懼れる者
禎兆八年(1588年) 二月中旬 志摩国英虞郡波切村 波切城 九鬼守隆
もうそろそろだろうか。いや軍の移動とは違うのだ、もう少しかかるのかもしれない……。父上がニヤニヤと笑っているのが見えた。いかん、またからかわれる……。
「少しは落ち着かぬか」
来た。
「落ち着いております」
答えると父上がフンと鼻で笑った。
「落ちついておらぬわ。そわそわとしおって。美しい嫁が来るので気もそぞろか」
父上が笑いながら膝を叩く。笑われて顔が火照った。落ち着かねばならん。落ち着け、落ち着くのだ、九鬼孫次郎。
「養女とはいえ朽木家の姫を娶るのです。気になるのは当然でしょう」
上手く言えた。父上がまたフンと鼻を鳴らした。
「相も変わらず口だけは達者だな、孫次郎。戦の方もそうなって欲しいものだが」
「おいおい覚えて行きます」
「女子の方もな」
「……」
「期待しているぞ、九鬼孫次郎。戦も九鬼家の世継ぎもな」
また父上が笑いながら膝を叩いた。
「務めます。なれど期待はされても働きを示す場に恵まれるかどうか……」
天下は統一へと向かっているのだ。大殿は次の関東遠征では関東だけでなく奥州にも兵を進めるとも聞いている。そして今年の正月、奥州の大名達の多くが近江に使者を寄越した。その者達は大殿の天下を認めているのだ。我ら九鬼氏の力が必要になるような戦が有るとも思えない。その事を言うと父上が“フフフ”と含み笑いをした。
「使者を出した? 様子見という事もあろうよ。そもそも天下を統一すれば戦は無くなると思っているのか?」
「違いましょうか?」
「甘いなあ、孫次郎」
また父上が含み笑いを成された。もっとも眼は笑っていない。冷たい目で私を見ている。
「対馬が朽木家の直轄領になった事、そこに我らが配された事を過小評価してはならん」
「……朝鮮と戦になると?」
父上が“それは分からん”と言うとぐっと身を乗り出して私を見た。気圧される様な感じがした。仰け反りそうになるのを懸命に堪えた。
「しかしな、朝鮮にしてみれば不快だろうよ。そうは思わぬか?」
「それには同意しますが……」
戦になるかどうかは別だろう。大殿は対馬の宗氏を筑後に移す事で断固とした姿勢を示された。宗氏を移すだけの力が有る事、対馬を支配しているのが大殿である事を朝鮮に示したのだ。どれほど不快であろうと朝鮮はそれを認めざるを得ないだろう。その事を言うと父上が鼻で嗤った。
「琉球が日本に服属した」
「はい」
「天下統一が近付くにつれ日本の力を懼れる者が出始めたという事だ」
「……朝鮮が日本を懼れると?」
父上がフンと鼻を鳴らした。
「朝鮮だけでは無いわ。琉球も朝鮮も明に服属しているのだ。徐々に日本が琉球、朝鮮を圧し始めたと知れば明は如何思うかな? 隣国が強大になって楽しいと思うか?」
「なるほど、琉球と朝鮮は日本と明の境目ですか」
私の言葉に父上が頷かれた。境目の者は強い方に付こうとする。その事が家の存続に繋がるからだ。琉球は周囲を海に囲まれている。琉球が日本に服属したのは明に琉球を救う力が無い、有力な水軍が無いと見たからだろう。一方朝鮮は明と地続きだ。明の力の方が日本よりも強いと見ている。
「これからは国内よりも国外の方が厄介と大殿は見ておられるのだ。我らが対馬に配されたのもそれが理由だろう」
「……大殿は明に攻め込むつもりは無いと仰られたと聞きます」
父上が声を上げて笑われた。
「向こうが攻めてくるかもしれぬではないか」
「……」
「孫次郎よ、良く覚えておけ。戦というのはな、その方が考えているよりももっと簡単に、他愛もない理由で起きるのだ。だからこそ日頃から用心せねばならん」
「はい」
やれやれだ、戦は好きではないのだが……。
「失礼いたしまする」
部屋の外から声がした。豊田五郎右衛門が入って来た。
「周姫様、御到着にございまする。只今御休息所に御案内致しております。三郎右衛門様が此方に参られますれば御出迎えの御準備を」
父上が“分かった”と答えると五郎右衛門が下がった。父と共に下座に控えて待った。
どうも今一つ好きに成れぬ。五郎右衛門が力量のある男である事は分かっている。私を支える者として父上が見込んだ男だという事も。姉を娶り義兄にもなった。だが目鼻立ちの整った冷たい印象が如何も気に入らない……。トントントントンと足音がした。三郎右衛門様か、父と共に頭を下げて待った。部屋に入って来た、座るのが分かった。
「顔を上げてくれ」
顔を上げると上座に三郎右衛門様が居られた。入り口には千種三郎左衛門殿、黒田休夢殿が座っている。
「此度は三郎右衛門様に御手数をお掛けしました事、真に持って恐懼の限りにございまする」
父上が改めて頭を下げたので私も下げた。不思議だ、普段は礼儀作法など無視する父上がこういう時はそつなくこなす。
「俺にとって周殿は姉だからな、当然の事だ。本当なら次郎右衛門兄上が行列を宰領すべきなのだが兄上も弓姫を迎え入れる準備が有る。という事で俺の役目となった。この婚儀で朽木家と九鬼家は親戚となった。目出度い事だ」
「畏れ入りまする」
親戚と言っても朽木家は主家、九鬼家は家臣だ。だが結び付きが強まったのは間違いない。
「孫次郎は義兄だな。以後は昵懇に頼む」
「畏れ入りまする」
周囲から笑い声が上がった。三郎右衛門様は無口な御方と聞いていたがそうでもないらしい。
「姉上の事は父上よりも母上の方が可愛がっていてな、後々母上に一筆入れておいた方が良いだろう」
「はっ、御教示、有難うございまする」
周殿が御台所様のお気に入りという話は聞いていたが事実であったか。悪くない、御台所様は大樹公の御母君でも有られるのだ。
「ところで宮内少輔」
「はっ」
「父上から書状を預かっている。これだ」
三郎右衛門様が懐から書状を出した。黒田殿が近寄って受け取り父上に取り次いだ。父上が書状をじっと見ている。この婚儀に関わりの有る事だろうか? それならば私宛てでも良い筈だが……、やはり半人前と見られているのだろうか……。
「この場にて拝見しても構いませぬか」
父上の問いに三郎右衛門様が頷かれた。
「目出度い席にはそぐわぬ内容が書かれている。無粋は許して欲しい」
「では拝見仕ります」
父上が書状を読み始めた。表情が険しい。読み終わると書状を懐に納めた。私には……。
「確と承りましたと大殿にお伝えください」
「うむ」
チラッと三郎右衛門様が私を見た。それに気付いた父上が“倅には某から後程伝えまする”と答えた。なるほど、三郎右衛門様の前では言い辛い事でもあるのかもしれない。
その後、少し話をしてから三郎右衛門様が周殿の元に戻られた。
「父上、先程の書状には何が?」
訊ねると父上が“うむ”と唸られた。
「伴天連共の間でな、九州にイスパニアの軍船を呼び寄せようという意見が有ったらしい」
「伴天連が?」
思いがけない事だ。何故軍船を?
「有馬、大村が潰れ大友も没落した。坊主共が伴天連達の非道を訴え煩いらしい、苦しいようだな」
「それで軍を?」
「まあそういう事だ。力を示す事で相手を威そうと考えているようだ」
「馬鹿げております。そのような事をすれば大殿が如何思われるか……」
何も分かっておらぬ。一向宗や比叡山に対する対応を見れば許される筈が無い。比叡山は漸く再建を許されたが焼き討ちされてから二十年以上が過ぎてからの事だ。……父上が小首を傾げている。“父上?”と問い掛けると“ふむ”と鼻を鳴らした。
「孫次郎よ、伴天連共が本当に脅そうと考えたのは大殿かもしれんぞ」
「……まさか」
思わず呟くと父上が低く笑い声を上げた。
「そのまさかよ。あの者共、南方ではかなり阿漕な事をしたと聞く。海千山千の強か者よな。威すのであれば下っ端よりも一番上をと思ったかもしれぬ。その方が効果的であろう?」
「……」
分からぬでもない。しかし、本気だろうか? 大殿を相手に駆け引きを?
「まあそういう話が出たというだけだ。今すぐ攻めて来るというわけではない。だが用心が必要だと書状には書かれてあった」
「なるほど」
そうだ、話が出ただけだ。伴天連共もそこまで愚かではあるまい。
「大殿は伴天連共と坊主共を近江に呼んだそうだ。争いを治めるためだが坊主共にも伴天連共にも甘い顔をするつもりは無いと書いて有った。伴天連共は不満に思うだろうな」
「では?」
問い掛けると父上が大きく頷かれた。
「戦が起きるかもしれん」
「……」
「こうなって来ると今回の婚儀、重みを増すな」
「と申されますと?」
父上が大きく息を吐いた。嫌な事をする。
「困ったものよ。九鬼は大きくなった。その所為でその方は生きる事の厳しさを知らぬ」
「そんな事は……」
無い、と言いかけて口籠った。父上が厳しい眼で私を睨んでいる。
「良く聞け、九州が戦場になるとすれば海では我等、陸では毛利が動く事になる。そなたの嫁御は毛利の重臣の娘で朽木家の養女でもある」
「はい」
「それに次郎右衛門様は毛利家の弓姫様を娶られた。大殿は九州で変事が起こっても対応出来るだけの態勢を整えられたという事だ。だから伴天連共にも厳しく出ると言えるのよ」
なんと、そんな意味がこの婚儀に……。
「しかし、本当に戦が起きるのでしょうか?」
問い掛けると父上がフフンと鼻で嗤った。
「言ったであろう。戦というのはな、その方が考えているよりももっと簡単に、他愛もない理由で起きるのだ」
「……」
「朝鮮、明、イスパニア、伴天連か。戦の種は無くならんわ」
父上が嬉しそうに笑い声を上げた。戦は嫌いなのだが……。
禎兆八年(1588年) 二月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「その者共は大友、有馬、大村を唆し寺社、仏閣を破壊したのでございます!」
“そうだ”、“そうだ”と声が幾つも上がる。それを聞いて発言した坊主が満足そうに頷いた。そして伴天連共を睨み付ける。憎悪の籠った眼だ。誰だっけ、この坊主。確か真言宗の坊主だったような気がする。名前は満延とか言ったな。多分寺を壊されたのだろう。
「そのような事実はございませぬ。私達は唆す様な事はしておりませぬ。デウスの教えを説いただけにございます」
流暢な日本語だ。当然だよな、話しているのは日本人、ロレンソ了斎だ。この時代、イエズス会の日本での活動を調べれば必ず出て来る名前だ。
「同じ事ではないか!」
怒鳴り声を上げたのは良憲という五十代の坊主だった。こいつは天台宗の坊主だ。
「汝等は自分達の教えが正しい、他の教えは邪宗であると言って領主を唆した! 日向で何をやった! 知らぬとは言わせぬぞ!」
また“そうだ”、“そうだ”と声が幾つも上がった。別に切支丹だけの専売特許じゃないだろう。坊主共だって同じ事をやってるじゃないか。それにしても煩いな。
「静まれ!」
命じると大広間がシンとした。大広間の左右には朽木の重臣達が控えている。そして中央には坊主、神官、伴天連が居た。と言っても伴天連は三人、その他は三十人程居る。当初の目論見では肥前の坊主、神官だけの予定だったんだが俺が仲裁すると聞いて他の土地からもやってきた。豊前、豊後、日向からだ。
天台宗、法華宗、真言宗、臨済宗……、最初は百五十人以上居たんだが多過ぎるから減らせと言って三十人程になった。普段は仲が悪いんだが共通の敵が居るから仲良くなったらしい。そういう意味では伴天連達にも存在意義は有るだろう。伴天連側の三人はグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・フロイス、ロレンソ了斎だ。
「そう騒ぐな、怒鳴るな。大声を出さずとも聞こえる。俺も、其処の伴天連達もな」
坊主、神官達がバツの悪そうな顔をした。こいつら普段読経で鍛えているから声がでかいんだ。
「恨まれているなあ、宇留岸伴天連」
俺の言葉にグネッキ・ソルディ・オルガンティノが表情を曇らせた。日本では宇留岸伴天連と呼ばれて人気が有る。性格の良さそうな男だ。但し、カトリックの為なら何でもやりそうな所が有る。そこは信じられない。
「フロイスよ、昔その方に言った事が有るな。宗教に携わる者が人の心を救わず権力者に取り入る事、悪徳に耽り財貨を貪る事、人の心を惑わし唆し領主に背かせ自らが権力を持つ事は許さぬと。どうやらその方等は余り重く受け取らなかったようだな」
伴天連側の三人がバツの悪そうな顔をしている。あの頃は未だ畿内から北陸で数カ国を領するだけだったからな。重く受け止める筈が無いか。権力者と結び付いて布教を行う。楽なのだ。直ぐに成果が出るから楽しい。
「伴天連達はそれに背いたのでございます!」
良憲がまた喚いた。叡山の再興を許したからな、俺が仏教に寛容になったとでも思っているのだろう。鼻息が荒い。
「それは誤解でございます。私達は財貨を貪ってなどおりませぬし権力者に取り入る事もしておりませぬ。ただデウスの教えを説いただけにございます」
オルガンティノが反論したが“ふざけるな”、“嘘を吐くな”と坊主、神官達が反論した。煩いわ、もう一度“静まれ”と怒鳴った。
「残念だが俺も信じる事は出来ぬな。その方等が大友、有馬、大村の領地、日向で行った事は許せる事ではない。だがその事は九州が朽木の支配下に入る前の事だ。そして大友は減封し有馬、大村は滅びた。その方等は庇護者を失ったのだ。それを以って罰としよう」
“畏れながら”と坊主が声を出した。不満らしい。“未だ話は終わっておらぬ”と言って黙らせた。
「改めて申し渡す。以後は権力者に取り入る事、悪徳に耽り財貨を貪る事、人の心を惑わし唆し領主に背かせ自らが権力を持つ事は許さぬ。確と心得るように」
「仰せの通りに致しまする」
オルガンティノ達が頭を下げた。ホッとした様な表情をしている。布教を禁止されるとでも危惧していたのだろう。そんな事はしない。だが未だ終わりじゃないぞ、此処までは第一幕だ。第二幕が有る、こっちが本番だ。だから坊主共、そんながっかりした様な顔をするんじゃない。




