虚実
禎兆七年(1587年) 二月中旬 肥前国佐賀郡大堂村 太田城 朽木基綱
「父上、龍造寺は攻めてきません」
もどかしそうな口調だ。
「そうだな」
「如何なさいますか?」
「さあ、如何したものか……」
俺が答えると三郎右衛門、孫六郎が困惑した様な表情を見せた。
いかんな、父親の、舅の権威が……。周囲には相談役、そして軍略方、兵糧方も居る。皆興味津々といった表情で俺と三郎右衛門、孫六郎を見ている。困ったものだ、娯楽が少ないからと言って朽木家の家族の会話を楽しむのはいかんだろう。
「まあ此処は待つ一手だな」
「待つのでございますか?」
「待つ。攻める事だけが戦ではない。待つのも戦だ。待つ事でこちらが有利になるのだからな」
三郎右衛門と孫六郎が頷いた。もっとも納得した表情ではない。“そうなの”、“それでいいの”、そんな感じだ。若いからな、敵を攻める、打ち破る、そんな華々しい戦に憧れているのだろう。俺なら楽が出来ると喜ぶところだが。爺むさいかな?
「動く事で有利になる事も有れば動かぬ事で有利になる事も有る。そこを考えなければならぬ。このままの状態が続けば肥前は十兵衛に攻め獲られる事になる。領地が無くなる事に隠居の配下の者達は耐えられまい。必ず騒ぐ。その分だけ隠居は追い詰められるのだ。焦らずに待て」
「はい」
二人が答えた。今度は納得したようだ。
最近三郎右衛門が良く話しかけてくる。無口な倅だと思っていたのだがな、必ずしもそうでもないようだ。いつも傍に居るので話しかけ易いらしい。八幡城ではいつも家臣達に囲まれて仕事をしている。その所為で遠慮していたようだ。俺ってあまり良い父親じゃないな。多少自覚は有ったが改めて認識した。ちょっと落ち込んでいる。
月が変わって二月になると朽木の第二軍は筑後を平定し九州南部、四国の兵と合流して七万まで兵力を増やした。龍造寺の隠居は肥前一国に押し込まれたわけだ。そして筑後川、この時代では筑紫次郎と呼ばれる川を渡って太田城を攻略した。おそらくは十兵衛の率いる第一の軍も動き始めた筈だ。筑前から肥前へと兵を進めているだろう。極めて順調だ。
しかしだ、嫌な予感がする。と言うか嫌な予感しかしない。一言で言うとそういう状況に有る。龍造寺の隠居は俺が川を渡ると四万の兵を率いて俺の前にやってきた。俺が川を渡るのを待っていたのだろう。速いわ、あっという間に距離を詰めてきた。狙いは俺の首一つ、そんな感じがする兵の動かし方だ。近江に帰りたくなった。
いや、太田城を攻略すれば隠居が出て来るのは分かっていたんだ。太田城は龍造寺家の本拠、佐賀城に近い。距離は五キロ程だ。必ず隠居は出て来る。隠居を引き摺りだす事で十兵衛を動かす。十兵衛が肥前を攻略すれば隠居は追い込まれる、そう思ったんだ。目論見は十分に当たった。
朽木勢と龍造寺勢は二キロ程の距離を置いて陣を構えて睨み合っている。こちらは太田城と多布施川の中間あたりに陣を敷いているが太田城から見れば幾分後方に陣が有るだろう。太田城には三千の兵を入れた。指揮官は鯰江満介だ。俺の陣を攻めようとすれば太田城から横腹を突かれるか後方を遮断される事になる。満介ならその程度の事は簡単に出来る。
隠居が俺を攻める時は太田城が一つのポイントになる筈だ。そして右には多布施川が有る。それほど大きな川ではないしこの時期だから水量も決して多くは無い。だが迂回攻撃を躊躇うぐらいの役割は果たしてくれるだろうと思っている。つまり敵は正面から来る。動きを予測し易いのだ。その分だけ隠居は兵を動かし辛い、戦い辛い筈だ。
本当は戦いたくないんだがな。この状況じゃ隠居は遮二無二攻めかかって来るだろう。そう思うんだが隠居は攻めてこない。もう五日もこの状態だ。如何にも腑に落ちない。そして面白くないのは内応を約束した連中から何の連絡も無い事だ。鍋島豊前守信房、龍造寺下総守康房、龍造寺安房守信周、小河武蔵守信俊、多久長門守安順……。余程に監視が厳しいのか、或いは寝返りを止めたか……。落ち着け。時間が経てば経つほどこちらが有利になるのだ。慌てずに待つのも戦だ。そう言い聞かせているんだが……。
禎兆七年(1587年) 二月中旬 肥前国佐賀郡大堂村 太田城 朽木基綱
「倒れた? 嘘だろう?」
「いえ、真にございます」
俺の問いに千賀地半蔵則直が首を横に振って答えた。
「何時の事だ?」
「四日前の事にございます」
「四日前……」
思わず声が出た。半蔵が頷く。陣を布いたその翌日に倒れたのか……。龍造寺山城守隆信が倒れた……。人払いを願うから何かと思ったが確かにこれは重大ニュースだわ。
「これから決戦だと意気込んだ直後に胸の痛みを訴えもがき苦しんだそうにございます。僅かな時間では有りましたが痛みはかなりのもので有ったとか」
胸の痛み、もがき苦しんだ、僅かな時間か。おそらくは狭心症だな。痛み以上に恐怖感を凄く感じると聞いた事が有る。
「……誰から聞いた?」
「多久長門守にございます」
多久長門守の妻は誅殺された鍋島孫次郎の娘だ。その事で将来に不安を持っている。そして多久は龍造寺の一族でもある。隠居の傍に居られる男だ。情報源としては問題は無い。後は嘘を吐いていない事を祈るのみだ。
「周囲に今日の戦は無理だと止められ山城守本人も受け入れたそうにございます。翌々日、改めて軍議の席で山城守は決戦を主張し山城守の身体を気遣う者達と口論になり激しい苛立ちを示したとか。その折、皆の前で嘔吐をし虚脱したそうにございます」
嘔吐か、こいつも狭心症の症状の一つだ。昔見たテレビドラマでそんなシーンが有った。或いは心筋梗塞の前兆か。
虚脱という事は身体に力が入らなくなったのだ。おそらく吐いた後にだらしなく寝そべったのだろう。廻りがそれを如何見たか……。狭心症か、心筋梗塞か。心筋梗塞ならこの時代じゃ助からない。狭心症でも戦国武将としては終わりだ。無茶をすれば心筋梗塞に進行し死ぬ事になる。
「それ以後は?」
「山城守は休息を取っております」
「何故今まで報せが無かった?」
半蔵が“はっ”と畏まった。声が厳しかったかな?
「龍造寺の重臣達はこの事態を重く見ております。陣には厳しい警戒が布かれているとか。そのため簡単には報せが出せなかったと多久長門守言っております」
「なるほど」
有り得ない事じゃない。総大将の病気なんて広まったらとんでもない事になる。警戒を厳重にするのは当たり前の事だ。多久の報告に不審な点は無い。信じても良さそうな気がするな。
「伊賀者は如何だ? 確認出来るか?」
問い掛けると半蔵が首を横に振った。
「中々に難しゅうございます。、我等の手の者も陣には忍び込めますが奥深くにとなると……」
「難しいか」
「はい」
つまりこちらから確認は取れないという事か。誘導されている? 有り得るかな?
「多久以外の者からの報せは?」
「未だ有りませぬ。おそらくは警戒が厳しいので控えているのでしょう」
「そうか」
面白くない。情報が多久だけという事は偽りの可能性も有るという事だ。しかし病の症状は明らかに狭心症、心筋梗塞だ。不審な点は無い……。
「大殿」
「何だ、半蔵」
「龍造寺の重臣達は密かに集まり善後策を検討しているそうにございます」
「……」
「長門守もそれに加わっておりますが降伏すべしという意見も出たとか」
「……斬られなかったか?」
「は?」
半蔵が訝しげな表情をしている。
「降伏論を唱えた者だ。斬られなかったか?」
「いえ、斬られてはおりませぬ」
降伏論が出た。斬られていない。それが事実なら重臣達は降伏という選択肢を選ぶかどうかは別として認めた事になる。主戦論を吐く龍造寺の隠居が健在なら有り得ない事だ。隠居の統率力は明らかに低下した。重臣達は隠居の病を重く見ているのだ。
「如何なさいます?」
半蔵がじっと俺を見た。
「……龍造寺の陣から目を離すな」
「多久を疑っておられますか?」
「真実かもしれぬ。だが油断したくはない」
半蔵が頷いた。報告に不審な点は無い。十分に有り得る事だ。だが裏が取れないんだ。どうしても不安になる。半蔵も俺の不審を否定しない。俺と同様に疑っているのかもしれない。人払いを願ったのはそのためだろう。
「幸い待つ事に不都合はない。多久の報せが真実なら龍造寺には乱れが有る事になる。時が経てば経つほどその乱れは大きくなるだろう。その分だけ勝ち易くなる筈だ」
「皆様方には?」
半蔵が俺をじっと見ている。
「報せぬ。油断させたくない」
半蔵が畏まると下がって行った。報せると言ったら止めただろうな。油断だと怒ったに違いない。厳しい世界だ。
報せが事実なら龍造寺の隠居は狭心症だ。近年の隠居は酒色におぼれ肥満したと聞いている。高血圧、高脂血症、肥満だ。狭心症になってもおかしくはない。狭心症だけじゃない、他にも病を抱えている可能性も有る。前には大軍、そして肥前には十兵衛が攻め込んでいる。戦って勝つ、いや俺の首を獲るという難しい戦をしなければならない。この状況で隠居の身体は耐えられるのか? 現状では耐えかねているように見えるが……。ストレスが掛かれば掛かるほど隠居の心臓は蝕まれていく。待とう、待つんだ。油断せずに待つ。
禎兆七年(1587年) 二月下旬 肥前国佐賀郡大堂村 太田城 朽木滋綱
「正面より敵、激しく攻めております。御味方、苦戦。敵の大将は成松遠江守、百武志摩守、江里口藤兵衛の模様! 兵、約八千!」
使番の報告に“おお”と声が上がった。成松遠江守、百武志摩守、江里口藤兵衛、龍造寺の四天王と言われる者達だ。その男達が攻めてきた。こちらの不意を突いた夜襲。味方は押されている。此処にまで喚声が聞こえる。本陣の中は痛い程に空気が強張っている。
「御苦労だな。増援の要請は?」
「今のところはございませぬ。田沢又兵衛殿、酒井左衛門尉殿、後藤壱岐守殿、大久保新十郎殿、千住嘉兵衛殿、力を合わせて敵の攻勢を防いでおりまする」
父上が頷かれた。大丈夫だ、味方は踏み止まっている。
龍造寺勢が夜襲をかけてきた。伊賀衆の報せで間一髪不意を突かれる事は免れたが味方は劣勢だ。
「太田城は如何か?」
「敵は抑えの兵を五千程おいております。その為太田城の御味方は動く事出来ませぬ」
父上が頷かれた。
「太田城に攻めかかっているわけではないのだな」
「ございませぬ」
「分かった。下がってよい」
父上は何時もと変わらない。味方が不利な状況にあるのに落ち着いている。軍扇を右手に持って左手の掌を軽く叩いている。
「太田城には攻めかからぬか……。戦線を広げたくないという事かな。だが正面からは成松と百武と江里口、ふむ、気に入らぬな」
父上が顔を顰められた。
「毛利右馬頭に使いを出せ。多布施川より敵が来る恐れあり、直ちに備えよと。必要と有れば川を渡る事も許す。急げ!」
父上の命に使番が走り出した。
「敵が多布施川を越えて来ると御考えでしょうか?」
祖父の平井加賀守が問い掛けると父上が首を横に振った。
「分からぬ。だがな、舅殿。正面から四天王の三人が攻め寄せてきた。此処を攻めるのなら太田城は邪魔な筈だ。それなのに龍造寺は攻めかかろうとしない。おかしな話ではないか?」
父上の言葉に皆が頷いた。
「隠居が太田城を攻めれば俺も援軍を出す。そうなれば隠居は更に兵を出す事になる。つまり太田城に兵を取られる事になるのだ。隠居はそれを避けたのではないかな?」
「多布施川からの迂回攻撃の為でございますか?」
真田源五郎が問うと父上が頷かれた。
「うむ。そう考えると納得がいく。正面から四天王の三人が攻めてきたのはこちらの眼を引き付けるためだと思う。隠居の狙いは別働隊に多布施川を越えさせてこちらの横腹、或いは後ろを突く、そんなところだろう」
彼方此方で“なるほど”。“確かに”という声が聞こえた。
「隠居の兵は四万。太田城の抑えに五千、正面から八千。残りは二万七千だ。追撃の為の兵も要る。それを考えると別働隊に二万は出せまい。精々一万五千だ。ならば別働隊は毛利勢に任せよう」
なるほどなあ、そういう事か。孫六郎殿も頻りに頷いている。父上は凄い。戦上手な所を初めて見た。八幡城に居ては少しも分からない。
「太田城を抑える敵は如何なされます?」
重蔵が問い掛けた。
「一条、長宗我部に攻めさせる。追い払った後は成松達を攻撃させよう。簡単に潰せる筈だ。まあ隠居が後詰を出すだろうがな。使番を出せ!」
どよめきが起こり父上の命に使番が走り出した。
「隠居め、小細工をする」
父上が御笑いになった。でも何時もの穏やかな笑みではない。冷たい、蔑むような笑みだ。
「父上、小細工とは?」
父上が私を見た。冷たい笑みを浮かべたままだ。ヒヤリとする。初めて父上を怖いと思った。
「伊賀の半蔵がな、隠居が倒れたと報せを持って来た」
「まさか!」
自分だけじゃない、皆が“まさか”と言っている。
「我等は聞いておりませぬが?」
曽衣が問い掛けると父上が声を上げて御笑いになった。
「確証が得られなかったのでな、報せなかった。半蔵も同じ想いだったのだろう。人払いを望んだ」
「……」
「どうやらこちらを油断させるための計略だったようだ。なかなかの出来栄えだったが今一つ足りなかったな」
父上がまたあの笑みを浮かべられた。冷たい笑み……。父上は龍造寺山城守を蔑んでいる。そんな小細工に引っかかると思ったのかと蔑んでいるのだと思った。
「孫六郎殿、三郎右衛門、勉強になったかな?」
「はい」
声を合わせて答えた。父上が頷く。
「戦とはな、このように騙し合いなのだ。上手に騙した方が勝つ。良く覚えておく事だ」
「はい」
答えると父上が頷かれた。何時もの穏やかな笑みを浮かべた父上だった。




