酒と女
禎兆七年(1587年) 九月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 雪乃
溜息が出ました。万千代の元服が決まりました。そして琉球に行く事が決まったのです。行けば半年は戻ってこないでしょう。言葉も通じない琉球で半年を過ごす、あの子にそれが耐えられるのか……。大殿からの文には万千代が自らそれを望んだと書いて有りますが不安だけが募ります。
如何して母に一言相談してくれないのか、そう思う反面一人で決断した事を尊重するべきではないかとも思います。先日までは琉球へ行くことに決して乗り気では無かった筈、一体何が万千代の心を変えたのか……。気が付けばまた溜息を吐いていました。
「雪乃様」
侍女がおずおずと声をかけてきました。溜息を吐いてばかりの私を案じたのでしょう。“大丈夫です”と答えると侍女が気まずそうな表情をしました。
「いえ、そうでは有りませぬ。御台所様がお見えでございます」
「まあ」
“お邪魔しますよ”と言う声と共に御台所様が部屋に入って来ました。後ろには真田の恭が居ます。慌てて下座に控えました。恭は私の更に下座に控えました。
御台所様が上座に座られ挨拶を交わすと侍女が御台所様と私に御茶を用意しました。御台所様が一口お飲みになるのを待ってから私も御茶を頂きました。良い香りです、心が癒されます。
「万千代殿の元服が決まったそうですね」
「はい」
返事をすると御台所様が頷かれました。多分御台所様の所にも大殿から文が届いたのでしょう。
「琉球に行くとか、不安では有りませぬか?」
「不安はございます。琉球がどのような国かも分からぬのですから」
御台所様が“そうですね”と言って頷かれました。
「止めますか?」
「それは……、致しませぬ」
一瞬だけ迷いました。そんな私を御台所様が労わる様に見ています。
「男の子はあっという間に大人になってしまいます。そして母親の元から離れてしまう。寂しい事です、昨日までは未だ子供だったのにと思う事も少なく有りませぬ」
「大樹公の事でございますか?」
御台所様が首を横に振られました。
「三郎右衛門です。元服を済ませ九州から戻ってきたら随分と大人びていました」
「……」
三郎右衛門様、無口で滅多に心の内を明かさぬと評判の若君。譜代の老臣達からは御顔立ちも含めて大殿の御若い頃に一番似ているとも評されています。
「昔の事ですが大方様から伺った事が有ります。大殿は朽木家の当主に成るとあっという間に大人びてしまって如何接して良いのか分からなくなってしまった。結局は朽木家の当主として接する事しか出来なくなってしまったと。酷く御寂しそうでした」
「まあ、そんな事が……」
私の言葉に御台所様が頷かれました。
「男の子というのはそういうものなのでしょうね。己の進むべき道、立場を理解すると年には関係なく子供では無くなってしまう」
「……そうかもしれませぬ」
「私達母親はその変化が突然過ぎて戸惑ってしまうようです」
「左様でございますね」
本当にそう思います。
「でも安堵致しました」
安堵? 御台所様はニコニコしておられます。
「雪乃殿が万千代殿の琉球行きを止めようと考えていたらどうしようと思っていたのです。此処に来るまでも有りませんでしたね」
「いいえ、そのような事は有りませぬ。迷っておりました。いえ、今でも迷っております。でも受け入れるしかないのだとも思っております」
御台所様が“そうですね”と頷かれました。
私は大殿の子を産みました。私の子は大殿の子であるという事実からは逃れられぬのです。竹は上杉家に嫁ぎ鶴は近衛家に嫁いでいます。大殿の娘でなければそんな事にはならなかったでしょう。万千代が如何いう一生を送るのかは分かりません。ですが万千代も大殿の子であるという事実からは逃げられぬのです。その事を背負って生きて行くのでしょう。
禎兆七年(1587年) 九月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
久し振りに近江に戻ってきた。先ずは壺を磨く。赤褐色の織田焼からだ。キュッキュッと下から磨く。寂しかったか? 俺も寂しかった。槙島城にも壺を置こう。不便だ。俺の精神を安定させるためには壺が必要なのだ。琉球の使節との話は纏まった。向こうは喜んでいたな。これで安全保障も交易も問題無し、そんな感じだ。人質が来るのは来年だ。
人質を出すなんて思い切った事をすると思ったが当代の琉球王、尚永という人物には男子がいないらしい。人質は尚永王の甥に当たる人物、琉球王家の分家の家に生まれ母親が尚永王の妹という素性の人物が来るそうだ。名前は尚寧。道理で人質を出すのに躊躇いが無い筈だよ。
尚永王が死ねば尚寧が次の琉球王になる可能性はある。有力な候補者だろう。そういう意味ではこちらを軽視しているとは言えない。だが尚永王は未だ二十代だと聞いた。これから子供が生まれる可能性は大いにある。むしろ現時点で男子が居ない事を喜んだかもしれない。尚寧が人質としてどれだけ役に立つのか、ちょっと不安だ。
いざとなれば捨て殺しというのも有り得るだろうな。上手く嵌められたかもしれん。琉球は強かだわ。壺の口の部分を磨く。此処は丁寧に磨くのが大事だ。雑に扱うと破損しかねない。良し、終わりだ。次は黒灰色の珠洲焼だ。この色がまた渋いんだ。ぞくぞくする。
琉球には天下統一後には朝鮮との国交樹立を目指すと伝えてある。場合によっては明を利用する事も有る。日本の立場を明に伝える役割を琉球に果たして貰う事になるかもしれないと伝えた。琉球の使節からは交渉が上手く行かなかった場合朝鮮との戦争を考えているのかと質問が有ったからそんな事は考えていないと答えた。
まあ一つの手段として戦争を仕掛け和平交渉を行う事で国交を結ぶというやり方も有る。琉球はそれを危惧したようだ。日本、朝鮮の関係が悪化すれば日本と明の関係も悪化しかねない。それは避けたいと思ったのだろう。安心したようだ。琉球側はこちらの要求を受け入れた。まあこれまでも琉球は明に日本の事を報せているようだ。朝貢船は二年に一度、明に出している。その時に報せているらしい。
明は足利が滅んだ事、そして日本に新たに統一政権が出来つつある事も知っているだろう。もっとも明が何処まで日本に関心を持っているのかは分からない。琉球の使節も分からなかった。何と言っても皇帝は遊びに忙しいからな。明からは琉球に対して日本を調べろという様な命令は無かったようだ。琉球にとっては不満だろう。日本を上手く使えば東アジアの海はより安定すると思った筈だ。琉球が日本に近付いたのはそういう明の無関心さに不安を感じたという事も有るのかもしれない。
政府レベルでの交流とは別に民間の商船を使って日本の状況を報せるルートも琉球には有る様だ。琉球には明の商人が多く訪れている。これを使ったルートだ。琉球に来るのは主に福建、広東、浙江の商人らしいがこの商人達の中で昔から琉球に来ているのが福建の商人だ。彼等を使って福建の役人、巡撫に報せるルートが有る。もっともこの民間ルートの情報も何処まで明の上層部に関心を持たれているかは分からない。
この福建、広東、浙江の商人は日本にも来る。九州は坊津、博多、平戸、長崎。本州では赤馬関、美保関、堺、小浜、敦賀等だ。最近では大湊にも来るようになった。琉球が形としては対等の関係を望んだのはこの商人達の眼を欺くというのも有るだろう。おそらくこの連中からも情報は福建、広東、浙江の役人を通して明の上層部に流れているのだろう。役に立っているとは限らないが。
悪い事じゃない、無知であるよりは余程に良い。それにいざとなれば彼らを使って交渉も出来るという事だ。こちらも明の商人と積極的に繋がりを持つべきだろう。琉球だけに依存するのは危険だ。徐々にだが環境が整ってきたな。柳川権之助調信、柚谷半九郎康広も俺に仕えてくれることになった。西笑承兌、景轍玄蘇も後は琉球から人質が来て天下統一が成れば朝鮮との交渉を本格的に行うべきだと言っている。……うん、珠洲焼も終わりだ。次は丹波焼きだ。このおとなしめで爽やかな若緑色、堪らん。
環境は整ってきたが不安要素は有る。朝鮮王、李昖という人物だがこいつの評判が良くない。儒教を非常に重んじているようなんだが妙に権威主義で気紛れな所が有るようだ。感情に任せて家臣を処罰する事も多いらしい。政務にも熱心じゃなく朝鮮の内部は家臣達の政争が激しくて収拾が付かない状況になっているらしい。朝鮮王李昖には分裂する家臣達を纏める力量は無いのだろう。朝鮮王も朝鮮の家臣達も交渉相手として相応しいとは言えない。果たして連中に何処まで現実が見えているか、現実的な対応が出来るか、疑問では有る。
取り敢えず一発目の親書を出そうという話になった。内容は足利が滅び朽木がもう直ぐ天下を統一するであろう事。その後は日本と朝鮮の国交を樹立したいと考えている事。両国は協力出来るし協力すればお互いに利益が有ると考えている事。そんな事を記したものになる。
まあ一発目で上手く行く事は無いだろう。大体親書を受け取って貰えるかどうかも分からない。朝鮮王は権威主義者だし家臣達は分裂して混乱している。この状況で親書を受け取って国交を結ぼうとは言えるだろうか? 無理だ、内で混乱している分外には強く当たろうとするだろう。だがね、朝鮮側にも弱みは有るのだ。
ここ最近倭寇が朝鮮半島沿岸を激しく荒しているらしい。博多に置いた石田佐吉から報告が入っている。倭寇とは言っているが明人の倭寇も有るようだ。万暦帝の悪政で食えない連中が海賊になったのだろう。そして九州では大友、龍造寺が滅んだ事で食えなくなって倭寇になった連中が居る。まあいざとなったら官制の倭寇を使って朝鮮を交渉に引き摺りだそうとしていた俺にとってはラッキーな展開だ。自分の手を汚さずに済む。
朝鮮の海はこれから更に荒れる。これまでは対馬の宗氏を倭寇対策に使えた。だが俺が宗氏を内陸に移したから朝鮮には使えるカードが無いのだ。倭寇を抑えようとすれば俺と手を組むしか無い。西笑承兌達が朝鮮との交渉に乗り気なのもその辺りを考えての事だ。紆余曲折は有っても最終的には上手く行く、成算は有ると彼らは見ている。俺も簡単には行かないと思うが可能性は有ると見ている。その可能性をモノにするためにも朝鮮のドアを叩き続ける事が必要だ。最初の使者は年内には出す事になる。
万千代を元服させなければならん。名前は如何しよう? あれはちょっと感じ易い所が有るようだ。自分の名に誇りを持てるような名が良いだろう。則綱、規則を守らせる。ちょっと堅苦しいかな? 景綱、見晴らしが良い。悪くないけど今一つだな。照綱というのは如何かな。周囲を明るく照らすという意味だ。うん、照綱にしよう。四郎右衛門照綱だ。烏帽子親は主税に頼もう。雪乃も喜んでくれるだろう。後は嫁取りだな。
三郎右衛門の嫁が決まった。相手は権大納言今出川晴季の娘だ。そして竹田宮の正室の妹でもある。三郎右衛門の嫁捜しは北畠の義叔母に任せていたんだがその義叔母が今出川晴季の娘をと進めてきた。驚いた事に今出川家には六角家の血が入っているらしい。今出川晴季は義叔母の従甥に当たるそうだ。吃驚だわ。
詳しく言うと義叔母の叔母に当たる女性、つまり管領代六角定頼の妹が今出川晴季の祖父に嫁いだようだ。義叔母としては六角の血を引く女性をと思っただろうが該当者がいない。已むを得ずそれなりの身分の女性と考えて公家から嫁をと考えたらしい。そこで今出川家に叔母が嫁いだ事を思い出した。幸い今出川家は竹田宮にも娘を嫁がせている。家柄も良いし朽木との関係も良い。是非にと進めてきた。
まあこちらとしては異存は無い。義叔母に今出川家との交渉を頼むと直ぐに纏めてきた。今出川家も異存は無いのだろう。婚儀は再来年だ、来年は関東出兵で忙しいからな。婚儀前に六角家を継承させる。つまり六角三郎右衛門滋綱として妻を娶る事になる。九州への配置はその後だ。今出川家の娘を娶るのだ、そして竹田宮の義弟にもなる。益々近江には置けなくなった。小夜は三郎右衛門の相手が決まった事には喜んでいるが九州への配置には複雑な表情だ。可愛がっているからな。素直には喜べないのだろう。
延び延びになっていた那古屋城の見分に行かなくてはならん。それと奥州の諸大名に文を出す。来年関東に兵を出す、その場に挨拶に来ない奴は敵だと見做すとな。さて、壺磨きは終わりだ。次は豊千代の顔でも見て来るか。忙しいわ。
禎兆七年(1587年) 十月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 雪乃
大殿が巻いてあった紙を広げました。そこには照綱と書かれています。
「名を照綱とする。周囲を明るく照らすという意味だ。皆から頼られるだろう、そのような男になれ」
「はい、有難うございまする。名に恥じぬように努めまする」
大殿が“うむ”と頷かれました。満足そうに笑みを浮かべられています。
「以後は四郎右衛門と称するが良い」
「はい」
“おめでとうございまする”という声が上がりました。万千代、いえ四郎右衛門が顔を綻ばせています。直垂に烏帽子、初々しさは有りますが幼さは有りません。もう子供ではないのだと思いました。
「四郎右衛門、これを取らせる。冬廣の脇差だ」
大殿が差し出すと四郎右衛門が“有難うございまする”と言って押頂きました。
「目出度いな、雪乃」
「はい、有難うございまする」
「四郎右衛門に言葉を掛けてやれ」
“はい”と答えましたが何を言えばよいのか……。四郎右衛門が私を見ています、胸に込み上げて来るものが有りました。
「精進するのですよ」
「はい」
「身体に気を付けなさい」
「はい」
声が震えました。涙を堪えるのが精一杯です。これ以上は言葉など掛けられそうにありません。見兼ねたのでしょう、大殿が“四郎右衛門、母の想いを疎かにするなよ”と言って下さいました。
元服の式が終わると改めて四郎右衛門と共に大殿への御礼言上に伺いました。大殿は自室で朽木主税様と寛いでいらっしゃいました。四郎右衛門の元服式では主税様に烏帽子親を務めて貰っています。親族でもあり重臣でもあり幼馴染みでもある主税様が烏帽子親なのです。四郎右衛門を軽視していないという配慮なのでしょう。
改めて大殿、主税様に御礼を言上すると御二人が“良い式だった”、“真に”と仰って下さいました。
「四郎右衛門、琉球に行く前に氣比神宮に行って来る事だ。大宮司殿も待っておられよう」
「はい」
「雪乃も一緒に如何だ? 遠慮は要らぬぞ」
「では御言葉に甘えさせて頂きまする」
氣比神宮では四郎右衛門の無事を祈って来ようと思いました。
「元服した以上、もう子供ではない。これからは大人として扱う。良いな」
「はい」
四郎右衛門が力強く答えると大殿が頷かれました。
「琉球の使節はその方が琉球に行く事を喜んでいる。人質を出す前に朽木から俺の息子が琉球に行くのだ。琉球を重んじている、そう受け取っている」
四郎右衛門が表情を曇らせました。自分の琉球行きが変に受け取られていると思ったのかもしれません。そんな四郎右衛門を見て大殿が声を上げて御笑いになりました。
「まあそれは良いのだ。俺が琉球を重視しているのは事実だからな。琉球もその方を重視するだろう。その方を懐柔しようとする筈だ。気を付けろよ」
「はい」
「特に女だ」
「は?」
四郎右衛門が眼を瞬いています。それを見て大殿がまたお笑いになりました。
「若い男というのは色に弱いからな」
「大殿」
私が止めようとすると大殿が“大事な事だ”と仰られました。それは分かります。でも母親としては余り好ましい話題では有りません。主税様に視線を向けましたが苦笑しています。止めてくれそうには有りません。
「女が近付いてきたら探りに来たと思うのだな。心の中に入られるなよ」
「はい」
「それと酒だ。勧められても飲むな。下戸で身体が酒を受け付けぬと言って断れ」
「はい」
「酒と女、男が失敗するのは大体がその二つだ。気を付けろよ」
「はい」
四郎右衛門が大きく頷きました。理解しているのかしら……。




