流亡
禎兆六年(1586年) 五月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「明が滅ぶとは思わぬかと問うてみよ」
通訳が三人の使者に話しかけると使者達が困った様な顔をした。
「答え辛いか? だがそれは明が滅ぶと見ているという事であろう? 違うのか?」
通訳が重ねて問うと三人が更に困った様な顔をした。一応宗主国だからな、滅ぶとは言い辛いか。
「琉球は如何するのだ? このまま明を頼むのか?」
通訳が質問しても無言の儘だ。
「明を頼んでも今の状況では万一の時に助けてくれるとは思えぬ。それに琉球が滅んでも明は少しも困るまい。違うか?」
史実では実際に見捨てられた。朝鮮とは違うのだ。琉球は明の安全保障上重要な国では無い。海に浮かぶ石ころのような国だ。
「その方等、何のために此処に来た? 遊覧、見物か?」
通訳が俺の言葉を伝えると一人が口を開いた。他の二人が慌てて止めようとするがそれを振り切って何事かを言った。馬鹿にされて怒ったらしい。
「皇帝は若くこのまま悪政が続くなら明は滅びるかもしれない。例え滅びずとも琉球を守ってくれないかもしれない。仰るとおりである。我らが此処に来たのも琉球が進むべき道を探るためである。と申しております」
「明が滅ぶというのはその方だけの意見か? それとも琉球にも同じ考えを持つ者が居るのか?」
通訳が問うとまた同じ男が答えた。
「国許にも同じ事を考える者が少なからず居ると申しております」
なるほどな、琉球でも明を見限る人間が出てきたわけだ。となると後は日本を頼れるか如何かの見極めか。
「今九州で騒乱を起こしている者が居る。俺は怪我をしていてな。今しばらくは動けぬ。軍を動かすのは十一月頃であろうな。その方等、俺の軍に同行せぬか? 琉球へは薩摩から戻れば良かろう」
通訳が伝えると三人が顔を見合って頷いた。どうやら賛成か。良いだろう、朽木の軍事力を見せる良い機会だ。この後は帝との謁見が有る。謁見が終われば見たい所を案内させると伝えて下がらせた。
「凄まじいものでございますな」
宮内少輔の呟きに皆が頷いた。なんて言うか皆毒気を抜かれた様な顔をしている。まあ確かに桁外れの愚行では有る。
「国が亡ぶとは思わぬのでしょうか?」
重蔵が首を傾げている。
「思わぬのだろうな。思えばしない筈だ」
皆が頷いた。もっとも納得した様な表情ではない。何処かで信じられずにいるのだろう。俺だって万暦帝がどうしようもない阿呆だったと知っているから納得出来るだけだ。そうでなければ俺も信じられなかっただろう。
万暦帝には危機感が無いのだろうな。危機感が有れば配慮をする。無いから傲慢になる。傲慢と馬鹿は同義語だ。
「真、明は滅びましょうか?」
舅殿が問い掛けてきた。視線が痛い、皆の視線が俺に集まっている。
「このままの悪政が続けば滅ぶだろうな」
「如何程続けば?」
「分からぬ。だがな、舅殿。大陸で国が亡びる時には一つの流れが有る」
「と申されますと?」
舅殿、そして他の三人が興味津々という表情で俺を見た。
「悪政が続き税が重くなる。苛政だな、その所為で逃げ出す百姓が現れる。特に飢饉が起きれば逃げ出す百姓は更に増えるだろう。その逃げ出した百姓が国に対して反乱を起こす。皆不満を持っているのだ。あっという間に反乱は拡大する」
黄巾の乱、黄巣の乱、紅巾の乱、李自成の乱等だ。黄巾の乱は後漢末、黄巣の乱は唐末、紅巾の乱は元末に起きた。黄巾の乱、黄巣の乱は鎮圧されたがそれぞれ三国時代、五代十国時代という混乱の時代を生み出す。紅巾の乱は明帝国を生み出した。唯の百姓一揆等とは馬鹿に出来ない。大陸の百姓は気が荒いのだ。
「それで国が亡ぶと?」
曽衣が首を傾げている。日本じゃ百姓が一揆をおこして天下を獲ったなんて無いからな。想像が付かんのだろう。
「とは限らぬぞ。反乱は鎮圧される場合も有る。だが国の中で争うのだ、間違いなく国の力は著しく落ちる。異国に滅ぼされる事も有る」
明は李自成の乱で滅んだ。その李自成を潰して中国を奪ったのが女真族だ。彼らは清という帝国を造った。
「年間四百万から五百万の税収が有る。その内百万以上を墓造りに使う。間違いなく銭が足りなくなるだろう」
「では増税ですか?」
「間違いなくそうなる。百姓達が何処まで耐えられるかだな」
最初は塩だろうな。だが塩に増税しても税収は増えない。何故なら闇で売る塩が増えるだけだからだ。ついでに言うと闇で塩を売る人間も捕まらない。塩は生活必需品だ。誰だって安く買いたい。皆が庇うのだ。黄巣の乱を起こした黄巣は塩の闇業者だった。
この世界ではどうなるのだろう? 明の滅亡には秀吉の朝鮮出兵が密接に関与していた。財政面での負担は当然の事だが女真族の台頭も明の軍事力が朝鮮半島に集中した事が要因として有った筈だ。俺は朝鮮出兵なんてするつもりは無い。となると女真族の台頭は難しいのかな? 李自成が明を滅ぼして新たな帝国を造って終わりか?
可能性は有るだろう。しかしな、銀不足が如何影響するかという問題も有る。史実よりも銀が少ない中での苛政。国内での苛政はむしろ史実よりも悪化するんじゃないだろうか。となると内部崩壊は早まるのかもしれない。要注意だな。史実では十七世紀、豊臣が滅亡した後、家光の将軍時代に明が滅んでいる。少なくとも後三十年から四十年は明の時代が続く筈だが……。
禎兆六年(1586年) 五月下旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 朽木基綱
「そなたも参列すれば良かったものを」
「未だ怪我が十分に治っておりませぬ。御迷惑を掛けてはと思い遠慮致しました。」
「大丈夫なのか?」
殿下が心配そうな目で俺を見ている。ちょっとくすぐったい。
「後一、二ヶ月もすれば完治致しましょう。帰国の挨拶の時には某も同席しようと考えております」
殿下が安心したように頷いた。今は未だ輿で移動だ。大分良くなったんだが今一つ足を踏ん張れない感じがする。無理は出来ない。
「良い謁見であった。帝も院も御慶びであった」
「それは宜しゅうございました」
「琉球は暑いのじゃな、使者の話を聞いて帝も院も南国なのだと興味を持たれたようだ」
「左様で」
謁見が上首尾だった事で太閤近衛前久は上機嫌だ。何と言っても朝堂院の再建を頼んだのは殿下だからな。その内“おーっほほほほ”が出て 超絶御機嫌モードに突入するかもしれない。
「皆、随分と楽しんだようじゃ。汗をかきながらの」
「謁見でございますか?」
「うむ、大極殿での謁見など絶えてなかった事じゃ。皆先祖の日記を引っ張り出してと言いたいところじゃが記録が残っている日記など僅かしかない。記録の残っていない家が多い状況でな。色々と聞きまわっていたの。当家にも随分と尋ねてきた」
「なるほど」
そうだろうな、摂関家なら記録は残っているだろう。此処になければ何処にも無い筈だ。悪くないな。皆楽しんだのだ。朝廷内で外国の使者との謁見に反対する勢力は力を失ったと見て良い。大極殿を再建した甲斐が有った。
「まあ何処の家でも日記に記したであろう。子孫のためにの」
そう言うと殿下が口元を扇子で隠しながら“ほほほほほほ”と笑った。公家社会は前例主義だからな、無理も無い。
「当家の息子も随分と興奮しておった。嫁の方が落ち着いておじゃった」
「左様で……」
演技でもいいから驚けよ。可愛げが無いと思われるぞ。男なんて単純だから可愛げの無い女よりも馬鹿でも可愛い女に惹かれるものだ。
「なんでも三好に嫁いだ百合姫、彼女が近江に居る頃に琉球の使者に会っているらしい。筆談もしたらしいの。普通の人間であったとか」
「そんな事が……」
唖然としていると殿下が“ほほほほほほ”と笑った。
「知らなんだようじゃの」
「はい」
また殿下が“ほほほほほほ”と笑った。右近大夫将監だな、あの妖怪オタクは子供には甘いのだ。
殿下がぐっと身を寄せてきた。
「嫁は明が危ない事も知っておじゃったぞ。琉球の使者が日本を頼れるか如何かの見極めに来ている事もな。百合姫が文で報せてきたようじゃ」
「……」
困った奴。朽木家の内情を知り過ぎているな。外に出したのは失敗だったか。
「女は怖いのう」
「真に」
殿下が“ほほほほほほ”と笑った。俺も笑った、笑うしかない。
「で、如何なのじゃ?」
殿下が真顔で問い掛けてきた。
「琉球は未だ迷っております。ですが明は危ないと思い始めた者が増えつつあるようです。琉球の事だけを考えるなら日本にとっては追い風だと言えましょう」
「琉球の事だけ? 他に何か有るのか?」
殿下が訝しそうな表情をしている。
「明がどのように滅びるのか? 緩やかに滅び他の国に代わるのか、幾つかの国に分裂するのか、その辺りが見えませぬ」
「……」
史実のように緩やかに滅びるのなら良い。だが群雄割拠となった場合はポルトガルが絡んでくる可能性が有る。そうなれば中国の植民地化は早まるだろう。それが日本にどう影響するかが見えない。その事を話すと殿下が唸った。
中国大陸で或る統一国家が滅んだ時、直ぐに別の統一国家が中国を治めるとは限らない。後漢末は群雄割拠から三国時代、西晋の統一から五胡十六国時代、南北朝時代へと移行し隋による統一、その後再分裂して唐による統一で漸く中国は安定した。唐末から宋への移行も五代十国という分裂の時代を経ている。大陸を治めるというのは簡単ではないのだ。
「なるほどの、そなたの懸念は良く分かった。しかし本当に明は滅ぶのか? 琉球で滅ぶと見る者達が増えつつあるとは如何いう事じゃ? 何か材料が有るのか?」
「明の皇帝が酷いようで……」
万暦帝の墓の事を話すと殿下がホウッと息を吐いた。
「とんでもない話じゃの」
「はい」
また殿下が息を吐いた。
「この日ノ本でも仁徳の帝、応神の帝が大きな陵を築いておる。だが仁徳の帝も応神の帝も悪政を施いたとは言われておらぬ。無理のない範囲で負担を民に強いたのだと思うが……」
如何なんだろう? 良く分からない。だが大きな反乱が起こったとは言われていないのは確かだ。
「滅ぶかの」
殿下がじっとこちらに視線を当ててきた。
「百姓次第でしょう。百姓が土地を捨て逃げるようになれば危うい。最初は逃げるだけでしょうが追い詰められれば明に対して反旗を翻します。それが何時起きるか? 大陸の動向からは眼が離せませぬ」
殿下が“なるほど”と言って頷いた。
「そなたは墓を造ろうとは思わぬのか?」
「死んでからでも間に合います。その程度の墓で十分です」
「欲が無いのう」
“ほほほほほほ”と殿下が笑った。俺は笑えない。欲が無いんじゃない、根が小市民なだけだ。だが恥じるつもりは無い。国を傾ける様な馬鹿げた愚行と無縁でいられるなら小市民も悪くない。
「北野社も上手く抑えたようじゃの。宮仕達も当てが外れたであろう」
「彼らの権力争いに関わるつもりは有りませぬ。松梅院禅昌は菅公の祟りを訴え某もそれを認めました。だから北野社に復興費用の負担を命じております。禅昌もそれを快く受け入れた。禅昌に対して何の不満も有りませぬ。祠官解任など論外ですな。待遇改善など寺の中の事には関わるつもりは有りませぬ」
殿下が笑い出した。
宮仕達が銭を払えぬなんてぐずるからもうちょっとで北野社を焼くところだった。禅昌が何度も頭を下げるから北野社を焼く事は許してやったよ。だが宮仕達には二度と朽木家に逆らわぬと誓紙を出させた。禅昌は大喜びだったな。妙な話だが俺との関係を強化出来たし宮仕達を抑える事も出来た。それに復興費用を出す事で京の庶民達から感謝されているとか。北野社にお参りに来る人が増えたらしい。
「禅昌の後ろ盾になるか」
「はい。禅昌も理解したでしょう。某を敵に回すよりも味方にして小煩い身内を抑えた方が良いと」
「謝礼を弾みそうじゃの」
殿下がニヤニヤ笑っている。悪い笑顔だ。ここは敢えて大義名分を言おう。
「被災地の復興も捗ります。良い事尽くめで」
「笑いが止まらぬのう、相国。悪い男よ」
殿下が“おーっほほほほ”と笑い出した。超絶御機嫌モードだ。
禎兆六年(1586年) 五月下旬 山城国久世郡 槇島村 槇島城 伊勢貞良
「兵庫頭、謁見は上手く行った」
「左様でございますか」
「うむ、太閤殿下も御慶びであった。聞くところによれば院も帝も上機嫌であられたそうだ。謁見に反対した勢力は消えたか力を失ったらしいな。大極殿を造った甲斐があった。よくやってくれた」
「はっ」
大殿は満足そうに笑みを浮かべている。謁見は上手く行った。大極殿を造った甲斐があったと仰せになられた。琉球からの使者は今回で二回目、少しずつだが琉球を手繰り寄せつつあるのだろう。
「今回は琉球からの使者だがな、いずれは南蛮の使者も会わせたいと思っている」
「南蛮の使者も……」
大殿が頷かれた。
「あの者達を無視は出来ぬからな。直ぐではないぞ、刺激が強過ぎよう。いずれだ、謁見に慣れてからだな」
「はっ」
いずれか。だが十年とは掛かるまい。
「そのためにもだ。朝堂と朝集殿を再建し朝堂院を完成させなければならぬ。朽木の政に協力してもらうためにな」
「はっ」
藤原氏も平氏も娘を帝の后にする事で朝廷を牛耳ろうとした。大殿はそれを成されぬ。帝を囲うのではなく朝廷の庇護者として朝廷その物を囲おうとしておられる。
「十一月になれば兵を起こす」
「九州攻めでございますな」
大殿が“うむ”と頷かれた。
「そろそろ龍造寺の隠居と決着を着ける頃であろう。大友の始末も付けなければならぬ」
九州では大友が一方的に攻め込まれていると聞く。大殿は大友が役に立たぬと御考えなのであろう。
「そこでな、兵を京に集める故帝を御招待して馬揃えを行いたい」
「なんと!」
思わず声を上げると大殿が声を上げて御笑いになった。
「その上で龍造寺討伐に向かう。勅は頂かぬが勅を頂くのと同じ効果が有ろう。九州の者達にはそれなりに効果は有る筈だ」
「確かに」
また大殿が声を上げられた。
「既に太閤殿下には御相談してある。殿下も面白いと仰せだ」
「では?」
「うむ、やる。だが兵庫頭には復興作業を任せている。とても馬揃えにまでは手が回るまい」
「はっ、少々厳しいかと思いまする」
大殿が頷かれた。
「そこでな、曽衣にやらせようと思う。如何思うか?」
「飛鳥井殿で」
なるほど、元は公家、准大臣とも繋がりは有る。大殿との繋がりも深い。適任かもしれぬ。
「良き御思案かと」
賛成すると大殿が頷かれた。
「だが手助けをする人間が要る。与三郎を付けようと思うが如何か?」
「与三郎でございますか」
驚いて問い返すと大殿が頷かれた。
「願っても無い事でございます」
「では決まりだ。頼むぞ」
「はっ」
与三郎も既に二十歳を越えた。私の下で働くだけでなく他人の下で働く事も必要かもしれぬ。或いは大殿もそれを御考えなのか……。武田の家を継いだのだ。そろそろ与三郎を引き立てようという御考えも有るのやもしれぬな。




