覚悟
禎兆七年(1588年) 十月上旬 出羽国置賜郡米沢村 米沢城 最上御前
ドンドンドンドンと足音がしました。止まりました。ドンドンドンドンとまた足音がしました。そして戸をカラッと開けて夫、伊達左京大夫輝宗様が入って来ました。
「如何でございましたか?」
問い掛けると“うむ”と答えながら座りました。表情は余り良くありません。鬱屈していると思いました。先程足音が止まったのも思い悩む事が有ったからでしょう。
「お東、白湯をくれぬか」
「はい」
火鉢に掛けてある薬缶の湯を椀に注ぎました。
「熱うございますよ」
「良いわ、今日は冷える」
椀を差し出すと受け取ってゆっくりと一口飲みました。顔を顰めています、思ったよりも熱かったのでしょう。
「軍議は出陣と決まった」
「左様でございますか」
夫が私を見ました。
「そなたも知っているな。大樹公と上杉弾正少弼殿が兵を動かした。大樹公が八万、上杉勢が三万、合わせれば十万を越える兵が二本松街道を横川から二本松に向かっておる」
「はい」
声が掠れました。十万を越える大軍……。この城にも八万近い兵が集まっています。大変な数ですがそれよりも多いのです。
「右京大夫殿は青くなっておる。宥めるのが大変であったわ」
夫が渋い表情をしています。二本松右京大夫義継様は相当に狼狽えたのでしょう。目に浮かびます。
「相国様も兵を動かした。米沢街道を熊倉へと向かっている。こちらは七万だ」
溜息が出ました。大樹公、上杉弾正少弼様と合わせれば二十万に近い兵が攻め寄せてきた事になります。これほどの大戦は源頼朝公の奥州征伐以来の事です。
「凄まじいものでございますね。……ですが相国様の軍勢が些か少ないように思いますが?」
夫が面白く無さそうな表情をしました。
「勝つ自信が有るのだ。だから誘っているのよ」
「……わざとだと言うのですか?」
問い掛けると夫が”そうだ”と言って白湯を一口飲みました。
「忍びの者の報せでは大樹公の兵は福島からこの米沢を目指すらしい。だが弾正少弼殿は葛西、大崎を目指すようだ。上杉勢が攻め込めば忽ち左衛門佐も左京大夫も動揺しような」
大崎左衛門佐義隆様、葛西左京大夫晴信様。お二人の顔を思い浮かべました。お二人とも我の強そうな表情をしています。
「知っての通り、あの二人は犬猿の仲だ。協力して朽木勢と戦おうという考えは無い。有るのは相手に出し抜かれるのを恐れる心だけだ。この城に居るのも互いに相手を監視するため、隙あらば皆を味方にして相手を蹴落とそうとしているだけだ。上杉勢が攻め込めば自家の保存の為にあっという間に上杉に通じるだろう。そして上杉の力で相手を叩き潰そうとするに違いない。目に見えるようだ」
夫が吐き捨てました。そして私を見ました。哀しそうな目をしています。胸が痛みました。
「籠城は出来ぬ」
「……出来ませぬか? 冬が来れば……」
夫が首を横に振りました。
「分かっている。籠城し雪が降るのを待つ。敵は兵を引くだろう。そこを追い打ちを掛けるれば勝機は十分に有る。だが味方はそこまで保たぬ」
「保ちませぬか?」
問い掛けると夫が頷きました。
「残念だが一つ間違えると城内で同士討ちが起きるだろう」
「なんと……」
声を出すと夫が微かに笑いました。
「この城に籠もれるのは精々五万じゃ。残りは他の城に籠もる事になる。皆の心が一つなら良いが……」
「一つには成らぬと?」
夫が首を横に振りました
「奥州は奥州人のもの、上方人の指図は受けぬ。皆がそう言うわ。だが奥州人の誇りが言わせるのでは無い。上方人に従いたくないという気分が言わせるのだ。実際に上方勢が押し寄せれば皆が青ざめておる。威勢の良い虚勢も張れぬ。これでは籠城など出来ぬ」
溜息が出ました。そんな私を見て夫が笑いました。
「蘆名と佐竹があっという間に滅んだからな。その事も皆にとっては誤算だったらしい。奥州攻めは来年になると見ていたようだ。未だ刻が有ると。……甘いわ、相国様が動いた以上、朽木は温い戦はせぬ」
確かに蘆名と佐竹はあっという間に滅びました。予想外だったのは事実です。
「余計な事を致しましたか?」
夫を説得して奥州側へと留めたのは私です。あの時はそれが正しいと思いました。奥州人の団結を信じたのです。でも……。夫が首を横に振りました。
「已むを得ぬ事だ。あのまま親朽木を儂が表明し続ければ伊達家は周囲から袋叩きに遭いかねなかった。家臣達も儂を見限ったかもしれぬ。とんでもない騒動になっただろう」
「……」
その事も心配でした。一つ間違えば伊達家は滅びかねない。そう思ったから夫を説得したのです。一体如何すれば良かったのか……。
「出陣でございますか……」
「ああ、儂が出陣を主張した。籠城など出来ぬ。戦って活路を見出すしか無い。幸いこちらが総力を挙げれば相国様よりも兵は多い。大樹公や弾正少弼殿は無視して相国様と雌雄を決するべきだとな。我らが勝てば大樹公、弾正少弼殿も兵を退く」
「……相国様が誘っているとはそれでございますか?」
夫が”そうだ”と頷きました。
「相国様が何処までこちらの状況を把握しているのかは分からぬ。だが全軍で押し寄せればこちらは籠城するしかない。それでは時が掛かる。手間取れば雪が降るだろう。それを避けたのだと思う」
「では敵の狙いに乗る事になります」
「そうだな」
他人事のような返事でした。
「宜しいのでございますか?」
問い掛けると夫が笑いました。
「どのみち活路など無いのだ。あとは奥州人の意地と矜持を相国様に披露するだけよ。それに儂は籠城などという辛気臭い戦は嫌いだ」
夫は死を選んだのだと思いました。
「兄は何と?」
夫が一つ息を吐きました。
「義兄上も籠城では勝てぬと見ている。出撃に賛成した。押し出して相国様と戦うべきだとな。もっとも本心は分からぬ……」
夫の語尾が消え入るかのようでした。その事が気になります。
「それは?」
「……」
「殿?」
夫が切なそうに息を吐きました。
「そなたの兄を悪く言いたくは無い。だが見切りの早いお方だからな。勝算の無い戦に何処まで本気で戦うかは分からぬ」
「……籠城すれば敵に閉じ込められたも同然、逃げるためにそれを避けたとお考えなのですか?」
問い掛けましたが夫は白湯を飲み干すと無言で椀をこちらに差し出しました。椀に白湯を注ぎながら兄の事を思いました。最上源五郎義光は怜悧な人です。利の無い戦をするとは思えません。夫はもしかすると兄が逃げるのでは無く裏切ると見ているのかもしれません。それも否定出来ません。
「最初はな、皆が籠城を主張したのだ。出撃を主張したのは儂と義兄上だけだ。随分と揉めたが籠城など雪隠詰めになってどうにもならん。それにこちらには後詰めが無いと義兄上が言うと徐々に皆が出撃に賛同した。本気で戦う者がどれだけ居るか……」
「逃亡、裏切る者が出ると?」
問い掛けると夫が頷きました。
「皆、周囲の顔色を窺うだろう。最初に誰かが逃げる、裏切る。そうなればあっという間に逃亡、裏切りが続出するだろう。味方は総崩れ、まともな戦にはなるまい」
「……」
夫が何を考えたのか顔を綻ばせました。
「儂も疑われている」
「まあ」
驚くと夫が笑い出しました。
「儂は元々親朽木じゃ。それに藤次郎が相国様の下に居るからの。藤次郎の手引きで裏切るのではないか。藤次郎を逃がしたのも儂ではないかと疑っておる。まあ、逃がしたのは事実じゃ。疑われても仕方が無い」
「どうなさいます?」
暗に死ぬのは止めてはどうかと問いました。朽木と戦う現状は夫にとって不本意なものでしょう。今なら朽木側に付いても家臣達も納得する筈です。藤次郎も口添えしてくれるでしょう。夫が口元に力を入れました。
「儂は戦う」
「……伊達の家が滅びまするぞ?」
問い掛けると夫が首を横に振りました。
「藤次郎が居る。伊達の家が滅ぶ事は無い。ならば儂は奥州人として奥州人の意地を示すべきであろう。それが伊達家のためになる」
「伊達家のため、……それが藤次郎のためになると?」
「そうだ、あれのためになる」
夫が頷き私を見ました。
「儂の自慢の息子だ。この奥州を一つに纏められるだけの器量を持って生まれた男だ。だが時があれに味方しなかった。二十年、いや十年で良い。早く生まれていれば奥州の覇者として天下を争えただろう……。惜しい事だ」
「……」
夫が息を吐きました。そして”はははは”と笑い声を上げました。
「虎死して皮を残し人死して名を残す。死ぬという事は己が生き様を示すという事だ。儂はあれのために恥ずかしくない生き様を示さねばならぬ。伊達家の当主として、父として、奥州人としてな」
表情に曇りがありません。夫は死ぬ事を選んだのではなく望んでいるのだと思いました。藤次郎のために……。
「ならば私もお供致します」
夫が”ならぬ”と首を横に振りました。
「そなたは生きて藤次郎の生き様を見届けよ。それを儂に伝えるのが役目ぞ」
「いいえ、それは出来ませぬ」
私が首を横に振ると夫が”お東”と言いました。切なそうな顔をしています。私が何を考えたのか、分かったのでしょう。
「兄は味方を裏切りましょう。たとえ蔑まれようとそうする事で最上の家を守ろうとする筈。私は最上の出にございます。母として藤次郎のために恥ずかしくない生き様を示さねばなりませぬ。それに、貴方様を奥州側へと留めたのは私にございます。生き延びるなど……、お供致しまする」
生き延びれば生き恥を晒すだけでしょう。そのような母の存在など藤次郎には必要有りません。
「……味方が負けたと報せが届いたら直ぐさま城に火を付けよ。この城で籠城などさせては成らぬ。決して躊躇うな」
「はい、必ずや」
しっかりと頷くと夫が満足そうに頷きました。夫は戦場で、私はこの城で、別々の場所で死ぬ事になりそうです。しかし直ぐに会えるでしょう。寂しさを感じる暇は無いでしょう……。
禎兆七年(1588年) 十月下旬 出羽国置賜郡綱木村 朽木基綱
山ばっかりで嫌になるわ。檜原峠を越えて綱木村に入ったんだが次は綱木峠が待っている。その後は船坂峠だ。そこを越えれば米沢は目の前だが今日はこの綱木村で宿泊だ。未だ陽は高いんだがこれから綱木峠を越えようとすれば夜になる。夜中に山越えなんて危険だ。知ってる山道でもやってはいけない。幸いな事に先鋒隊は既に綱木峠を越え峠の出入り口を確保している。間違ってもこの綱木村が敵の急襲を受ける事は無い。俺は安心して眠れるだろう。
早めの夕食を摂って一人で寛いでいると風間出羽守が火急の報せだと言って部屋に入ってきた。それは良いんだが俺を見て口籠もるなよ。
「如何した?」
「はっ、御寛ぎかと思いましたので」
鎧を着けている事に驚いたらしい。
「十分に寛いでいる」
此処は敵地なのだ。そして俺達は敵地に攻め込もうとしている。万一を考え寛ぐにも節度は必要だ。敵は俺の首を欲しがっているのだからな。
「それで?」
促すと出羽守が”はっ”と畏まった。
「船坂峠の先、笹野に奥州勢が」
「ほう、如何程だ?」
「八万の大軍と報せが入っております」
半月程前に奥州勢が米沢城で籠城では無く野戦を選んだという報告が有った。米沢城から敵が出撃したという報告が有ったのは一昨日だ。驚きは無い。八万ともなれば奥州勢は総力を挙げて俺を迎え撃とうとしているという事だな。
「笹野とは?」
「南原よりも一里程北になりまする。平地ですが西に笹野山という小山が有りそこに一万ほどの兵が陣を布いております。残りは平地にて陣を構えていると。南原にも一千ほどの兵が居ると報告が」
船坂峠を越えると南原だ。その先で陣を構えている。笹野山の兵は奥州勢の側面を守ると共にいざとなれば山を駆け下りてこちらを討ち破る兵だろう。
「笹野山には誰が居るのだ?」
「はっ、最上源五郎義光が」
「……」
思わず絶句した。出羽守は吹き出しそうな表情をしている。そうだよな、最上は俺に寝返ると密書を寄越しているのだ。そいつが山の上にいる?
「寝返るというのは本気かな?」
俺が問うと出羽守が”さて”と言った。
「両天秤をかけているのやもしれませぬ」
「そう考えるのが妥当だな」
出羽守が頷いた。奥州勢が有利なら俺を、不利なら奥州勢を攻撃するつもりだろう。戦局を決定するのは自分だと思っているのかもしれない。
寝返ると言っているのは最上だけじゃ無い。大崎左衛門佐、葛西左京大夫は景勝に対して敵対しないから俺に取りなして欲しいと懇願している。まあ大崎も葛西も自領は空に近い。抵抗したくても出来ないという現実が有る。景勝には適当にあやしておけと言っている。希望があるうちは積極的に戦わないだろう。それに大崎と葛西は犬猿の仲だ。こいつらが協力して戦うなんて何処まで出来るか……。景勝に対して互いに相手を潰して欲しいと懇願しているのだ。協力するとまで言っている。きっかけさえ有れば同士討ちを始めるだろう。
「侮るわけではありませぬが奥州勢、何処まで戦えますかな?」
「さて」
出羽守が首を傾げている。本気で案じているらしい。まあ出羽守の懸念は分からぬでも無い。奥州勢の間では伊達が裏切るという疑念も生じている。元々伊達は親朽木だった。そして政宗がこちらに居る。伊達に対する疑念が生じるのは已むを得ない。
最大の兵力を持つ伊達が怪しい。この状況では積極的に戦おうとする者は出辛いだろう。しかし奥州勢で本気で戦う家が有るとすれば伊達だと俺は見ている。他は怪しい。寝返ると言ってきたのは最上、大崎、葛西だけではないのだ。和賀薩摩守義忠、稗貫備中守広忠。この二人も寝返ると使者を送ってきた。兄弟だからな、相談して使者を出したらしい。文面には我ら兄弟と書かれていた。他にも文は出さないが寝返る事を考えている者が居るだろう。
「如何なさいます?」
「予定通りだ。明日は船坂峠を越える」
「はっ」
出羽守が畏まった。表情が厳しい。俺が決戦を望んでいると分かったのだろう。その通りだ。大樹からは栗子峠を越えたと報せがあった。大樹を待つ方法もある。しかし此処は決戦しよう。危険は有るが兵力差を利用して勝つよりも現状の兵力で勝つ方が後々の事を考えると良い。奥州人に朽木には勝てない、負けたと肝に銘じさせなければ……。
史実では秀吉の奥州制圧は戦う事無く成し遂げられた。だがその後、秀吉の奥州仕置きに反発した者達が反乱起こし混乱した。要するに秀吉を支配者として認められなかったという事になる。負けていないからだ。心が折れていなかった。第二次世界大戦の日本のように徹底的に負けていれば反乱は起きなかっただろう。
戦わずに勝つのが上策だと兵書にある。確かにその通りだ。だがそれは相手の領地を奪わなければだと思う。相手の領地を奪う、相手を支配するとなれば話は別だ。朽木には絶対勝てない。どれほど無茶でも受け入れるしか無いと思わさなければならん。二度も三度も奥州に兵を送っている暇は無い。日本を取り巻く状況は厳しくなっているのだ。この一戦で奥州人の心を打ち砕く。俺の支配を受け入れさせる。
「敵が押し寄せれば戦になるだろう。皆に覚悟せよと注意を促す」
「はっ」
覇者は楽をしてはならんのだ。天下に武を振るう事を躊躇ってはならない。躊躇えばその時から覇者が不在となり天下が乱れるのだから……。
久し振りというのも恥ずかしい程に間が空きました。大体四年振りのようです。
会社も定年退職し引っ越しも済ませて実家に戻りました。ようやく荷物の整理がつきWEB版の更新が出来ました。少しずつ更新していくつもりです。