございます。放置は出来ませぬ」
院が”うむ”と頷いた。
「伴天連の事も有る。いよいよ海の外に押し出すか」
「はい。これまでとは違う、新しい日本が誕生致しまする」
「うむ、楽しみじゃ」
「真に」
琉球を制し呂宋からイスパニアを追い払う。明や朝鮮とも戦う事になるだろう。そして勝つ! そうなれば日本こそが明に替わって新たな大国になるだろう。真、楽しみよ。
禎兆七年(1588年) 十二月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
綾ママの部屋に近付くと段々足取りが重くなるんだよな。気のせいだ、気のせい。自分に言い聞かせて部屋の前で膝を突いた。
「母上、只今戻りました。よろしゅうございますか?」
「どうぞ」
頭を軽く下げてから部屋の中に入り綾ママの前に座った。
「御無事のお戻り、心からお喜び申し上げます」
「有り難うございまする」
綾ママの表情は決して明るくない。可愛がっている大樹が戻らないからな。寂しいのだろう。でもなあ、息子が戻ってきたんだし孫の三郎右衛門、四郎右衛門も戻って来たんだからもうちょっと明るくても……。やっぱり三郎右衛門は俺に似過ぎているから可愛げがないのかな。
「残念ですが奥州遠征は半ばで打ち切りとなりました」
「已むを得ませぬ。奥州は雪が積もります」
そうなんだ。雪が降るから仕方ないんだよ。だからね、そんな暗い顔をするのは止めて欲しいな。俺、段々この部屋に入り辛くなるよ。
「残りは大樹と次郎右衛門に任せる事にしました。大樹は小田原城で、次郎右衛門は会津の黒川城で来年に備えております」
「そうですか」
綾ママがホウッと息を吐いた。俺の方が溜息を吐きたいんだけど。
「後を託せるのは大樹しか居りませぬ」
「分かっております」
いかんな。綾ママの表情は暗いままだ。此処は明るく行こう。
「大丈夫です。大樹も頼もしくなりました。奥州平定はそれほど掛かりますまい。早い時期に大樹はこちらに戻って来ると思います」
「そうですね」
効果無し。俺が残った方が良かったかな。そう言ってみようか? 嫌味だな。綾ママも気を悪くするだろう。此処は気付かない振りだ。
「では某は失礼致しまする。女達から挨拶を受けなければなりませぬので」
スッと立ち上がって部屋を出た。綾ママ、また溜息を吐いていたな。……気にするな。奥州平定は大樹にしか任せられないのだ。そんな事より広間に行かないと。皆待っている筈だ。
「お帰りなさいませ。御無事のお戻り、心からお喜び申し上げまする」
広間に入ると小夜が俺の帰還を言祝いでくれた。そして側室達が”お帰りなさいませ”と明るく唱和してくれた。嬉しいねえ。漸く帰ってきたと実感出来たよ。早く鎧を脱ぎたいけど先ずは挨拶を返さないと。
「皆も元気そうだな。普段は思わぬが暫く見ぬとやはり懐かしいな」
俺の言葉に側室達が”まあ”、”ほほほほ”、”酷うございます”と声を上げた。華やかで賑やかだ。戦場ではこんな雰囲気は味わえない。
「遠征中は私達の事は思い出さないのでございますか?」
「戦なのだぞ、雪乃。目の前に敵が居るのだ。そなた達の事を考えて呆けていてはあっという間にこの首を獲られてしまう」
俺が首筋を叩くと皆が笑った。本当は思い出すけどね。まあ、女達も笑っているからその辺りは察しているだろう。
「大殿、雪乃殿、藤殿、夕殿に御子が生まれましたよ」
「そうか! 気になっていたのだ。生まれたか!」
少し声を張り上げた。うん、雪乃、藤、夕が嬉しそうにする。亭主が居ない時に子を産んだんだ。このくらいはサービスしないと。
「先程、私達の事は思い出さないと仰っていましたけど」
雪乃が悪戯っぽく言った。
「本気にするな。あれは嘘だ」
また皆が笑った。小夜も口元を押さえて笑っている。
「それで、男か? 女か?」
俺が問うと小夜が”そうでした。忘れていました”と笑いながら言った。
「雪乃殿と夕殿には若君が、藤殿には姫君が」
「無事に生まれたのだな。何よりだ。良くやってくれたな。今はこの姿だからな。風呂に入ったら見に行くぞ」
雪乃、藤、夕の三人が”はい”と答えた。夕は嬉しそうだ。男子を欲しがって居たからな。願いが叶って満足だろう。
「名前も考えなければならぬな。風呂に入りながら考えるか」
「左様でございますね」
「四郎右衛門も琉球から帰ってきた。皆も琉球の話が聞きたかろう。今宵は皆で夕餉を取るか」
”まあ”、”嬉しゅうございます”と女達が喜びの声を上げた。
「直ぐに用意させましょう。大殿はお風呂に。用意が出来ております」
「うむ、分かった」
俺が立ち上がると皆が頭を下げた。さあ、鎧を脱いで風呂だ!
禎兆七年(1588年) 十二月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木小夜
大殿が部屋でごろりと横になっている。
「お疲れでございますか?」
問い掛けると大殿がクスッと笑った。
「そういうわけでは無いがこれが出来るのはそなたか雪乃の前だけだからな」
そう言うと大殿が身体を起こした。
「宜しいのですか? 起きてしまって」
「ああ、久し振りに帰ってきた夫がゴロゴロ転がってばかりではそなたも嫌だろう」
「まあ、ほほほほほほ」
私が笑うと大殿も声を上げて笑った。やはり大殿が居ると楽しい。他の側室達も楽しそうに夕餉を取っていた。
「良い名をおつけになりましたね」
「そう思うか」
「はい、雪乃殿、藤殿、夕殿、皆喜んでいました」
大殿が満足そうに頷いた。
「名というのは大事だからな。疎かには出来ぬ」
「左様でございますね」
雪乃殿の子には範千代、藤殿の子には蓉、夕殿の子には貞千代。範には手本、きまりという意味があり貞には正しいという意味がある。そして蓉は芙蓉の蓉。いずれもその名に相応しく育つようにとの願いが込められている。
「お茶を淹れましょうか?」
大殿が首を横に振った。
「小夜、大樹も大分頼もしくなった」
「まあ」
大殿は笑みを浮かべている。息子は大殿が認めるだけの働きをしたのだと思った。
「今回、奥州の平定は半ばで切り上げたが来年には大樹が仕上げるだろう。もう大丈夫だな」
「大丈夫ですか?」
問い掛けると大殿が頷いた。
「ああ、戦は大丈夫だ。後は政だろう。大樹が奥州から帰ってきたらそれを教えなければならぬ」
政……。これまで戦ばかりしてきた。あの子に政が分かるのだろうか……。
「大丈夫でしょうか?」
「はははははは」
大殿が笑い出した。
「心配が絶えぬな」
「からかわないで下さい。本当に心配しているのです。あの子は戦ばかりしていましたから……」
大殿が”そうだな”と頷いた。
「確かに不安は有る。だがあれは人の話を聞く事が出来る男だ。努力も出来る男だ。才気煥発とは言えぬが一つ一つ覚えて自分の力にする事が出来る。以前にも言ったかもしれぬがそういう男には周りは力を貸してくれる」
「はい」
「駿河に送り出して七年だ。この七年で随分と大きくなったと思う。政でも同じように大きくなってくれる。そう信じよう」
「はい」
あの子の事では不安ばかり感じる。朽木家はもう天下を治める家なのだ。あの子は天下を治められるのだろうか……。その力が無ければまた天下は乱れるだろう。
「それにな、大樹は一人では無い。次郎右衛門、三郎右衛門、四郎右衛門と元服した弟達が居る。これは大きい」
「……」
「大樹に黒川城に誰を置くかと問うと大樹は迷う事無く次郎右衛門を選んだ。相当に次郎右衛門を信頼しているのだと思った。次郎右衛門も嫌がる事無く引き受けた。あの二人には強い絆が有る」
「はい」
嬉しかった。次郎右衛門は大殿が付けた佐綱に相応しい人物になったのだと思った。
「三郎右衛門も良い。あれは良い意味で俺に似たな。鋭いのだ。色々と物事の裏を読み取る力に恵まれている。あれが大樹の傍に居れば大樹も相当に心強いと思う」
「まあ、そんなに?」
問い掛けると大殿が”ああ”と嬉しそうに頷いた。何時の間にあの子が……。
「何を考えているか分からない息子だったがそろりと芽が出たようだ。大樹にとっては良い事だな」
嬉しかった。顔立ちが一番大殿に似ていると思っていたけど能力も似ているだなんて。でも……。
「大殿は三郎右衛門が跡継ぎで無い事を残念だと思われますか?」
気になって問い掛けてみた。父親なら自分に良く似た息子を可愛いと思うだろう。大殿も嬉しそうに三郎右衛門の事を話している。自分の跡を継がせたいと思っても不思議では無い。
「いや、そうは思わぬ。跡継ぎは大樹で良い」
「……」
本心だろうか? 大殿をじっと見ると大殿が苦笑を浮かべた。
「本心だぞ」
ホッとした。朽木の家で跡目争いなど起きて欲しくない。
「これまでは乱世だった。喰うか喰われるかの世の中だったのだ。そういう中で必要とされたのが物事の裏を読む力だった。それが無ければ簡単に操られてしまうからな。そういう鋭さを持った人間が頼りにされた」
「はい」
「しかしこの物事の裏を読むというのは周囲から危険視されがちなところがあってな。乱世が終われば頼りにされるよりも危険視される事の方が多くなると俺は思う」
大殿が私を見た。
「分かるだろう? 俺も随分と怖がられた」
「そのような事は……」
大殿が首を横に振った。
「良いのだ。分かっている。大樹にはそういう鋭さは余り無いようだ。だが人の話を聞くからな。周囲から慕われるだろう。乱世が終わりつつある今、当主として必要とされるのは三郎右衛門よりも大樹のような男だ。周囲も安心するだろう。三郎右衛門は大樹の傍に在って気付いた事を大樹に進言する。そういう立場の方が良い」
時代が変わりつつあるのだと思った。必要とされる人も変わるのだろう。




