南方へ
禎兆八年(1588年) 四月下旬 駿河国安倍郡 府中 駿府城 朽木堅綱
「まあそういう事でな、少々厄介な事になるかもしれぬ」
「父上、その事を朝廷には」
問い掛けると父上が首を横に振られた。
「伝えておらぬ。未だイスパニア、ポルトガルと事を構えたわけではないからな」
「……」
我らが黙っていると“そう案ずるな”と父上が御笑いになった。
「先の事だ、どうなるかは分からぬ。今は天下統一に全力を尽くす。良いな」
「はい」
「俺はそろそろ休ませて貰う。その方等も休めよ」
そう言うと父上が立ち上がった。“お休みなさいませ”と挨拶をして見送る。その後で次郎右衛門、三郎右衛門にもう少し話をしようと声を掛けると二人とも頷いた。とてもではないが眠れない。
「先程の話、如何思った」
「驚きました。南蛮の国々と事を構える事にも驚きましたがその事が明の混乱に繋がるとは……」
次郎右衛門が首を横に振った。全く同感だ、場合によっては明が滅ぶかもしれぬなどとても信じられない。
「某はむしろそれこそが父上の狙いではないかと思います」
三郎右衛門……。
「父上は琉球を服属させ朝鮮と交渉しようとしておられます。琉球は日本に服属したとはいえ明にも服属しています。必ずしも日本だけの言う事を聞くわけではない。朝鮮は父上の出した書状にまともな回答をせぬようです。やはり明に服属している事が影響しているのでしょう。しかし明が混乱し弱体化、或いは滅べばどうなるか……」
三郎右衛門が私と次郎右衛門を見た。
「なるほど、そういう事か。御屋形様、琉球は今まで以上に朽木に従属し朝鮮は父上の書状を無視出来なくなりましょう」
「そうだな、父上の御立場は強くなる。日本だけではない、琉球、朝鮮、呂宋にまで父上の御力は及ぶ事になるだろう」
私と次郎右衛門が頷いていると三郎右衛門が“特に琉球が大事にございます”と言った。
「琉球は日本と呂宋の間に有ります。父上は必ず琉球を今以上に押さえようとなされる筈、場合によっては軍を動かして征服する事も有り得ましょう。琉球の先には高砂、呂宋、呂宋の先には安南、交趾、占城、柬埔寨、太泥、暹羅が有るのです。これらの国との交易は大きな利を生みます。父上の眼は南方に向かっていると思います」
思わず唸り声が出た。何という事を御考えになるのか……。私が漸く天下統一が見えてきたと思った時に父上は海の外の事を御考えになっているとは……。足りぬ、まだまだ足りぬのだと思った。
「九州遠征の時でございますが明が混乱している事が話に出たそうです。その時大陸に攻め込む話が出たのだとか」
「真か、三郎右衛門」
私が三郎右衛門に問うと三郎右衛門が“真です”と言って頷いた。
「父上は否定的であったそうです。もしかするとその時には大陸では無く南へ進む事を御考えで有ったのかもしれませぬ」
「……」
三郎右衛門が“それに”と言って言葉を続けた。
「イスパニア、ポルトガルの者共は南の国々を相手に随分と阿漕な事をしているようです。この国でも奴隷売買を行い国の外に女達を連れ出しています。父上は随分と御怒りです。あの者共と事を構えるとなれば日本から打ち払うだけでは無く南方にまで押し出す必要が有る。父上はそう御考えなのだと思います」
「詳しいな、三郎右衛門」
次郎右衛門が褒めると三郎右衛門が少し恥ずかしそうな表情をした。
「父上から琉球人の考えを知れと命じられ少しの間行動を共にしました。その折、彼らから南方の事を教えて貰ったのです。琉球が日本に服属したのもイスパニア、ポルトガル、そして父上を畏れての事です。万一の場合明が何処まで琉球を助けるか不安に思ったと言っておりました」
そうか、三郎右衛門は九州に行く。父上が三郎右衛門に琉球人の考えを知れと命じたのはその辺りも有るだろう。
「もっとも琉球が父上の御考えを何処まで読んでいるか……。それによっては琉球との関係も難しい物になりましょう」
三郎右衛門が厳しい表情をしている。琉球か……。
「今回、九鬼家と縁を結んだな」
三郎右衛門が頷いた。
「九鬼孫次郎から文を貰いました。その文によれば父親の九鬼宮内少輔は南蛮との戦も有り得ると考えているようです」
「真か?」
「はい」
なんと……。乱世を生き抜いた宮内少輔が鋭いのか、それとも私が鈍いのか……。
「もう直ぐ四郎右衛門が琉球から戻ってきます。四郎右衛門からも面白い話が聞けましょう」
「そうだな、戦が終われば私も近江に戻る。じっくりと琉球の事を聞きたいものだ」
次郎右衛門と三郎右衛門が頷いた。
禎兆八年(1588年) 四月下旬 相模国足柄下郡小田原町 小田原城 木下秀吉
「如何だ、三郎右衛門。小田原城は大きいだろう」
「大きい、それに堅固です」
大樹公の言葉に三郎右衛門様が唸った。御二人とも大殿に良く似ておられる。だが三郎右衛門様の方が大樹公よりも似ておられよう。無口で滅多に心の内を御見せにならぬと聞くが朽木の譜代衆からは大殿に一番良く似ておられると評判の若君だ。
「本当はあそこに有る山、八幡山というのだが北条氏はあそこから空堀、土塁を造って防御を海岸まで伸ばす事を考えていたらしい」
「なんと、真ですか御屋形様」
「本当だ」
今度はホウっと息を吐かれた。駄目だ、可笑しくて笑ってしまった。一緒に居た次郎右衛門様、小一郎、小六、将右衛門も笑っている。
「賑やかだな、ここは」
声がした方を見ると大殿が相談役の方々と共に居られた。慌てて控えようとすると“そのままでよい”と声が掛かった。
「三郎右衛門に小田原城の大きさを見せておりました」
「そうか、五月になれば小田原を発つ。それまでこの城を堪能する事だ」
大殿が外の景色を眺められた。本丸から外を見ると小田原城の大きさ、堅固さが良く分かる。
「確かに大きいな。だがこの城、関東を治めるには少し不便だ。大樹はそうは思わぬか」
大殿の問いに御屋形様が頷かれた。
「些か相模の西に寄り過ぎていると思います」
大殿が満足そうに御笑いになられた。
「そうだな、今少し東に拠点を置きこの城は西への抑えの城とすべきであった」
「何故そうしなかったのでしょう?」
次郎右衛門様が問い掛けると大殿が笑うのを御止めになられた。
「乱世だからな。堅固な城に拠りたいと思う気持ちは誰にでもある。それに北条氏は武田、今川氏と同盟を結ぶ前は争う事も有った。その後は越後の謙信公と戦った。いずれも容易な敵ではない。この小田原城から出る事は難しかったのだろう」
「なるほど」
次郎右衛門様が頷かれた。
「川中島で武田が上杉に勝っていれば北条氏も拠点を東に置けたかもしれぬ。そこから関東制覇という事も有り得ただろう。それを考えるとあそこで謙信公が勝った事が北条氏の勢いを止めたのだと思う」
そうかもしれない。川中島で武田が勝てば上杉は越後に逼塞せざるを得なかった筈だ。関東は北条氏の思いのままになった。関東とは直接関係ない戦が関東の行く末を決めたか……、不思議な事だ。
「関東、奥州を制したら関東、奥州に統治、繁栄の基点となる城を造るつもりだ。広い平野を持ち大きな川を持ち海に面した城だ」
「那古屋城のような城でございますか?」
次郎右衛門様が声を弾ませた。
「そうだ」
関東、奥州の統治、繁栄の基点となる城か……。関東だと江戸だろうか?
「関を廃し街道を整備する。川の整備もしなければならん。そして湊を拡張し町を繁栄させる。産物を起こしその産物を川、街道、海を使って畿内に運ぶようにする。畿内と関東、奥州を結び付けるのだ。本当の意味で日本を一つにする。津島、伊勢の湊、そして敦賀、小浜の湊の役割は今まで以上に大きくなるだろう」
皆が顔を見合わせた。皆の顔が紅潮している。
「天下統一は終わりでは無い。天下統一は新たな始まりだ。世の中に繁栄をもたらさなければ皆が不満を持つ。それではまた天下が乱れる。二度と天下を乱さぬためにも世を繁栄に導かなければならん。皆に平和になって良かった、豊かになって良かったと思わさなければならんのだ」
「君臣豊楽でございますか?」
「そうだ、大樹。君臣豊楽だ」
大殿が俺を見ている。胸が弾んだ、新しい仕事を任せて貰えるのだと思った。
禎兆八年(1588年) 五月中旬 下野国那須郡烏山村 烏山城 朽木基綱
烏山城に着くと城主とその妻、そして家臣達が城の外で出迎えてくれた。
「那須修理大夫資晴にございまする。この烏山城に太閤殿下、相国様をお迎え出来た事、光栄に思いまする」
「おお、その方は那須与一の子孫じゃと聞いた。会えるのを楽しみにしていたのじゃ。宜しく頼むぞ」
太閤殿下の挨拶に那須修理大夫が顔を綻ばせた。色の浅黒い男だが笑うと白い歯が目立つ。しかしなあ、太閤殿下は甲冑を纏っている。
小田原城を見れば満足するかと思ったんだ。上杉輝虎と共に関東制圧を目指した殿下にとって小田原城は何とも目障りな城だった筈だ。今では朽木の城になった。小田原城で戦が終わるのを鷹狩でもして待つと思ったんだが奥州にまで行くという。止めろと言ったんだけどな、足手纏いにはならないと言って付いて来た。頭が痛いよ。
「修理大夫殿、宜しく頼む。朽木家と那須家は上杉家を通して繋がりが有る。会えるのを楽しみにしていた」
「畏れ多い事にございまする」
那須修理大夫が畏まった。
「太閤殿下、相国様、御久しゅうございまする、華にございまする」
俺と太閤殿下に挨拶したのは華だった。華は上杉景勝の妹で元は織田信忠の妻だった。死別後、修理大夫資晴に嫁いでいる。
「真、久しいのう。元気そうで何よりでおじゃるの」
「真に。華殿、元気そうな姿を見て安心した」
「畏れ入りまする。相国様、その節は色々と御配慮頂き有難うございました。心より御礼申し上げまする」
華は落ち着いた表情を見せている。夫婦仲は上手く行っている様だ。子供も二人いる。二人とも男子だから那須家における華の地位は盤石と言って良い。夫の修理大夫が嬉しそうにしている。妻が有力者と知り合いというのは大きいからな。
風間出羽守の報せに寄れば那須修理大夫の地位は必ずしも盤石とは言えない。那須氏は下野国那須郡の国人なのだが那須郡には他にも蘆野氏、伊王野氏、千本氏、福原氏、大関氏、大田原氏という有力者が居た。蘆野、伊王野、千本、福原は那須氏の一族、大関、大田原は那須氏の家臣だ。これに那須本家を入れて那須七騎、那須七党と呼ぶ。那須郡は大体八万石、そこに七つの有力者が居た。何となく高島七頭を思い出すな。
蘆野氏、伊王野氏、千本氏、福原氏、大関氏、大田原氏は独立性が強かった。東の佐竹、西の宇都宮氏と組んで那須本家を攻める事も有った。佐竹にとっても宇都宮にとっても一つに纏まっていない那須氏は旨そうな肉に見えたのだろう。両者は連携して那須を攻めた。那須氏にとって蘆野氏、伊王野氏、千本氏、福原氏、大関氏、大田原氏は獅子身中の虫のようなものだっただろう。上杉から華を迎えたのも那須七騎を抑え佐竹、宇都宮を抑えるためだ。
そして今、那須七騎で残っているのは那須氏を除けば蘆野氏、伊王野氏だけだ。千本氏、福原氏、大関氏、大田原氏は滅んだ。千本氏を滅ぼしたのは大関氏だが残りの福原氏、大関氏、大田原氏を滅ぼしたのは那須修理大夫だ。那須本家の力は強まったが福原氏、大関氏、大田原氏を滅ぼした事で蘆野氏、伊王野氏が不安に駆られている。それに福原氏、大関氏、大田原氏の遺領ではやはり反発が強いらしい。修理大夫にとっては朽木による天下統一は待ち遠しい事だろう。特に佐竹が滅んでくれれば万々歳に違いない。
「当家の重臣、蘆野日向守、伊王野下総守、金枝土佐守にございます」
名を呼ばれた三人が頭を下げた。
「おお、宜しく頼むぞ」
「那須家の勇名は聞いている。修理大夫殿を助けて目覚ましい武功を上げてくれ。期待しているぞ」
殿下と俺の言葉に三人が畏まった。
三人共ほっとしただろうな。特に蘆野日向守、伊王野下総守にはその想いが強いだろう。修理大夫が三人を重臣として俺と殿下に紹介した。それは今後も三人を重臣として扱っていくという事だ。修理大夫は三人に安心して自分に仕えろと言っている。だから俺も修理大夫殿を助けて頑張れよと言った。後は三人の働き次第だ。それなりに働けば修理大夫との関係も上手く行くだろう。働きが悪い様だと関係は悪化する。
城に入ると早速修理大夫から状況の説明をしたいと言ってきた。やる気満々、良い傾向だ。茶を貰いながら話を聞く事になった。
「この烏山城は常陸国那珂郡に極めて近うございます。相国様が七万の大軍を集めた事で佐竹は那珂郡に兵を集めております」
「蘆名を抑えるための兵と触れを出したのだが南の大樹と西の俺に攻められると見たか」
「その様じゃのう。ほほほほほほ」
いや、殿下、笑う所じゃないから。皆が困った様な表情で見ている。しかし悪い話じゃない。俺を気にしているという事はそれだけ南の備えが疎かになるという事だ。大樹は攻め易くなる。
「奥州に攻め込むとなれば如何か?」
「此処から奥州へ攻め込むとなれば白河郡でございますが白河郡は白河上野介義親が守っております。小峯城、そして廃城になっていた白河城を改修し兵を籠めております」
白河か、松平定信が白河を治めていたな。
「白河だけか?」
「はい」
おかしいな、援軍が無い。風間出羽守からもそういう報告が来たが如何もおかしい。白河は奥羽地方への出入り口だ。古来から白河の関として知られた程の要衝の地でもある。江戸時代にはその殆どを親藩、譜代大名が治めた。それ程の場所なのに援軍が無い?
「蘆名、伊達の動きは?」
「蘆名は迷っております。相国様の狙いが常陸なのか、白河なのか……。大繩讃岐守を始めとする佐竹より来た者達は常陸を唱え蘆名に古くから仕える者は白河が狙いだと主張し動けぬようにございます」
なるほど、迷っていると言うより分裂して動きが取れないのかもしれない。白河に蘆名の援軍が無いのはその所為か。
「伊達にございますが……」
「うむ」
「兵を米沢に集めておりますが動く気配はございませぬ。何度か伊達、蘆名の間で使者の遣り取りが有ったようでございますが……」
修理大夫が困惑している。伊達が裏切るかもしれないという噂が流れたのだろう。伊達が援軍を出そうとしたが蘆名が理由を付けて断ったのかもしれない。
さて、如何する。予定では奥州に攻め込む手筈だが……。




