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民が見えておらぬ者

数日前、活動報告でお知らせしましたが『淡海乃海 水面が揺れる時』 第一巻の再重版が決まりました。御買い上げ頂いた方には本当に感謝します。

再重版ではサイン本を百冊用意します。TOブックスのオンラインストアで8月2日(木)12時(正午)~8月8日(水)までの限定販売です。発送は9月下旬になるそうです。

TOブックスのオンラインストアの注文画面には『TOブックスのオンラインストア限定特典・書き下ろし短編付き!』と書いてありますがこれは第一巻発売時に出した山内伊右衛門と山口新太郎の仕官のSSです。新たなSSではありませんので注意してください。




禎兆七年(1587年)    八月下旬      山城国葛野郡  一条邸  朽木基綱




「随分と京に居られますが?」

「決めなければならない問題が有りますので……」

「殿方は大変です事。ですが宜しいのですか?」

「……」

悪戯っぽい笑みを浮かべて俺を見ているのはこの屋敷の女主人、春齢内親王だ。俺と同い年だから四十歳に近いのだが未だ二十代後半ぐらいに見える。


「最近は左大臣殿も忙しいようです」

「御迷惑をお掛けしております」

「お気になされますな、それが仕事ですから。それに相国様も大変な筈」

そう言うと内親王が柔らかい笑みを浮かべた。いや、まあそうなんだけどね。でも如何なんだろう? 女にとって亭主が忙しいのは嬉しいのかな? それとも不満? 良く分からん。


「近江では相国様の御帰りを今日か明日かと待ちかねておられる方もお有りなのではありませぬか」

「戦ともなれば半年や一年は留守にする事も珍しくありませぬ。皆、慣れておりましょう」

“まあ”と声を上げた。眼を瞠った表情が可愛い。

「武家は殿方だけでは無く女人方も大変ですね」

「……」

なるほど、家臣の事じゃなく女達の事か。確かに帰ると色々と大変なのは確かだ。寂しいと甘えて来るし子供の事の相談も有る。大体十日間ぐらいは表の仕事よりも家族サービスの方に気を遣う。


国書問題は佳境に入った。帝も院も俺が琉球を従属させたいと考えている事は知っている。簡単だとは思っていなかったようだが琉球からは使者が来ているのだ、それなりに順調に進んでいると思っていたらしい。従属は無理でも使者が来れば謁見が有る。朝廷の存在を皆にアピール出来る。それだけでも十分だという思いも有ったようだ。


だから実際に琉球が従属したいと言ってきた事には驚いたし非常に喜んだ。喜んだが親書の宛先は俺になっていると聞いて訝しんだ。不満にも思っただろう。だが太閤殿下達の説明を聞いて帝、院は随分と驚いたらしい。冊封体制の厄介さも有るが明の皇帝が暗愚である事が今回の従属に絡んでいる。明は当てにならない、場合によっては滅ぶかもしれないと琉球は危惧している。その事に吃驚したようだ。要するに帝も院も東アジアの国際情勢を初めて理解したわけだ。驚天動地だっただろうな。


急遽俺が呼ばれた。事を公にしたくないという事で夜中に参内して帝、院に拝謁した。深夜の極秘会談だ、こっちも驚天動地だ。緊張したわ。親書を突き返す事は可能かと問われた。可能だがその場合は日本と琉球の関係は断絶状態になる恐れがある。そうなった時、今は天下統一を優先するが将来的には琉球を征服しなければならなくなる事を理解して欲しいと訴えた。


近年、日本の近海に南蛮の船が現れるようになった。南方では南蛮の勢力下に入った所も有る。日本に隙が有れば当然だが彼らは日本の征服を目指すだろう。その時、根拠地として使われ易いのが琉球だ。琉球を拠点に九州から徐々に北上する。それを防ぐためには琉球を直接日本が支配するか日本に友好的な勢力が琉球を支配している事が必須になる。そしていざという時は琉球を助けられる体制が必要だ。朽木が琉球との関係を重視しているのは交易だけでは無く日本の安全を維持するためでもある。


帝も院も驚いていたな。“元寇の様な事が起きるか”なんて言っていた。これまでは国内が統一され安全になればと願っていた。実際に朽木がそれを実行しつつある。朽木は朝廷への奉仕に熱心だ。ほっとしただろう。だが日本国内だけが世界ではないのだ。日本の外にも世界が有る。


史実では琉球は島津に征服された。もし征服されなければどうなっただろう? ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの植民地になった可能性が無いとは言えない。そうなれば日本は大騒ぎになっただろう。海防への関心がより早い時点で高まった可能性は有る。むしろその方が日本にとっては良かったかもしれない。黒船騒ぎは起きなかった歴史も有り得ただろう。難しいかな?


日本は島国である以上、侵略者は海から来る。その事を理解しなければならない。制海権の確保を何よりも重視しなければならないのだ。帝も院もその事を理解した。日本の安全保障問題に初めて向き合ったと言える。それは俺にも言える事だ。これからは九鬼、堀内、若狭の水軍だけじゃなく九州、四国、瀬戸内の水軍も強化する必要が有る。早急に取り掛からないと……。


その場では答えは出なかった。帝、院の間で何度か話し合いが持たれた様だ。太閤殿下達が呼ばれる事も有ったらしい。そして出た結論が親書を受け入れるだった。琉球は明に従属している以上、他国の臣下である。帝が直接国書の遣り取りをする者に非ず。要するに明の臣下なのだから帝の臣下である俺が書を受け取るのが道理であるというわけだ。


なるほどと思ったわ。これなら帝の面目も保たれる。いや帝の権威がより上がる。帝は琉球王、朝鮮王よりも一段上になるのだ。上手い事を考えるものだと思ったよ。もっとも謁見はこれまで通り続ける事になった。やはりあれは楽しいんだろうな。それと国書については帝が直接受け取る、差し出すのは控えた方が良いんじゃないかという意見も有ったようだ。後々責任が生じる様な事は避けるべきだという事らしい。


まあ面倒な事は皆こちらに丸投げという事だな。不満は無い、君臨すれど統治せず、国の象徴とはそういうものだ。もっとも国書を受け取るのも出すのも俺で良いが必ず帝にもそれを見せるという事を条件に付けた。帝の諒承を得ている、日本国として行うという形式を整えるためだ。そして今、一条左大臣が廟堂で公卿達に説明している。帝の御内意も有るのだ。反対する者は居ないだろう。


屋敷がざわめいている。春齢内親王がニコッと笑みを浮かべた。

「戻って来たようですね」

「はい」

すっと彼女が立ち上がった。部屋の外に出て行く、多分迎えに出るのだろう。少しして左大臣一条内基が春齢内親王と共に現れた。

「留守中、御邪魔しております」

座るのを待ってから挨拶すると左大臣が首をゆるゆると振った。


「いやいや、呼びたてたのは当方。待たせたようでおじゃるの」

「左程の事はございませぬ。それで、首尾は如何でございましたか?」

位階は俺の方が上なんだが左大臣の方が宮中では先達だし朝議のトップだ。此処は下手に出よう。宮中の事は公家を立てる、それが原則だ。

「多少煩い事を言う者も居た。事前に話を聞いておらぬという不満からでおじゃろうな。しかしこの件は帝の御内意も有る。皆も納得した。琉球、朝鮮の事は相国が受け持つ事となった」

つまり琉球の服属を受け入れる。俺宛の親書も認めるという事だ。そしてこの件は朽木が勝手にやっている事では無く日本国としてやっているという事になった。これで後々あれは無効だと言われずに済む。外に向かうには内を固める必要が有るのだ。


「有難うございまする。では此方にて琉球王への書状を(したた)めまする」

「うむ。……それにしても不思議でおじゃるの。妻の縁で相国に土佐の事を頼んだがまさかこのような事になるとは……」

「真に」

俺も同感だ。まさかという思いは俺にも有る。従妹姫の内親王宣下も朽木に利が有る、いずれは嫁ぎ先が朽木の味方になってくれると思ったから協力した。嫁ぎ先が一条家となった時には素直に喜んだ。だがその事が俺を土佐から琉球へとずっぽりと関与させる事になった。不思議な事だな。




禎兆七年(1587年)    八月下旬      山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏  九条兼孝




「今頃は相国も左府より結果を聞いておりましょう。さて如何思ったか。天下統一を優先出来ると喜んだか、それとも琉球を攻め獲れぬと不満を持ったか」

そう言うと太閤殿下が“ほほほほほほ”と笑い声を上げた。帝、院が困った様な表情をされている。真、困ったものよ。

「笑い事ではおじゃりませぬ。この問題、拗れれば厄介な事になりました」

太閤殿下を窘めると帝、院が微かに頷かれた。


「拗れればでおじゃろう。だが拗れなかった」

「朝議の場では公家達の中には親書を突き返すべきだと強く主張する者も居たとか。そのように左府から聞いております」

太閤殿下も笑うのを止めた。清涼殿の一角、常御所の中に沈黙が満ちた。帝、院、太閤殿下、私、皆沈黙している。


「確かに厄介な事でおじゃるの。相国は些か強過ぎる。足利とは違う。その分だけ公家達も強気になるのやもしれぬ。良い事なのか、悪い事なのか……」

太閤殿下の言葉に帝、院が頷かれた。足利は弱かった。国内を纏める事も出来なかった。国の外の事など考える余裕は無かっただろう。公家達も今回の様な事が起きても琉球の無礼を咎めて足利に琉球を討てとは誰も言わなかったに違いない。


「まあ何はともあれ琉球は方が付きました。次は朝鮮でおじゃりましょう」

「相国は琉球よりも朝鮮の方が交渉は難しいだろうと言っておじゃった。明とは地続きだからの」

「対馬の事もおじゃります」

「そうよの、対馬を忘れては行かぬ」

皆が厳しい表情をしている。対馬の宗氏が朝鮮に従属していた。となれば朝鮮は対馬を朝鮮の領土と主張してくる可能性は有る。国交だけでなく対馬の帰属を巡る争いにもなろう。場合によっては戦という事も有る。相国が朝鮮との交渉は天下統一後というのもその辺りの事を考えての事であろう。


「太閤、関白、明が滅ぶという事が真に有るのか?」

帝の御下問に太閤殿下と顔を見合わせた。帝は不安そうになされている。

「明では皇帝の悪政により民が苦しんでいるそうにございます。悪政が続き民が土地を捨て逃げるようになれば、そして逃げた民が集まって明に対して反乱を起こすようになれば危ういだろうと相国は申しておりました。ただそれが何時の事になるかは分かりませぬ」

太閤殿下の言葉に帝、院が頷かれた。


「また、明の外の事もございます。明の外から明を窺う者が有れば、国内の混乱に乗じて攻め込むという事も有りましょう。国の内と外、内憂外患に悩まされれば如何に明が大国とはいえ国が傾き滅ぶ事は十分に有り得る事でございます」

太閤殿下の言葉にまた帝、院が頷かれた。


「信じられぬ事では有る。だが琉球が我が国に服属を申し出てきた。有り得る事なのであろうな」

「……」

「天下は天下の天下なり、一人の天下に非ずして天下万民の天下なり。今更では有るが真にその通りであると思う。明の皇帝はそれが分からぬのであろう。民が見えておらぬのじゃ。見えぬから悪政を施く……」

帝が首を御振りになった。


相国がその言葉を欲しがった時、賛成出来なかった。あの時は相国の真意を理解出来なかったのだ。だが今ならはっきりと分る。足利が滅び明も危ぶまれている。民が見えておらぬ者は滅びるのだ。今後朝廷の役割はその言葉をその時の権力者に伝えて行く事になるのだろう……。




禎兆七年(1587年)    九月上旬      山城国久世郡 槇島村  槇島城  朽木滋綱




早急に槙島城に来いとの命令を受けて槙島城に赴くとそこには万千代も居た。万千代も俺と同じ命を受けたらしい。万千代は昨日戻ったようだが話は俺が戻ってからと言われた様だ。少し話をしようかと思っていたら直ぐに大広間に来いと父上に呼ばれた。父上らしいせっかちさだ。


万千代と二人で急いで大広間に向かうとそこには父上と評定衆、奉行衆、相談役が揃っていた。新任の松永弾正殿も居る。驚いた、父上が暫く前から京に居る事は知っているが評定衆達も一緒だったらしい。

「琉球の使節達との見聞は如何であった?」

「はい、昨年は地震の跡が結構あったが今年はそれが無いと使節達は驚いておりました」

「某も同じ事を聞きました。使節達は頻りに感心しております」

父上が満足そうに頷かれた。重臣達の顔にも笑みが有る。


「琉球が日本に従属を申し出てきた事、知っているか?」

俺が“はい”と答えると万千代も“知っております”と答えた。

「親書の事も知っているか、宛先が俺である事だが」

万千代と二人で“はい”と答えた。その事が問題になっている事も知っている。それを言うと父上がまた満足そうに頷かれた。万千代は訝しげな表情をしている。説明すると“なるほど”と納得した。


「受け入れるのでございますか?」

問い掛けると父上が頷かれた。

「既に帝からの御言葉が有った。琉球、朝鮮の事は俺に任せるとの事だ。琉球も朝鮮も明の家臣、帝が直接応待する者に非ずという事だ」

直接応待する者ではない。だが拒絶はしない。父上が応対をする事で従属を受け入れるという事か。朝廷も色々と考えるものだ。


「琉球もなかなか強かだな」

強か? 如何いう意味だろう。琉球は日本に従属したのだが……。俺と万千代を見て父上が苦笑を浮かべられた。我らが理解出来ずにいる事が分かったらしい。

「天下を統一してからでは琉球に対しての応対が厳しいものになりかねぬ。だから今従属を申し出てきたのだ。実際に天下統一前に琉球と事を構えるべきではないという意見が朝廷には有った」

なるほど、と思った。琉球はこちらの情勢を見極めて従属してきたという事か。強かとはそういう意味か。


「従属したとは言うが油断は出来ぬし甘く見る事も出来ぬ」

「……」

「だがこれで琉球を通して明に働きかける事も可能になった。天下統一後は朝鮮との交渉に本腰を入れる事になる」

朝鮮か、対馬の宗氏を筑後に移したのも朝鮮が絡んでいた。対馬は今では朽木の直轄領だ。父上は以前から朝鮮を重視している。いや日本の外を重視している。


「三郎右衛門、万千代」

「はい」

「これから琉球の使節と服属の条件を詰めねばならん。その方等も討議に参加せよ」

「はい」

最近父上は俺と万千代を鍛えようとしている。俺は六角家を継ぐ、多分領地は遠方の筈だ。その為かもしれない。万千代は如何だろう? 雪乃殿の最初の男子だからな、それなりの男にしなければならないと御考えなのかもしれない。


「父上」

「何だ、万千代」

「琉球へ行きたいと思います」

万千代の言葉にどよめきが起こった。

「本気か? 行けば半年は戻ってこられぬぞ」

父上の言葉に万千代が“本気です”と答えた。


「父上の仰られる強かな国を見たいと思います。それに明という国も知りたい。琉球から明を見たいのです」

父上が声を上げて御笑いになった。

「なるほど、雪乃の子だな。良いだろう、行くが良い。元服もさせる。一人前の武士として送り出してやろう」

「はい!」

万千代が嬉しそうに返事をした。又父上が御笑いになった。






幾人かの方から大膳大夫の読み方について問い合わせを受けましたのでここで答えたいと思います。

正式名称は『だいぜん‐の‐だいぶ』です。ですが大夫の読み方は(たいふ/だいぶ/たゆう)とあります。戦国時代のころになると大名、国人領主が勝手に自称したことも有り読み方が崩れ『だいぜんたゆう』、『だいぜんだゆう』とも呼んだようです。そういう意味では『だいぜんだゆう』というのは正式な呼び方ではないと言えますが間違いとも言い切れないという事になります。十分に市民権を得ていた読み方なのでしょう。


ちなみに国立公文書館には『内藤左京大夫義泰家訓』というものが有りますがルビは『ないとうさきょうだゆうよしやすかくん』と書かれています。また海音寺潮五郎先生の天と地では『だいぜんだゆう』とルビが振られていますので現代でもそれは引き継がれていると思います。





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