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もうご存知かと思いますが七月十日に『淡海乃海 水面が揺れる時』の第三巻が発売される事になりました。御手に取って頂ければ幸いです。




禎兆六年(1586年)    十月上旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  朽木基綱




「父上」

「父上」

福と駒千代が俺を呼びながら抱き着いて来た。やれやれだ、それぞれを膝の上に乗せた。二人とも嬉しそうにしている。福が八歳、駒千代が六歳か。まだまだ甘えたい盛りだな。


「二人ともいけませぬよ。大殿は御怪我をされたのですから膝の上に乗るのはお止めなさい」

辰が心配そうな顔をしている。いかんなあ、子供達が顔を上げて不安そうな表情を見せているじゃないか。

「大丈夫だ、辰。もう心配は要らぬ」

「ですが」

「大丈夫だ」

心配は要らない。屈伸も問題無く出来るし走る事も出来る。鎧を着て歩いても全然問題無かった。アキレス腱も十分に伸ばせるのだ。子供達を膝に乗せる事など何の問題も無い。頭を撫でてやると二人とも嬉しそうにしている。


「半年後には子が生まれる。目出度い事だな」

「はい」

辰が嬉しそうに答えた。辰の御腹には俺の子がいる。大体三カ月ぐらいとの事だ。来年の六月には生まれているだろう。暑くなる前に生まれるのだ。何よりだ。だが辰が子を産むとなれば篠も欲しがるだろう。張り合うわけではないが二人とも従姉妹で仲が良いからな。困ったものだ。


「弟か妹が生まれる。嬉しいか?」

「嬉しいです」

福と駒千代が声を揃えて嬉しいと言った。それを聞いて辰が嬉しそうに笑い声を上げた。幸せそうだ。ホッとした。


十五年程前になるか、篠と共に俺の所に来た時には酷く怯えていた。表情も暗かった。だが今の辰は明るく笑っている。辰を側室にする事は迷ったが間違ってはいなかったのだろう。後は温井の家を再興させる事だ。駒千代が元服したら再興させよう。喜んでくれる筈だ。


「もう直ぐ御出陣ですが御戻りは何時頃になりましょう?」

不安そうな表情だ、胸が痛んだ。

「そうだな、はっきりとは言えぬが半年から一年先になるだろう。子が生まれる前に戻れるか、難しい所だ」

「左様でございますか」

寂しそうな顔だ。“済まぬな”と謝ると辰が慌てて“申し訳ありませぬ、はしたない真似を致しました”と謝った。


「しかしな、一番大変な時に傍に居てやれぬ。辛かろう」

「子を産むのは三度目です。慣れております」

「そうか」

「御無事でのお戻りを待っておりまする」

嘘だ。今だって無理に微笑んでいるのが分かる。傍に居て欲しいと思うのは当然の事だ。


「名を考えた。男なら文千代、女なら香だ。如何かな?」

「文千代でございますか?」

「うむ、戦が無くなる時代が来る。そうなれば武よりも文だ。そう思ったのでな」

「良い名前だと思います」

“文千代”、“文千代”と繰り返した。嬉しそうにしている。女だったらどうするんだろう。香だって良い名だと思うんだが……。


少しの間子供達と遊んでから園と龍の所に行った。龍が嬉しそうに俺の側に来た。龍は八歳になった。随分と大きくなった。

「もう直ぐ寒くなる。風邪を引かぬように暖かくするのだぞ」

龍が“はい”と言って頷いた。

「園、あと五年、遅くとも七、八年すれば龍を嫁に出さなければならんな」

「はい」

俺と園の会話を聞いて龍が不安そうにしている。


「如何した?」

「……」

「父に遠慮は要らぬぞ。思った事を言いなさい」

「行きたくありませぬ」

「嫁にか?」

「はい」

思ったよりも強い口調で戸惑った。普通女の子って嫁に行きたがるものじゃないのかな? 園に視線を向けたが園も困惑している。


「今直ぐというわけではない。龍が大人になったらだ」

「此処に居てはいけませぬか?」

「此処に居たいのか?」

「はい、いけませぬか?」

「駄目だとは言わぬが……」

龍が嬉しそうにした。園は戸惑ったままだ。母親が心配なのかな? それとも今川、北条の者達と離れたくないのか。後で園と話してみようか。


「園、もう直ぐ出陣だ。永源寺には行けそうにない。済まぬな」

「いいえ、そのような」

「今川家、北条家、武田家の方々には済まぬと伝えてくれ」

「はい」

北条が滅びてから七年、武田が滅びてから九年が経っている。今川が滅びたのは更に前だ。この十年で大きな家、名門が次々と滅びた。その中には織田、徳川も有る。目まぐるしい程だ。


今月の末には馬揃えが有る。そして九州出兵だ。九州が終わったら俺も関東に行こう。一気に制圧し東北に向かう事にしよう。天下統一だ。




禎兆六年(1586年)    十一月上旬      安芸国佐東郡  比治村  比治山城  朽木基綱




「十兵衛、久しいな」

「真、久しゅうございます」

十兵衛がにっこり笑みを浮かべた。相変らずのイケメンだ。若い頃よりも渋さが出て男振りが上がっている。女には持てるだろうな。羨ましい限りだ。でも十兵衛は愛妻家で側室は居ないらしい。奥方は幸せだろう。


「随分と城下が賑わっているな」

俺の言葉に付き従ってきた家臣達が口々に同意した。相談役の四人、真田源五郎、宮川重三郎、荒川平四郎達の軍略方、蒲生忠三郎、鯰江左近、吉川次郎五郎達の兵糧方、他に田沢又兵衛、小山田左兵衛尉、立花道雪、高橋紹運……。倅の明智十五郎も素直に感嘆している。皆の賛辞を受けて十兵衛が顔を綻ばせた。


「海が近くにありますし土地も開けております。山陽道も通じている。これほど良い土地は滅多に有りませぬ。この地を拝領出来たのは真に有り難い事で……」

「一向一揆の問題が有ったからな。信頼出来る者に預ける必要が有った。実際戦が起きた。後始末で随分と人が減った筈だ」

皆が頷いた。吉田郡山城に立て籠もった一揆勢は悲惨な籠城戦に追い込まれた。降伏後は安芸から追放された。人口減少は十兵衛にとっては大きな痛手だった筈だ。だが今ではそれが想像出来ないほどに賑わっている。


「安心して暮らせる土地だと分かれば、そして豊かに成れる土地だと分かれば人は集まってきます」

「そうだな。だがそれを理解させるのは簡単ではない。十兵衛の領主としての力量だろう」

「お褒め頂き恐縮にございまする」

人間なんて臆病な生き物なんだ。今ある暮らしを捨てて新しい土地へなんて簡単にはいかない。人を集めたという事は十兵衛には内政家としての力量も有るという事だ。


安芸では一向門徒が排除された後、天台宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗、浄土真宗の高田派、佛光寺派等が進出した。それらは十兵衛が俺に推薦し俺が許す事で行われた。勿論、決して信徒を唆す様な事はしないと誓紙も出して貰った。本願寺派の一大拠点であった安芸では坊主だけでは無く信徒も叩き出されたのだ。違反するような者は居ないだろう。


「京では御馬揃えをなさったと聞きましたが」

十兵衛が羨ましそうな顔をしている。そうだよな、出たかっただろうな。

「うむ、今回は初めてだったのでな。人数を抑えて畿内の者を中心に行った。朝廷も御慶びであった。次に行う時は山陽、山陰、四国、九州の者も参加させようと思っている」

「楽しみにございます」

十兵衛が嬉しそうに言った。口約束じゃないぞ、朝廷からは催促が来ているのだ。


馬揃えは成功だった。公家達は娯楽に飢えているから珍しい物には直ぐに飛びつく。大勢の武者達が参加したがその武者達がそれぞれに何百人、何千人、何万人を指揮する男達なのだ。その武者達が自分達の前を名を名乗りながら行進する。公家達は名乗りを聞く度に何処の領主で何人ぐらいの大将だと話し合ったらしい。京の町民達も見物に集まった。それを見込んで食べ物を売る者も集まった。大騒ぎだったな。


琉球の使者達も馬揃えに参加した武者達は朽木に属する一部の者だと知って驚いている。九州遠征は十五万近い軍勢が動員されるという事に半信半疑だったようだが馬揃えと実際の軍勢を見て納得したようだ。連中、かなりこちらに心が傾いている。後は九州遠征が上手く行けば琉球は日本に服属するべきだと琉球に戻ってから報告してくれるだろう。




禎兆六年(1586年)    十一月上旬      周防国吉敷郡上宇野令村 高嶺城  小早川隆景




朽木軍が周防国に集結した。凄まじい程の大軍だ。前回の九州遠征に匹敵するだろう。相国様が龍造寺を決して軽視していないことが分かった。この時期に戦を行うのも野分を避けての事。島津攻めで有った失敗は繰り返さないという事だ。その面でも慎重だと分かる。大軍に安んじてはいない。直ぐに軍議を開く事になった。


「先ずは大友の状況を聞きたい。臼杵城は如何いう状態か?」

相国様が問い掛けてきた。

「暑さも和らいだ事で流行り病も収まったようでございます。なれど宗麟殿が……」

「宗麟が?」

「病に倒れたと」

私の言葉に朽木側から驚きの声が上がった。相国様も驚いている。


「流行り病とは別なようです。おそらくは心労からのものでございましょう」

「危ないのかな?」

「それは分かりませぬ。ですが起き上がれぬとか」

シンとした。宗麟はもう五十を過ぎている。今回の籠城戦はかなり堪えたのだろう。おそらくは長くあるまい。


「宗麟が倒れたとなると大友の反撃等というものは期待出来ぬな」

相国様の言葉に皆が頷いた。宗麟の息子、五郎義統が凡庸で頼りにならぬというのは皆が分かっている。

「源五郎、説明を」

「はっ、軍略方の真田源五郎にございます。九州攻めの方策を説明いたしまする」


真田源五郎か。相国様の信頼が厚いと聞いている。かなり出来るのだろう。その事は近江に送った藤四郎、次郎五郎からの報告でも分かっている。真田は元々は信濃の国人であったが父親の代に武田氏に仕えた。だが信玄の死後、致仕して朽木に仕えている。真田家は伊勢の北畠一族の誅殺にも関わっている。なかなかのやり手だ。


「先ず龍造寺勢でございますが肥前を中心に筑前、筑後、肥後、豊前、豊後を領しその兵力は約四万から五万に達すると見ております。しかし朽木勢が兵を動かしてからは兵を戻し肥前に集中させつつあるという報告が上がっております」

籠城では有るまい、龍造寺山城守は決戦を望んでいるのであろう。


「筑前に兵を上陸させた後、全軍で筑前を攻略します。その後、兵を三手に分けまする。第一の軍は肥前へ攻め込みます」

肥前の制圧か。龍造寺の本拠地を突くという事だな。一番きつい所だ。おそらくは主力、精鋭だろう、相国様が率いる筈だ。先鋒は我等毛利が請け負わねばならん。隣で兄が厳しい表情をしていた。損害は大きなものになると思っているのかもしれない。


「第二の軍は筑後を目指しまする。筑後平定後は肥前へと攻め込みまする」

龍造寺は主力の第一の軍に対処しようとする筈、筑前から筑後は楽に攻め獲れよう。となると第三の軍は豊前から豊後か。此処は大友から龍造寺へ寝返った者達の平定戦になる。難しくはない。実際に真田源五郎が第三の軍は豊前から豊後を攻めると言った。


「では次に各軍の兵力と大将を発表しまする。第一の軍の総大将は明智十兵衛殿が務めまする。兵力は約七万、従う大将は後程紙で貼り出しまする。御確認頂きたい」

どよめきが起こった。明智が大将? 主力ではないのか? では相国様は?

「第二の軍は兵力は五万、大殿が総大将を務めまする。第三の軍の総大将は朽木主税殿、兵力は三万となりまする」

ざわめきは止まらない。相国様が第二の軍を率いる、しかも兵力は五万? 第一軍よりも少ない。つまり龍造寺の主力を本拠地から引き摺り出そうという事か……。


相国様が立ち上がった。ざわめきが止まる。

「もう分かっていると思うが俺が第二の軍を率いるのは龍造寺の隠居を引き摺り出すのが目的だ。先ず俺が軍を動かす。隠居も兵を起こした以上、籠城などはすまい。俺の首を狙って出撃して来るだろう。第二の軍は厳しい戦いをする事になる」

皆が頷いた。

「十兵衛」

「はっ」

「第一の軍は龍造寺の隠居が兵を動かしてから肥前に攻め込む。第一の軍が肥前を順調に攻略しているとなれば隠居はともかく配下の者達は落ち着くまい。必ず焦る、そこに狙い目だ」

明智十兵衛が“はっ”と畏まった。


「主税」

「はっ」

「豊前、豊後について大友が何か言ってきても無視して良い。その方の役目は豊前、豊後を平定する事。それに専念せよ」

「はっ」

朽木主税が畏まった。


「その他にも薩摩、大隅、日向、南肥後の兵を纏めて肥後から肥前へと攻め込ませる予定だ。四国の兵も参加する。勝てるだけの準備はしてある。焦らずに戦え」

「はっ」

皆が頭を下げ畏まった。




禎兆六年(1586年)    十一月上旬      周防国吉敷郡上宇野令村 高嶺城  朽木基綱




軍議が終わると別室で毛利家の主だった者達との懇談になった。主だった者と言っても右馬頭輝元、駿河守元春、左衛門佐隆景、安国寺恵瓊の四人だ。朽木側からは俺と十兵衛、主税と四人の相談役。毛利は俺の直下で動く。毛利軍一万五千の存在は大きい。この会談は齟齬を無くす為でもある。


「驚きました、相国様が第二の軍を率いられるとは……」

恵瓊が首を振っている。いやね、軍略方にも反対する人間は多かったのだよ。だが押し切った。一番拙いのは粘られて長滞陣になる事だ。

「龍造寺山城守、出てきましょうか?」

「さあ、分からんな、左衛門佐殿。出て来れば十兵衛が肥前を攻略し易くなる。出て来なければ俺が筑前から筑後を攻略して肥前に向かう。俺が肥前に入った時点で十兵衛も肥前に入る。隠居は俺と十兵衛を相手にする事になる」


皆が頷いている。俺と十兵衛を肥前に入れてしまえば隠居はもう動けない。国人衆は次から次へと寝返るだろう。そうなれば動かせる兵力も減る。勝算は益々少なくなるのだ。そうなれば調略を施していた連中も裏切る筈だ。彼らは龍造寺の中枢に居る人間なのだ。それが裏切る、影響は大きい。


隠居は俺を肥前に誘い込み乾坤一擲の大勝負をと考えているだろう。俺が肥前に来ないと知れば隠居は怒り狂うだろうな。その後は悩み、苦しむだろう。俺の狙いは隠居も理解する筈だ。そして出て来る。俺との乾坤一擲の戦いを挑んで来る。それ以外に龍造寺が勝つ手段は無いのだから。


戦わないぞ、隠居。俺はお前を引き摺りだした後はじっくりと構えて待つつもりだ。十兵衛の肥前平定が進むにつれてお前の軍は弱くなる。そして戦えなくなる。俺が兵を動かすのはその時だ。お前は戦う事無く俺の前に敗れるだろう……。


悔しいだろうな、卑怯だと思うかもしれない。だがな、戦とは殺し合い、騙し合いなのだ。正々堂々等というのは物語の中だけだ。お前がこの戦に賭けている物は何だ? 九州制覇? 或いは龍造寺の自立か? 俺が賭けているのは天下だ。負けるわけにはいかない。だから卑怯と言われようとも勝つ。




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この黒さ、やはりココアみがありますね(^^)
[一言] 園は尼にならなかったか?
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